報道の姿勢とそれを受け取るお茶の間の大衆の反応とは、奇しくも同じ方向を向いていると思うのだ。それは平均的な日本人の傾向は概ね一緒で、次のように説明できる。
1 これと言って熱中する事がなく、日中は会社に行ってつまらない仕事がをこなしているが、週末の休みは金もなく暇を持て余す。仕方がないからテレビやスマホでニュースを漁ってると、あれこれ不祥事が目につくことが多く、つい話題にしてしまう。妻は子供が大きくなって親離れし時間が出来てサークルに入るが、友だち付き合いに疲れて噂話にうんざりしてる。
2 人のやることと自分とを比べて、どっちが上なのかいつも気になる。自分は平均と思っているが内心はもっと上の生活をしたいと常に思っていて、もう少し楽に稼げないかなと夢見ているのだ。自分のセールスポイントは特にないし、努力して何とかなるとは思っていない。
3 夫は、ジャンボ宝くじは毎回買うし競馬もG1は欠かさないし、パチンコは時々やるが負ける場合が多い。趣味はゴルフと居酒屋でコミュニケーションを図ることで、全体的に何かしらラッキーな事が無いかなって気分で毎日を過ごしているが、そんなことはそうそう無いよねとも思う。惰性の日常から脱する方法が簡単に見つからないから、慢性的に不幸感を味わっている。
4 良いことより悪いことのほうが実行するのに簡単なので、要はブレーキが掛かるかどうかである。だから悪人は「人でなし」と言われ批判の対象となる。批判をすればスーッとするカタルシス効果が得られて一時的に気分が良くなり、仲間内でも共感が得られて、自分は社会の意見と一緒の立ち場にあると満足する。ちょっとしたスポイル感から脱して盛り上がれるから「癖になる」。
5 ベッキー問題は格好の話題である。しかし一方的に叩いても相手が引っ込んだきり出てこないので次の話題に移った。文春としては取材費の元を取りたいがためここで終わりにしたく無い。出来れば復活劇でもうひと稼ぎしたいというのが魂胆ではないか。
で、インタビューを何度か申し込むが、ベッキー側から断られていた。ベッキーの性格とすれば申し訳ないと思っていたのかもしれない。ベッキーが所属するサンミュージックの社長が手紙を届けたらしいからまんざらベッキーの独断でもないとすれば、復活したいという気持ちもあってマスコミと喧嘩するわけにもいかないと思ったとしても、あくまでビジネスの上での話である。
色々あって世間から引きこもりになって、その間ベッキーは川谷のことを考えていたのだと思う。そして川谷との気持ちがようやく整理がついて、文春のインタビュー要求にも返事を書いたんだろう。ベッキーには友だちと言える人間があまりいないのかなとも思えるし、サンミュージックがガードして世間の目から隔離しているのかもしないし、何にしても「傷ついている」のは確かである。お遊びで付き合った不倫がばれたのなら火消しと収束にあれこれ手をまわすだろうが、真剣なだけに沈黙しかなかったとも言える。
ベッキーがどうこう言うよりもごく普通の男女の恋愛と、結果としての不倫トラブルと思ってみれば可哀想な話である。文春はただ有名人のスキャンダルとして大々的に報道し正義の味方のように振舞っているが、元々無関係の外野に過ぎない。話を面白おかしくするために取捨選択した情報を流すというのは週刊誌の常道であるが、踊らされて騒いだ挙句にベッキーを性悪女の如く糾弾して胸のつかえを下ろしている一般大衆というのは、実に非生産的な集団だなということである。暇つぶしでひとの人生を弄ぶなんて。世の中の噂に夢中なスズメは、ひとしきり騒いでタカに喰われる存在なのだから、これも人生あれも人生。結局は善悪の彼岸に皆んなして逝くことになるから、それまで好きなように生きることになるのだろう。
文春のような週刊誌に一喜一憂する非生産的な人生か、それと訣別して自由な自分を楽しむか。どちらを選ぶかは、我々の自由である。我々と、ベッキー・川谷・奥さんの三人はどの道関係ないのだから、もうそっとしとけばいいのじゃないかな。これ以上文春に稼がせるのも終わりにしたいね。人と人との個人的関係って、こういう話題は後から来るもの。友人関係や先輩後輩関係や仕事の関係があって築かれている。その人の評価はその人が不倫をしてどうしたかということ「以前に」定まっているもの。不倫もどちら側の人間かで評価やアドバイスもだいぶ変わってくるから、本当のところは外野の週刊誌記者にはわかるはずもないしね。わからないのに勝手に意見を言うのは、人間というものに対するリスペクトが足りない証拠。そういう三流週刊誌だし、騒いでコメントするのもゲスの極みである。
ここまで書いてふと思ったのだが、社会全体が一つの意見に収束するというのは日本人の特性だと言える。夜の9時頃からやっているサスペンスものにその特長がでているが、日本の刑事物ドラマは例外なく「犯人が動機を語り、罪の大きさを懺悔する」お決まりのシーンで終わる。時には刑事の側が「逮捕の決め手と、犯人への説教」を縷々述べるというのもある。要するに、視聴者の悪を憎む心情を代弁し、正義の勝利に快哉を叫ぶと言う「共通の感情を盛り上げる」ための時間であり、これは例外なく行われる。しかるに外国のドラマでは「この懺悔または説教の部分が無い」のだ。動機は悪人であるから決まっているとも言えるし、ドラマの中で描かれているからわざわざもう一度説明をする必要は無いと考えられ、観客も犯人の心情や善悪の重要性など「聞きたくも無い」のである。悪人はサッサと殺してしまえ!ということなのだろう。
他人の心の中にどんな感情があるかは、日本人にとってとても重要なことである。しかし世界ではそうじゃ無い。宗教や人種が多く混じり合っていると関心があっても結局は分かり合えないし、法律さえ破らなければ分からなくてもそれほど困らないという「住み分け」が出来ているのだろう。それが共存ということである。日本人は同じであることにこだわるが、同じでは無いことが「スタンダード」な社会の中でどう生きて行くか、これからの日本人には難しい問題になりそうだ。意外と日本らしさと言って感心しているものの中には、日本人を大家族とみなす一体化の感情が入っているのじゃ無いか。先ずは個人がひとりひとり独立して、自分の意見を持つことから始めたらどうか。日本と世界の地理的心理的区切りをなくしてみるのも、新しい一つの方法である。
1 これと言って熱中する事がなく、日中は会社に行ってつまらない仕事がをこなしているが、週末の休みは金もなく暇を持て余す。仕方がないからテレビやスマホでニュースを漁ってると、あれこれ不祥事が目につくことが多く、つい話題にしてしまう。妻は子供が大きくなって親離れし時間が出来てサークルに入るが、友だち付き合いに疲れて噂話にうんざりしてる。
2 人のやることと自分とを比べて、どっちが上なのかいつも気になる。自分は平均と思っているが内心はもっと上の生活をしたいと常に思っていて、もう少し楽に稼げないかなと夢見ているのだ。自分のセールスポイントは特にないし、努力して何とかなるとは思っていない。
3 夫は、ジャンボ宝くじは毎回買うし競馬もG1は欠かさないし、パチンコは時々やるが負ける場合が多い。趣味はゴルフと居酒屋でコミュニケーションを図ることで、全体的に何かしらラッキーな事が無いかなって気分で毎日を過ごしているが、そんなことはそうそう無いよねとも思う。惰性の日常から脱する方法が簡単に見つからないから、慢性的に不幸感を味わっている。
4 良いことより悪いことのほうが実行するのに簡単なので、要はブレーキが掛かるかどうかである。だから悪人は「人でなし」と言われ批判の対象となる。批判をすればスーッとするカタルシス効果が得られて一時的に気分が良くなり、仲間内でも共感が得られて、自分は社会の意見と一緒の立ち場にあると満足する。ちょっとしたスポイル感から脱して盛り上がれるから「癖になる」。
5 ベッキー問題は格好の話題である。しかし一方的に叩いても相手が引っ込んだきり出てこないので次の話題に移った。文春としては取材費の元を取りたいがためここで終わりにしたく無い。出来れば復活劇でもうひと稼ぎしたいというのが魂胆ではないか。
で、インタビューを何度か申し込むが、ベッキー側から断られていた。ベッキーの性格とすれば申し訳ないと思っていたのかもしれない。ベッキーが所属するサンミュージックの社長が手紙を届けたらしいからまんざらベッキーの独断でもないとすれば、復活したいという気持ちもあってマスコミと喧嘩するわけにもいかないと思ったとしても、あくまでビジネスの上での話である。
色々あって世間から引きこもりになって、その間ベッキーは川谷のことを考えていたのだと思う。そして川谷との気持ちがようやく整理がついて、文春のインタビュー要求にも返事を書いたんだろう。ベッキーには友だちと言える人間があまりいないのかなとも思えるし、サンミュージックがガードして世間の目から隔離しているのかもしないし、何にしても「傷ついている」のは確かである。お遊びで付き合った不倫がばれたのなら火消しと収束にあれこれ手をまわすだろうが、真剣なだけに沈黙しかなかったとも言える。
ベッキーがどうこう言うよりもごく普通の男女の恋愛と、結果としての不倫トラブルと思ってみれば可哀想な話である。文春はただ有名人のスキャンダルとして大々的に報道し正義の味方のように振舞っているが、元々無関係の外野に過ぎない。話を面白おかしくするために取捨選択した情報を流すというのは週刊誌の常道であるが、踊らされて騒いだ挙句にベッキーを性悪女の如く糾弾して胸のつかえを下ろしている一般大衆というのは、実に非生産的な集団だなということである。暇つぶしでひとの人生を弄ぶなんて。世の中の噂に夢中なスズメは、ひとしきり騒いでタカに喰われる存在なのだから、これも人生あれも人生。結局は善悪の彼岸に皆んなして逝くことになるから、それまで好きなように生きることになるのだろう。
文春のような週刊誌に一喜一憂する非生産的な人生か、それと訣別して自由な自分を楽しむか。どちらを選ぶかは、我々の自由である。我々と、ベッキー・川谷・奥さんの三人はどの道関係ないのだから、もうそっとしとけばいいのじゃないかな。これ以上文春に稼がせるのも終わりにしたいね。人と人との個人的関係って、こういう話題は後から来るもの。友人関係や先輩後輩関係や仕事の関係があって築かれている。その人の評価はその人が不倫をしてどうしたかということ「以前に」定まっているもの。不倫もどちら側の人間かで評価やアドバイスもだいぶ変わってくるから、本当のところは外野の週刊誌記者にはわかるはずもないしね。わからないのに勝手に意見を言うのは、人間というものに対するリスペクトが足りない証拠。そういう三流週刊誌だし、騒いでコメントするのもゲスの極みである。
ここまで書いてふと思ったのだが、社会全体が一つの意見に収束するというのは日本人の特性だと言える。夜の9時頃からやっているサスペンスものにその特長がでているが、日本の刑事物ドラマは例外なく「犯人が動機を語り、罪の大きさを懺悔する」お決まりのシーンで終わる。時には刑事の側が「逮捕の決め手と、犯人への説教」を縷々述べるというのもある。要するに、視聴者の悪を憎む心情を代弁し、正義の勝利に快哉を叫ぶと言う「共通の感情を盛り上げる」ための時間であり、これは例外なく行われる。しかるに外国のドラマでは「この懺悔または説教の部分が無い」のだ。動機は悪人であるから決まっているとも言えるし、ドラマの中で描かれているからわざわざもう一度説明をする必要は無いと考えられ、観客も犯人の心情や善悪の重要性など「聞きたくも無い」のである。悪人はサッサと殺してしまえ!ということなのだろう。
他人の心の中にどんな感情があるかは、日本人にとってとても重要なことである。しかし世界ではそうじゃ無い。宗教や人種が多く混じり合っていると関心があっても結局は分かり合えないし、法律さえ破らなければ分からなくてもそれほど困らないという「住み分け」が出来ているのだろう。それが共存ということである。日本人は同じであることにこだわるが、同じでは無いことが「スタンダード」な社会の中でどう生きて行くか、これからの日本人には難しい問題になりそうだ。意外と日本らしさと言って感心しているものの中には、日本人を大家族とみなす一体化の感情が入っているのじゃ無いか。先ずは個人がひとりひとり独立して、自分の意見を持つことから始めたらどうか。日本と世界の地理的心理的区切りをなくしてみるのも、新しい一つの方法である。
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