明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史喫茶店(26)斎藤忠の「倭国滅びて日本建つ」を読む・・・その ⑥ 天武天皇の謎が今、解き明かされた!

2021-09-13 17:45:54 | 今日の話題

白村江の後の敗戦処理のおおよその推移を見ると、まず郭務悰等が3度日本を訪れた事実がある。664年に新羅から来朝、665年には劉徳高と一緒に唐から来朝、この時は254人の大人数だった。そして671年に2000人の大船団で来朝、軍隊を大宰府に駐留させ、唐に抑留されていたサチヤマ等の捕虜を返還した。日本ではこの年の12月に、天智天皇が病気で崩御している。なお、これらすべて「使者の表函」は、提出先が「大宰府」だ。そして、解放されたサチヤマは、九州阿毎朝・倭国王に戻ったものと想像される。それからしばらくして、日本国を二分する「壬申の乱」が起き、勝利したのが阿毎氏本宗家の当主の弟「大海人皇子」だった。

以上が大海人皇子の「天武天皇即位」までの略歴である。では何故、大海人皇子が「阿毎氏本家当主の弟」だと言えるのか?、・・・これが謎の「始まり」である。

1、天武の父親問題

日本書紀によれば大海人皇子は、天智天皇の「東宮太皇弟」すなわち皇位後継者だと書いている。ところが天皇の弟が皇嗣になった場合、「皇太弟」と作るべきが本来の漢語用法だと斎藤忠氏は言うのである。皇太弟は他の正史にも頻出する語法なのだが、天武天皇については何故か「そう書いていない」のだ。どうもこの「太皇弟」というのは使い方の怪しい用語である。さらには、孝徳紀には「皇弟」という人物が二度登場するらしい。皇弟と皇太弟と太皇弟、何だか裏に秘密があるようだ。日本書紀のような公的文書で使われる言葉というのは、厳密な用法が決まっている。だかあ用語の違いは、その裏の「実態」を反映していると考えるのが筋だと思う。この他にも不思議な点があり、例えば「天武紀」では天武天皇の「父親」について、天智の同母弟としか書いてない。天皇は男系相続が基本だから、父親が誰か書いていないのは「大問題」である。これは書紀と言う公文書の書き方としてはまさに「異例中の異例」である。「紀」つまり国家の正式の歴史書は、まず系譜を明らかにすることから始まる。父親の名前が書いてないと言うことは、「父親が誰かわからない人間」が天皇になっている、と国家の公文書が堂々と書いているのである(これは衝撃としか言いようがない!)。

天武が天智の同母弟と書いてあるのは、すなわち「父親は違いますよ」と言う「お決まり」の書紀の語法なのだ。天智の父親の舒明紀には、皇后の宝皇女との間に生まれた3男に「大海」皇子がいたと書いてある。大海と大海人、似ているようでもあり別人のようでもある。実は孝徳天皇も皇極天皇の同母弟とあるだけで、父親が誰かはハッキリとは書いていないのだ。これもまた不思議である。そもそも書紀において父親の名前が書いてないのは、「天武と孝徳の二人だけ」と言う説もある位だ(ちょっと盛りすぎか・・・)。また、天智の年齢は記述があるのに、天武については「全くの不明」である(後世書かれた「一代要記など」では、天智の4歳年上と言っているが証拠があるわけではない)。これは斎藤忠氏の説によれば、二人とも大和朝廷の人ではなく、阿毎朝倭国の君主だったから「ハッキリと書いていない」と言うのである。当然、父親は倭国系の人と言うことになる。・・・これは書紀が、倭国の歴史を剽窃する際の「いつもの書き方」であるから必ず疑ってみるのが常識だ。例えば天武の例で言えば舒明天皇の何年に第◯男として生まれる、とか「でっち上げ」て一筆書いておけば何の問題もないのにそれをしなかったと言うことは、少なくとも書紀編纂局の役人は「嘘は書いてない」し、歴史家としての良心がまだ残っているとも考えられるのである。天武の時代は書紀の完成した720年から「たった4、50年前の事」だから、天武の父親が「誰か」などと言うことは宮廷人の全員が「百も承知」の事実だったろう。このような、父親が誰で・いつ生まれて・年齢が幾つの時に亡くなった、と言うような「当然書いてなければおかしい」ことを日本書紀が書いていない場合、答えはただ一つ、それは「倭国の出来事」と言う事なのである。なるほど納得だ!(・・・但し、母親はヤマト朝廷の人である)。

この例で言うならば、舒明紀に書かれている大海皇子は、書紀編纂者の考えた「苦心の勘違い誘発記述」だと言うのはどうだろう。聖徳太子の例に見るまでもなく、書紀は読む人がさりげなく間違うように「誘導記事」を随所に書き加えているように見える。勿論、大海皇子の代わりに「大海人皇子」と書けばこういう問題は発生しなかったのだが、何故か書紀編纂者はそう言う風には書かなかった。これは多分、私の勝手な想像だが、実際に大海皇子と言う人が「いた」のだと思う。書紀編纂者の歴史記述は、全く一から捏造するほど「嘘つき少年」では無い、と言うのが私の考えである。あるいはこの時代の人には「全てが嘘」のような完全なデッチあげを捏造するほどの「想像力」は、現代人のようには働かなかった、とも言える(その点では、古代人は素朴・純粋だったと思いたい)。もしかすると何人かいたであろう編纂グループの中には、新たに見つかった九州倭国の記録を「何とか書紀に加えたい」と考えた人物がいたのではないだろうか。つまり単なる「歴史を保存したい」と言う歴史家としての衝動である。それは撰進責任者の指示が全体細部には及んでいなかったから、とも言えるのではないか。つまり、責任者の把握していない部分で、一担当者レベルの人物が自分の裁量で行った。そのように私は妄想する。勿論それが「誰か」は分からないけど・・・。

2、孝徳紀に出てくる「太子」とは誰のことか

白雉4年〜5年の孝徳紀の記述に、「太子、奏請して曰く、願わくは倭京に遷らむ云々」とある。一般的には、中大兄皇子が孝徳天皇を置いてきぼりにした時の話だ。この時、皇太子(中大兄皇子)は皇祖母尊皇極と間人皇后、「併せて皇弟等」を連れて倭飛鳥河邊の行宮に行った、とある。そして「時に公卿・大夫、百官人等は皆、従いて遷る」という記述があるのだ。まず、太子と皇太子の使い分けが目に付く。皇太子は文脈から中大兄皇子であるのは間違いない。では「太子」とは誰なのか?。考えられるのは孝徳の嫡子・有間皇子である。しかし有間皇子が倭京に帰ることを父の孝徳天皇に進言する程に中大兄皇子と意見が一致していたのであれば、孝徳天皇の孤独死の後、「心の病」と称して牟漏の湯に行くような政治から疎外されていた状況は想像しにくいのである。なお、有間皇子が「太子」と呼ばれていた事実はなさそうである。

とにかく太子と皇太子は別人のようだから、ここに新たな「謎の人物」が登場することになる。ちなみ我々は、「中大兄皇子」と何の疑問も抱かずに使っている人物名だが、実は中大兄皇子は日本書紀に中では「一度も皇子と呼ばれていない」というのである(ウソぉー!)。書紀は全て「中大兄」と呼び捨てだそうだ(これは驚きというしかない!、・・・これは斎藤忠氏の指摘によるが、今一度「原文」で確認する必要があると思う、まだやってないけどホントかしらん?)。詳しく読んでいくと、白雉4年に孝徳は退位を決意し、難波宮とは別に宮を造営させているらしい。つまり、太子と皇太子は別人で、この太子と呼ばれている人物は「遷都」を奏請し、聞き入れられないと百官を率いて倭京へ向かった。一方、皇太子(天智)は、母親と妹を連れて(大海人皇子も?)倭飛鳥河邊行宮へ移ったというわけだ。明らかに皇極や間人皇后らと百官等の「行き先」は違っている。書記の記述は二つに分かれた短い文章だが、太子と皇太子を別々の二人の人物に分けて読むことによって、今までの歴史書とは「全く違う光景」が見えてくるのである。斎藤忠、恐るべし!

太子が向かった倭京とは条坊が備わった京=京師だという。天智の向かった倭飛鳥河邊行宮は、ただの仮宮に過ぎない。だから百官が遷るには「無理がある」と斎藤忠氏は分析した。実に細かい読みである。もうこの辺りの説明を読んでいると、「シャーロック・ホームズの謎解き」を聴いているような快感すら覚えてしまうのだから感動である。これが斎藤忠氏の魅力なのだ!。ちなみに、倭京のモデルは言うまでもなく太宰府である。思うに「倭京」と書紀が書いているときは奈良県飛鳥地方のことではなくて、九州「太宰府」のことと読み替えるのがもはや常識である(だから壬申の乱の「倭京制圧」談も、実は大宰府のことと考えてみたい。これ、壬申の乱・九州説である)。

孝徳天皇は難波へ遷都したが、太子・中大兄は唐の朝鮮半島攻略の情勢を見て、より俊敏に対応できる倭京=太宰府に移ろうとした、というのが事実であろう。斎藤忠氏は、この太子中大兄を筑紫君「薩夜麻」では無いかと想像している。この後662年、倭国は唐・新羅連合軍と白村江でぶつかり、大敗を喫して薩夜麻は唐に捕虜となって連れ去られてしまった。彼が帰ってきたのは671年の事である。唐は朝鮮半島を占領した後、百済熊津都督に旧君主・扶余隆を任命、同じく高句麗遼東都督に宝蔵王を任命しているから、薩夜麻も太宰府の筑紫都督として戻ったのだろうと思われる。これは唐の朝鮮支配戦略が進むと新たに「新羅」が分離・対立してきて、朝鮮半島外交戦略を根本から変更しなければならなかったという事情が絡んでいるからだ。恐らく元明天皇の代に完成した日本紀には「斉明天皇の代わりに、サチヤマ本紀」が存在していただろう、と斎藤忠氏は推測する(何という大胆な推理!、感服しか無い!)。つまり一時的にサチヤマが日本の天皇に返り咲き、ヤマトの王・天智天皇は大宰府の藩王国として支配下にあったという想像である。この辺は全て推測の域をでない憶測だが、書紀の誤魔化しが効いていて、これ以上の追求は難しそうである。この時点では、大海人皇子の存在は曖昧だ。

3、天武の婚姻関係

天武の養育を担当した大海(凡海=おおしあま)氏は、綿積命の子孫、すなわち筑紫国の志賀島綿津見三神の子孫で、阿曇氏と共に海部の首長だという。つまり、まさに天武は「海人の環境」で育ったと言える。天武紀は「初め」として鏡王の娘(額田姫王)、胸形君徳善の娘・尼子娘、宍戸臣大麻呂の娘らと結婚した。これら九州系を含む3人の女性と「最初に」結婚し、高市皇子などを産んだ「後に」畿内に移住して、新たに「現地ヤマト」の王族らの娘と婚姻した、ということでは無いか、と斎藤忠氏は推測する。天智、天武の母・皇極天皇は、舒明天皇との再婚前に高向王という人物と結婚しており、このとき「漢皇子」を儲けていた。つまり皇極天皇の連れ子である。天武が漢皇子なら、天智より年上というのも納得だ(だって連れ子だから)。だが漢皇子については、書紀は沈黙を貫いている。天武が漢皇子では舒明天皇の子にならないからだと言えば説明がつく。

舒明天皇にはもう一人、蘇我馬子の娘・法提郎女との間に「古人大兄皇子」がいる。彼は馬子の孫・入鹿の推す有力皇位継承者だが、入鹿が山背大兄皇子を族滅して田村皇子は次期大王位をほぼ手中に収めていた。放っておけば、皇位は古人大兄皇子に流れる。そこで乙巳の変が起きて、入鹿を始め蝦夷一族が殲滅された。この時、中臣鎌足と一緒になって入鹿殺害に加担した「中大兄」は、天智のことではなくて「連れ子」の方ではないか、という疑問も湧いてくるが確証はない(これは私の妄想である)。古人大兄皇子は吉野に幽閉されて、そののち謀反の罪でこちらも倭姫王以外「全滅」である。まあ、乙巳の変自体がフィクションの可能性もあり、孝徳天皇と「中大兄」は九州倭国の皇族であるから全体がそもそも謎めいているのだが、何れにせよまだこの時点では、大和に九州倭国の人々が大挙して移住してきたという事実はないようだ。ただ古事記の記述が推古天皇で終わっているのが気になる。多分、舒明天皇以降の大和朝廷は、ほぼ九州倭国の兄弟国と言っていいと思う。

4、壬申の乱の意味

天武はヤマトにいた。天智が催した宴会で、突然天武が怒って「床に槍を突き立てた」という事件のことが書紀に書いてある。新しく伸びてきた(朝鮮系?)天智系の勢力に対し、倭国と伝統的保守勢力の地元(ヤマト人?)連合とが衝突し、ついに壬申の乱となっていった、との構図の端緒と見ることができそうである。これに勝利した天武は、当初「吉野の盟約」などに見られる倭国とヤマト人の人心の融和を図る政策で、新国家の運営を安定させていた。だが晩年に「草壁を廃して高市皇子を後継者」とするなど、どんどん倭国色を強めていったと思われる。なお、661年にサチヤマが「白鳳」という年号を立てるも唐に抑留されてしまい、そのままずっと新年号がないままだったのを、天武が「朱鳥」という年号に改元した。この当時は、年号は5、6年で新しくするのが普通だったのに、白鳳になってから20年も改元されていない。それが天武は686年(天武15年)に亡くなる前、ようやく新しい年号「朱鳥」に改元した。これは「どうってことない」と流されているが、実は深い意味があると私は思っている。私の理解ではサチヤマが抑留されて、倭国政権が宙ぶらりんになっていた。その間は天智政権が日本を牛耳っていたのを天武が壬申の乱で取り返して、15年経ってようやく倭国の政権が安定した頃を見計らって、「倭国復活」を宣言したのだと思う。この前年に高市皇子に皇位を移譲し、新天皇として念願の倭国年号を「改元」した。倭国皇統を継ぐという天武の担っていた役割は、ここに完結したのである。では天武天皇は実際に「倭国王」を継いでいたのか?。

多分、当初は倭国の分国として大和朝廷を支配していたのではないだろうか。倭国王はあくまでサチヤマである。サチヤが何時亡くなったかは、何処かで読んだ気がするが残存ながら思い出せない(今は、記録しておくべきだったと後悔しているけど、後の祭りだよね。メモは大事である!)。これは想像だが、朱鳥年号を立てたのはサチヤマの死が関係しているかも知れない。

5、天皇の名称

孝徳天皇は自身の対外用の名を「明神御宇日本天皇」と定めたという。しかしこれは日本書紀などの「変更された歴史」であり、対中国の国書では、孝徳天皇はいままでの倭国、倭王を使用していたようだ(想像である)。その後、天智は670年の遣新羅使に「日本」の名前を初めて使っている。それを継承して天武天皇も通称に「日本天皇」を使っていたことが、1998年飛鳥池遺跡の出土木簡からわかるそうだ。ここでちょっと話は脇道に逸れるが倭国王の姓は、旧唐書によると「阿毎氏」だという。これは海幸山幸物語に出てくる海幸彦、つまり「海人=アマ」だというのだ。一方、大和朝廷の天皇は姓は記録されていないが、多分山幸彦つまり「山人=ヤマト」だろうと推測できる(これも斎藤忠氏の指摘による。斎藤忠、最高!)。一応この話は天孫族と隼人の争いを象徴した物語という設定になっているが、書紀に描かれた物語は紆余曲折の後に山幸彦が「幸せを掴む」ことで終わる(首尾よく「山人=ヤマト」に話を置き換えたということか)。これでいくと、九州倭国の本貫は「海人族」ということではないだろうか。

ちなみに奈良県には「海」はないのである。Q.E.D.!


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