明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

萩生田大臣は悪くない、ただ無能なだけである(続編)

2019-11-04 22:19:00 | ニュース
大学受験時の民間検査機関委託問題に関して「身の丈発言」が不公平だなんだと炎上した萩生田光一大臣。彼は無能なだけで、言っていることは「現実を正確に表現」しているに過ぎないとも言える。だから彼を非難するのは少々お門違いであろう。世間では受験生の言うことは「もっともだ」という意見が大勢を占めているようだが、ホントの問題はもっと別の所にあるのだ。それが何なのか、これから明らかにしていこう。それと、先日の記事ではサラッと触れただけで、笑いを交えて「書きっぱなし」にしてしまった嫌いがあるので、ここは一つ「しっかりとした提案」を書くことにした。今の大学という制度が「有名企業の安直な選別機関」になっているところに、根本的な問題があると私は考えている。だから、そこを社会で即戦力となる勉強と、現象の解明や基礎研究を充実させる「本来の学問」とをキチンと分けることで、曖昧な要素を「徹底的に排除」するシステムを模索していきたい。要は「大学の存在目的を明確」にする制度を作ろう、だ。

では、その制度改革案はというと

1、大学は入試を廃止
大学入学試験はやめて、一定の資格を持つもの全員を受け入れ、無試験入学とする。入りたいという学生の希望に任せるのだ。入りたい学校なら勉学にも身が入る理屈である。現在は入学することが目標になっていて、入りさえすれば「有名企業への就職が約束される」ということで、学生生活がおろそかになる傾向が多く見られる。本来は入学してからが「本番」でなくてはオカシイのだ。有名大学・有名学部卒業といっても、それがそのまま社会で活躍できる人材だという保障になるわけではない(私がその悪い例である)。東大卒業=東大入学試験で勝ち抜いた学生=勉強が出来る=優秀、という図式で企業は学生の能力を測る仕組であるが、これが間違っていることは「ちょっと考えれば」すぐ分かることなのだ。それが一向に改善されない所に「富裕層の富の拡大再生産モデル」が見え隠れすると言えば大袈裟であろうか。

私が昔、東大法学部の2次試験を受けた時、日本史の試験で「平安時代、東北地方に置かれた9つの城柵の名を『すべて』書け」という問題があった。城柵を置いて東北地方の勢力図がどのように変わっていったのか、という問題ではなく「城柵名」を全部言えという無茶苦茶な問題である。この時以来、私の人生において、この城柵の名前を思い出すことは「ただの一度も無かった」ことは、はっきりご報告したい。つまり、「何の役にも立たない」雑学クイズだったのである。こんな質問に正確に答える学生というのは、果たして本当に学力があるのかどうか、甚だ疑問である。学問とは過程が大事なのだ。

歴史でも、織田信長が本能寺で明智に攻められた日は「何月何日何時頃か」ということより、事件の起きた背景を学ぶことのほうが大事である。そんなことは試験を出す先生は「当然分かりきっている」筈なのに、だ。それが試験という「点数で優劣を争う」システムになると最も下らない「雑学クイズ」に堕して、恬として恥じないという大学入試制度に成り下がるから困るのである。結局私はそれ以来、東大生というのは雑学は良く知っているが、肝心のことにはトンチンカンな「世間知らずの記憶バカ」と断じて、一切相手にしないことに決めた。

それは試験に落ちた人間の「負け惜しみ」だと人は言うかも知れないが、案外「的を得た考え」だと私は思っている。実際、東大卒と言っている人の多くは、「物事をじっくり考える能力が弱い」ように感じる。まあ、私の知っている東大生の人数は決して多くはないから何とも言えないが、余り利口でないことは確かだろう(実は私は、本当に利口な人というのには、会ったことがない)。

むしろ、大学が卒業生に「充分学業を習得したと卒業証書を渡す」のであれば、「入る時」の試験に労力を使うのではなく、「卒業する時」に一番むずかしい試験を行うのが当然であろう。だって「免許皆伝」なんだから。例えば自動車学校の指導方法を見れば大体の内容がわかるのだが、卒業しただけでは「何の資格も無い」わけで、その後に「免許試験」を受けて初めて「免許証」という資格が発行される。但し、自動車学校は「実技試験免除」という仕組みで収入を得て成り立っているから、所詮は運転技術というのは「大した技術では無い」ということだろう。自動車学校は一応警察の「運転技術習得代行業」であるから、公認であれば「実技も厳しく審査」されるのも当然である。大学も、企業から委託を受けて「入社希望の生徒を指導するシステム」にカリキュラムを変えれば、より実戦的な勉強が出来ると思うがどうだろう。要は大学も、卒業生に対して期待した学力に達したことを「責任を持って」証明して貰いたいのである。それが本当の「卒業証書」だと私は考えたい。

2、進級試験を厳格化
それで、大学1年から2年に上がる時には進級試験を受け、受からなかったらもう一年留年する。で、翌年もう一回受けて受からなかった場合は、残念だが「学力不適合」ということで「退学」にするのだ。そのくらいの厳しさがなくて卒業できてしまうのであれば、その大学の卒業生のレベルは相当怪しいと言えるわけである。つまり進級試験を3年続けてパスし、ぞれで初めて「卒業試験を受ける資格」が与えられる仕組みだ。学生からは「これじゃ試験ばっかりで遊ぶ暇なんかないじゃないか」と言われそうであるが、それで結構ではないか。大学が学問を習得するためのものであるなら、毎年学習したことを確認するのは当然である。これまでの常識では「入る時には難しい」が、出る時は簡単というのは大学の本分から考えれば「本末転倒」と思う。例えばゴルフのスクールを想像すればわかるが、入る時に「基礎ができているかどうか」をテストして学習コースを色々と選んでも、その後は「教えた内容がしっかり習得できたかどうか」は全然気にしない、というレッスンスタジオでは、上手くなる可能性が限りなく低いのではないだろうか。それより初めはメチャクチャで技術も何も無い状態だったけど、卒業時には「70台で回る実力が付いていた」、という方が「実戦には何倍も役に立つ」のは誰が見ても明らかである。大学でも同じ事で、東大生は能力が凄いと言われるのは「卒業した人が凄い」という意味であり、入学したというだけでは、あくまで入り口に立っただけのことでしかない。それからの「4年間」でどれだけ成長するかが問われているのだ。東大という高いレベルを維持するためには、「卒業時の能力」を見なければ意味がない。如何に卒業時の年齢に相応しい「成熟した学力を身につけたか」が大事で、卒業試験をもっともっと重要な試験にしていかなければならない理由はここにある。当然、卒業しなければ「東大ブランドの証明」にならないわけである。受からなければ当然だが「留年」である。単位を取れば卒業では無いのだ。本当の大学では、遊んでなんかいられない。ちなみにアメリカの弁護士資格を取るのは「恐ろしく大変」だそうである。しかしこれは「合格人数」の関係で難しくなるのだろう。日本も「社会人一級」とか「社会人二級」とかの制度があれば、皆んな一生懸命努力すると思うが。

3、予備校は自然消滅
世間に跋扈している進学予備校は、自動車学校と違って「大学から何の公認も受けてない」勝手な存在だから、入試廃止のアオリを受けて「自然と消滅」する。ただ単に「受験技術を教えているだけ」だから、社会の中で「何の存在理由も無い」無価値な学校である。私は駿台予備校を卒業しました、なんてことを自慢する人が皆無なのは、希望大学の入学試験に受かること「しか」学校の存在目的が無いからだ。こんなムダな技術に高い金を払っても、大学に入った途端に「習ったことをすっかり忘れてしまう」ってんじゃ、コストパフォーマンスが悪すぎるよね。

4、大学の分割再編
大学は総合大学で学部学科を網羅するというのは、ある意味「大学のデパート化」である。髙島屋や三越伊勢丹というブランドの信用と、一箇所で全部揃うという立地の利便性が、多数の顧客を誘致する原動力になっていた。最近は独立専門店が立ち並ぶ大規模商業スペースに人気が集まって、昔風のデパートは閑古鳥がないているという。時代の流れは、より個性的なものの方に傾いているのが現状だ。それで大学も総合大学を廃止して、授業をひとつひとつの内容ごとに専門化した「ゼミ形式」に変更する。これを「純粋学問・学術研究分野」と「実戦専門技術習得講座」とに明確に分けるのである。専門学校はいままでも大原簿記学校のように経理に特化した学校などがあったが、逆に言えば「全部の大学をユーキャン」みたいな実技指導講座に分解・再構成するのがよい。法学とか医学とか経済学の独立したスクールも「もっと目的を鮮明」にして、明日から社会に出ても問題がない程度に「実技に徹した教育」を行うのだ。当然、政治学講座では、市町村で議員になった場合の「地域を発展させる方法」とかを教えることになる。こんな具体的で実戦的な講座であれば、「私なんかでも」学んでみたい気になるではないか。大体現在の大学で学んだことで「社会で使える知識・技術」がどれだけあるというのだろう。例えば、中学から高校・大学と猛勉強して身につけたはずなのに「全然使えない英語」などという、実にバカバカしい教育のやり方では、全く教育費の「壮大なムダ」ではないか。

5、キャンパスの開放
いままで大学はキャンパスライフが人気の目玉であり、総合大学が「広いキャンパス」を売りにして生徒を勧誘してきた。今までは法学部の学生も経済学部の学生も「同じ早稲田大学の学生」として、ゼミやスポーツや芸術を介して仲間意識を育み、卒業生同士の連帯を図ったりしてきたわけだが、これからは、「早稲田の政治」を学びながら「慶応の経営ゼミ」を聞き、法政の「営業成功の7つの秘訣」を受講受してから「日大の商品開発のロジック」に通う、ということになって来る。それぞれ講師が違うのは当然だが、「時間も場所も違う」となると、受講する方で「非常に面倒」である。そこで旧来の大学敷地を「講座スペース」として開放し、東大とか日大とかの区別をなくして「講座単位で開講出来るシステム」にするのである。もちろん「ネットで講義」というのもあるかも知れない。が、先生との質疑応答が重要なので、実際に聞きに行くほうがいいだろう。どちらにしても学生は、自分の能力を高めるために「もっと自由に先生を選ぶ」ことが出来なければならない。何も一つの大学にこだわる理由はないのだ。

6、大学は「人間力」を学ぶ
蛇足だが、私は箱根駅伝を毎年正月に楽しみに見ている。大学を分割してキャンパスを開放するとなると、この「大学競争システムはどうなっちゃうのか」と心配になる方がいると思う。そこで、大学は「人格育成の場」として目的を変えるのだ。ここでは小学校以来の教育の成果がようやく役に立って「今まで通りの入学試験」を行って、希望の「大学」に入学する。学問はいままで説明したように「分割・開放」するから「ここでは行わず」(いまでも同じようなものであるが)、目的を「社会に出て通用する人格を磨き、社会道徳および雑学教養の知識を習得」することに心血を注ぐ。これなら現在の大学と「さして変わらない内容」だから、皆さんが心配する「大学の伝統」も守られる。だから中央大学が「駅伝の雄」と呼ばれたように、色んなスポーツで名を馳せる大学があっても何も不満はないのである。それで大学の財政面で言うならば、入学金及び年会費の収入と各種ゼミの施設使用料でおおよそ賄えるんではないか、と想像する(私の想像)。大学で人間を磨き、社会に出てから「社会人としての常識に欠ける」などと言われることがないように必死に勉強すれならば、ハロウィーンなどでバカ騒ぎしてる連中は何れ進級できなくて「中退せざるを得ない」ようになる、ってもんである。これ、社会で再教育する必要と手間が省けて、一石二鳥ではないか。

7、企業のリクルート
大学が社会人としての常識と礼儀作法を教え込んでくれれば、企業が採用するに当たって見なければならない能力は、「将来伸びる素材」か、または「技術を習得した即戦力」か、だけである。つまり野球の「ドラフト」みたいな仕組みだ。というか、ドラフトは卒業見込みの段階で「抽選で指名権」が与えられるから、生徒からしてみれば「やってらんねぇよ」である。だが、そこは野球と違って「不公平」で構わないので、「いくら金を積んでスカウト」してもオーケーである。勿論初年度から目をつけて「給料」を払うのも自由、勉強の内容や講座を選ぶのだって「色々アドバイスすること」も大いに結構だ。生徒はトヨタとか住友銀行とかの企業から支援を受けて勉学励み、卒業したらそこに就職する。勿論支援を受けるのが2社でも3社でもいいし、支援を「受けてない会社」に就職しても、全然オーケーである。完全自由なのだ。企業の側は支援するかわりに「学生の能力や伸びしろ」を見定めることが出来るので、双方持ちつ持たれつの関係である。これにより競争が激化して優秀な学生は「大企業に取られてしまい」、不公平だと中小企業の経営者が言い立てそうだが、学生もバカではないから「入社した後の事」を考えれば、中小のほうが「やり甲斐がある」と考えることだって、充分有り得る。卒業と同時にヨーイドンで会社を決める今のやり方よりも、4年間じっくりと調べて決めるやり方のほうが全然いいことは、誰でも分かるであろう。要は、学生気分で浮かれてられるのは「高校まで」とし、大学は実戦に向けて「経験と技術を学ぶ場」であることを骨の髄から自覚すべきである。つまり、もう「公平とか言ってる場合」ではない。

8、教育施設は地方分散型
大学の設備がオープンになれば、地方の各中核都市に、それぞれ講義出来るスペースが建設されるし、先生方も「空気の良い田舎暮らしが満喫」できるので快適である。もう大学は「人格形成の場」でしかないわけだから、極端に言えば「どこに行っても大差ない状態」に早晩なって来る。それに技術とか知識とか言っても「そんなに内容に違いがある」わけでなし、要すれば「ユーキャン」の講座内容が全国統一されているように、学生が「どれだけ努力するか」の違いで優劣が決まるというわけである。それに優秀なものには「返済しなくてはならない奨学金」などと違って「企業の給料」が貰えるのであるから、一層学問に専念できる環境が整うわけだ。支援する企業も、工場や研究施設がある都市で生徒を雇えるので、一石二鳥である。どこの馬の骨かわからない都会の未知の素材よりは、よく知っている地元の真面目な学生のほうが企業としてもよっぽど安心な訳である。つまり、高校卒業から「社会にコミットしよう」ということに尽きる。そう言えば、だいたい今の学生は「人生をムダに過ごし過ぎ」では無いかな。

9、中学生から選別は始まる
受験生の学力測定は中学校から毎月行う標準テストで「知識」を測定し、高校卒業時までの72回の記録を総合的に使用し判断する。回数を分散させて一回あたりの負担を減らし、溜め込んだ知識量より「基本的な学習能力」の高低を測って、自分の進学すべき学校を選択する参考にするというのが目的である。大学選考資格は、基本的には50回以上テストを受けて「ある程度以上」の点数が取れていれば、資格ありとして良い。基本的には、「よっぽどじゃなければ」好きな大学に入れる。これは試験する側が利用すると言うより、受ける生徒側が「自分の得意不得意を知る」ために活用するのが狙いだ。実技能力(統計力・帳簿管理能力・開発力・技能力・未来想像力・発想力・創造力・人間関係構築力・対人交渉力など)つまり、知識以外の「実社会で有用な能力」については、それぞれ受験生が得意と思う分野を複数選んで、これも中学から高校まで72回の面談あるいは論文によるテストを記録として採用する。しかし、これについてはコースを途中で変更することが可能で、高校卒業時までに「大凡の進路」を決める程度に活用すると思えば良い。要は「どういう人間になるのか」大体の決めておこう、ということが大事なのだ。ちなみに私は大学卒業間際になっても職業選択が決まらずに、自分が「こういう職業に向いている」と分かったのは実は「50を過ぎて」からだった。ちょっと遅過ぎたかな。

10、FA制度の導入
新卒採用というのは「入社後に再教育する」というのが前提となっている。22歳にもなっている人間を、もう一度最初から教育するのであるから「ホトホト嫌になる」のも当たり前だ。しかしこれからは「ある程度出来上がっている人間」を採用出来るのであるから、何も「新卒が有利」とは一概に言えなくなる。それに今回は社会人3年目に「FAとして自由に会社を選べる」システムを導入するから、より良い会社を選ぶことが出来るわけだ。自社に引き止める場合は「より高額な給料を提示」しなくてはならず、キャリアアップの方法を確立できる。基本的には、3年経ったら「一度退職する」事になるが、優秀な者は同じ会社に残るにしても「再雇用」となる形が望ましい。給料の交渉ができるからだ。そうすると優秀なものから順番に「玉突き現象」で労働者が降りてくるわけだから、うかうかしてると「一番下まで」落ちないとも限らない。下の方の中小企業は「能力の無い仲間同士で団結する」だろうから滅多なことでは辞めないと思うが、何れ「労働の流動性が活性化」してくればそれも確実とは言えなくなる。少子高齢化も伴って日本の労働者には良いチャンスだという専門家もいる。つまり労働者が「企業を選ぶ」時代にならないと、真の意味での「安定した職業」とは言えないのだ。そういう意味でも「3年目、7年目、13年目」くらいの時期に「全労働者一斉FA」みたいな「全取っ替え」をするのも、ありかもね。色んな会社を渡り歩くというのは「会社の仕組みや人間関係や技術交流などを含めて」企業も社員の意識も、全体的に活性化するので大賛成である。

以上、入試改革から企業採用制度まで書いた。

結局民間の検査機関を導入するという制度は延期になったようだが、試験制度が「資格獲得の競争」である限り「そこに地域格差がある」のは当たり前である。日本でも東北の田舎の学生と東京の学生では差があるのは当然ではないか。さらに言えば、アフリカの奥地やアラスカの極寒地からユーラシアの砂漠地帯に至るまで、「地域格差」というのは常態化せざるを得ない。その中で人間は努力し、生きているのである。皆さんが一生懸命努力し、出世昇進してなけなしのお金を溜め込み、その苦労して捻出したお金で我が子に最高の教育をして、「さらに上の企業に就職させる」という「富の再生産」を考えるならば、誰もが皆んな「都会で一旗揚げよう」と苦心して来たのも無理はない。それもこれも「愛する子供の為」の一心なのだ。それが全てある時「公平なガラガラポン」で「一からやり直し」にでもなった日にゃあ「あーた、一体どーしてくれんのよ!」と文句を言いたくなるのも道理ではないか。できれば中高一貫校で安穏に暮らさせてやりたいのが「親心」なのだ。

つまり「公平」と言うんなら、「社会」に出て公平な競争がされなければいけない。公平とは「実力通り」の評価であり、門閥や学閥や経済力で差をつけないことである。では「実力とは何か?」。少なくとも実力を見るためには、何年か身近にいて「その人のやること」を見ていなければ、判断するのは難しいと思う。ある日、いきなり就職しようというから、不公平な試験に頼らなければならない「羽目」に陥ってくる。そういう意味で、入試制度というのは根本的に見直さなけれないけないと思うのである。つまり、試験すること自体に問題があるのだ。受験生が政治に公平を求めるのは良いとは思うが、最後に決め手となるのは「自分である」ことを忘れてはならない。それに有名大学から有名企業に行ったとしても、これからの時代に「労働の流動性」が必要不可欠だと叫ばれているのは事実である。その時に「しっかりした実務能力」を身に付けておくためには、知識よりも「知恵」だということをお忘れなく。

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