明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

考える楽しみ(1)人間の魂とは?

2022-11-11 14:41:14 | 生命・健康・医療
人間の本体は、何か人間の感覚器官では認識出来ない「無意識の生命体」だと私は思っている。その謎の生命体が脳や心臓を動かして、自身の日常生活を送っているのだ。それが我々「人間の実体」である。
 
そもそも、人間の感覚器官はこの謎の生命体が「外部の情報をコントロールするため」に出来たもので、命令者である生命体「自身を認識する機能」は必要ではないし、もとより持ち合わせてはいないと考えられる。
 
で、我々にはその生命体、仮にそれを「魂」と呼ぶことにするが、その魂が「全体の行動」をコントロールしていて、例えば今日はビックカメラに行ってアイパッドの新製品を見てこよう、とかの実際の行動に現れると考えた(余りに具体的で済みません)。
 
あなたは、ビックカメラに行こうかどうしようかは自分の「自由意志」のように思われるかもしれないが、では日にちは別として、何故「ビックカメラに行こう」と考えたのか?、である。
 
それはアイパッドの新製品を見るためである・・・あなたはそう答えるだろう。勿論、正しい答えである。では、何故アイパッドの新製品に興味があったのか?。それは今持っているアイパッド・ミニが電池がダメみたいで、そろそろ取り換えなければいけない時期だからである。なるほど、いいでしょう。一つ一つに理由が有りますね。では、何故タブレットを買ったのか?、何故コンピュータに興味を持ったのか?、何故そもそもが「キャンプや星雲や演劇やラグビーや料理やワイン」ではなく、コンピュータと古代史に興味を持ったんでしょう?
 
それは子供時代に本に興味を保ち、クラシックや詩にのめり込み、次第に「考えること」自体に熱中するようになったからである(ふーん)。
 
段々と私の嗜好の本質が明らかになってきた。では何故、「考えること」にそれ程までにのめり込むのでしょうか?
 
ここです。私の本当の大元の性向は、なぜだか判らないが「生まれた時から」決まっていたみたいなのだ。私が意識して選んだわけではなく、言葉も喋れないよちよち歩きの頃には、既に決まっていたとしか思えないのです。これが「三つ子の魂百まで」という諺の意味でしょう。言い得て妙です(昔の人は良い事いうねぇ)。
 
その後の人生は色々あったけど、結局その頃から決められた道を、「その通り歩んでいる」わけです。つまり、私の選択の根本に有る「基本路線」というのは、私が意識するとしないとに関わらず、私の行動を「導いている」のではないでしょうか。意識は、その選択を「追認するだけ」だとも言える、と思うのです。
 
要するに「追認」とは、何故そのような選択を行ったかということへの「合理的な説明付け」でしょう。選択は既になされており、決断は無意識に行われていて、脳の意識上では自分の意志で決定したかのように認識してはいても、言うならば「後付け」の説明なのです。これは、意識的に行う事で、他人(または自分自身に)にも理解できる形で分析・再構成して分かりやすく説明している、と考えられるのです。
 
人はこのようにして日常の行動を「説明可能な形」で行っている。別に何か他人に説明する必要は微塵も無いが、それに納得することが出来れば、人はその人の行動を「予測する」ことが出来、結果、その人を「信用できる人」と認識する。つまり他人を自分の理解者とし、生活をストレスなく、いちいち説明も不要で円滑に暮らして行く「最善の方法」を、この謎の生命体は無意識のうちに取っているのです。何故なのか?
 
これが私の本体、つまり魂の「野生の生き延びる生存戦略」であり、無言の自己防衛本能なのだ、とは考えられませんか?
 
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皆さんも何か問題に直面して、答えを決めかねたり、或いは「答が見つからなくて」長時間根詰めて考えた経験があると思う。そんな時、「直接魂に尋ねる」事が出来たらどんなに楽だろう。
 
実はそういう時、人間は既に「自己の魂の意見を聞く態勢」に入っている、と私は考えた。
 
そして、暫くの間考えるともなくボーッとしているうちに、ある時瞬間的に「パッ」と答えが頭に浮かぶことがある。途中経過は意識出来ないが、最終の答えだけが「天啓の如く」現れるのだ。これをミュージシャン達は「空から降りてきた」と表現するらしい(何故か、地面から湧いてきた、と表現した人はいない)。
 
このような経験は誰にでもあると思う。こないだもたまたま見たCМで、映っていた女優の名を思い出すのに「何て名前だったかな・・・」と暫く考えたが思い出せず、ついに諦めて「ガラガラ声の美人女優」でネット検索して、やっと賀来千香子を思い出した。覚えている筈だが思い出せない、というのは「老化」でも何でもない。人間が何か考えているときは、自分の脳を「探っている時」とも言えるわけだ。ちょうどひと昔前のコンピュータが、暫く考えてから「ボンッ」と画面に表示する、アレである。しばらくアクセスしていなかったから、記憶細胞と接続するニューロンが「切れて」しまったのだろう。ニューロンは記憶を呼び出す「アクセス強度」が低ければ低いほど、すぐ切れてしまうようだ。年もあるけど・・・(認知症とは違う、と信じたい)。
 
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とにかく人間の実体は、自分の体の中にいる形のない「魂という意志」である。私という肉体は、その無意識の魂の命ずることをこれまでの経験の積み上げの中で、「ひたすら実行する」だけの機械なのだ。つまり御主人様の言いなりに動いている「自動車」というわけである(馬では無いと思うが・・・)。
 
で、御主人様が死ぬ時には私は不要になるから、心臓が止まり、意識も無くなって御臨終と相成る。自動車だから廃車か。だから死ぬ時は「ああ、御主人様が亡くなられるのだな」と思って、今まで「ご苦労さまでしたね」って言って、労をねぎらって上げるのが、この世との「お別れの仕方」と言える。
 
そう、あたかも他人の死に「お悔やみを言う」ような気持ちで死を迎えることが、理想的だと言える。これが私の「死生観」である。
 
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おまけ:私は今、ゴルフでハンドファーストに打つ練習をしているが、中々出来なくて悩んでいる。今回この番組を見ていて「そうなのか」と理解できたが、ハンドファーストは形を作ったあと「無意識で再現できるように、体に覚えさせなきゃ」駄目だな、ということである。スイングはコンマ何秒の世界なので、人間が意識の上で認識できる時間(0.5秒)より「ずっと速い」から、意識してもその通り実行出来ないなは理屈なのだ。要は「無意識の動作」が必要なのである。
 
無意識とは、体が「自然に動きたい」と思う形にすること。それが、「結果としてハンドファーストになる」のでなければ、自分の物にしたとは言えないと思う(先が長いなぁ)。
 
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では、この「御主人様」の意志に沿わない行動、例えば、仕事で残業させられる、好きでもない人からしつこく迫られる、アルコールが余り飲めないのに無理やり飲まされる、借金返済の為に金策に走り回る、などなど。これらが続くとストレスが溜まって具合いが悪くなるのである。
 
体は正直だ。体が御主人様の物である以上、我々「自動車側」がどうする事も出来ないわけである。
 
ゆめゆめ「好きな事」を疎かにしないこと。人生を楽しく笑って終えるためには、これを座右の銘とするに尽きる!

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