みんなの僧

24で僧侶になり54で住職になるまで夢や悩みを聞き続けて30年。

少年忍者 孫Tの夏休み

2012-07-28 14:59:49 | 日記

刀をさして、颯爽とした後ろ姿の孫T。

暑い 暑い日の夜(夕)食は神宮前「福蘭」が効く

愛想ない、おばちゃん二人組みの無国籍中国屋台。台湾とも違い、中国料理でもないが、日本食では絶対ちがう中国料理より屋台風のお店

ブログ登場四回目ぐらい。

昼前から築地本願寺のIさんと打ち合わせ。昼から築地で櫻~sakura~さんと今後についてミーティング。


築地本願寺の駐車場についた時に外気温は36℃ぐらいだったが、お昼には39℃を突破した。


櫻~sakura~さんとミーティングを終えた時には 炎天下で男ながら日笠をささなければ歩道は歩けない。男用の日笠を買おうかな?

土用の丑に違わずの炎天下で猛暑。軟弱になったのとおっさんになったのとで 暑さが続くと 直ぐにセルフイエローカード


夕方、日が沈むまでクーラーつけずに 汗だくになりながらかたづけものしてると 両手が痺れてきてセルフレッドカード


いくら麦茶とタウリン入ったバッタもん栄養ドリンクのんでも、室内温度33℃で湿度もあると アカンわ


クーラーつけても良いが、かたづけものするときには ホコリを風で吹き出したいので開けっ放し。かつ蚊には相当弱いので100円蚊取り線香を買ってくるが、如何せんバッタもんなんで、あの除虫菊特有のニオイが無い。

ただ、煙たいだけだ。


ほぼ、かたづけも終わったし、痺れてきているので 即刻水シャワーを浴びて 全身冷却。


シャワー上がりにはクーラーつけて 弱熱中症からの脱却をはかる。


一時間半もクーリングすると普段に戻って活動開始。

しかし、猛暑日の締めは 更に汗だくになる「福蘭」の揚げギョーザ・蒸しシューマイ・タンメンの三点セット。

拙僧は普段 飲酒しないので1400円もかからない。


猛暑日を乗り切った 自分の身体へのご褒美だ。


汗だくだくで、滴る汗を拭って 鼻水かんだら爽快だ。


「福蘭」は安い・遅い・汚い・チョー美味いが売りだが、味付けはいたって地味である。


店を出ると潮風、いや海風が吹いていた。


暑いけれど、汗だくだく後の身体には涼風だ。


築地はもともと東京湾海中だし、福蘭がある神宮前でも東京湾から遠くはない。

海風に、江戸の昔へ想いを馳せる


夜になっても近頃の東京は31℃もある。


原子力発電をやめるなら、東京一極化も辞めないと始まらない。


だって、田舎町は夜になれば、打ち水すれば20~25℃にはなるんだぜえぃ


欲望のいいとこ取りには無理がある。いい仕事にいい環境、かつ至便。

東京一極化を会社も市民も正当化して、原子力発電反対では説得力が無い。


生まれながら、三代続いてなら東京だって地元だろうが、全国の地域を離れてまでの東京移民はどうなんだ?


拙僧みたいに、隔週出稼ぎって どうだい?いいだろう?


んー?ワイルドだろぅ?


んー?そんな貯金もなくて、明日をも知れない生き方なんて 絶対イヤだとぉ?

だろぅ?なぁ?毎日と毎月がスリリングでワイルドだぜぇい?嫌かー?嫌だろう?なぁ?


バブルの時、会社では新幹線通勤てのが認められていて 拙僧は本気で熱海に家を建てて 熱海から通勤しようとしていた。


結果、その制度を使用したのは、当時の社長と某プロデューサー含めて5人にも満たなかった。


結局、拙僧はいなかもんで 都内生活に馴染めんかったんだろう。50歳を越えて 地元の山寺を継いだのは そういうこともある。

長女親子は山寺の夏を快適に過ごしている。山風の吹き込む夜更けは寒いくらいだ。


山寺の夏は孫たちに取って快適な異空間となるだろう。


生まれたばかりの双子ちゃんは交互に起きて、母親の睡眠を奪っている。


長女は昼間も眠そうだ。


近松門左衛門先生が橋下徹市長に憑依した!?

2012-07-28 00:26:01 | 日記
近松門左衛門先生降臨!

文楽・だらく成金に物申す。「生活が安定してないと芸が荒れる」と申す、補助金収入一億円の文楽・だらく成金に申し上げる。

拙僧は数年前に決心して、過疎で檀家さんが、50軒にも満たない超山間地の寺を継いでいる。

隣の寺も更に大変で35軒もない。


つまり、仏教を専門としながら、兼業で食べる方(生きてくこと)は やりくりしている訳だ。


一昔前までは、過疎地の僧侶には国家レベル、地域レベルで特権が設定され、優先的に役所や学校の先生に就職できた。

しかし、今や優先的措置は無い。若者の多くが希望職種につけない今、当然の成り行きと思う。


生業の仕事が忙しくなり過ぎると「僧侶」の本業が疎か(おろそか)になったり、片手間になったりしている僧侶もいる。


考えないといけない。考える前に食わないといけない。


よく、臨時のSくん(同期)と笑いあう。

拙僧「貧ぼうず暇なしやー(´д`)」

Sくん「貧ぼうず暇だらけ(^^ゞ」

拙僧・Sくん「ガハハハハー」


そう、笑うしかないんである。時間を持て余しても、忙しく動き回っても、生活は安定しないし、金銭のゆとりもない。


支えは、大好きなお釈迦さんの「教え」=「仏法」に仕えている醍醐味と「見えない世界との交流」だ。


見えている世界が全てではなく、見えてない世界も含めて「宇宙」や「真理」は存在している。


日本人の多くに取って、拙僧の言う「見えない世界」とは「ご先祖さん」の事である。「確かに存在したが、今は見ることが出来なくなった存在」を確かに感じるから「先祖供養」もするし「墓参り」をする。


日本人は無宗教とか無信心と言うが、それは違う(そこは宗教学者の島田雅彦さんが説明ウマい→「無宗教」)


寺の法事もあり、行事もあり、葬式があり、檀家参りがある。


そこで奉納される「ご法禮(お布施)」はぶっちゃけ、一年間で百万円そこそこである。1ヶ月にすれば数万円である。


つまり、国家が決める最低賃金にも満たないし、生活保護以下である。


でも、過疎地の多くの僧侶は何とかやりくりしているのである。


だから、伝道が低レベルにもなってるかも知れないし、「荒れてる」かも知れない。


だが、だがである。そんな中で、鍛えられ、学んで行くしかないのだ。

檀家が多すぎで法事や法儀(仏法を伝える基本)が疎かになっている新興住宅地の成金寺は成金寺で 違った苦しみを抱えているだろう。

しかしだ、ともあれ 時代はどうあろうと、生活環境がどうあろうと、「坊主をやる!」と決めたら「やる!」しか無いのだ。


私を見つめているのは「自分のなかの自分」と「見えないけれど確かにある世界」である。


現金収入が生活保護以下で、国民最低賃金保証以下だから、副業もバイトもパートも何でもありで生きて行く。


だから、壊れる日もあるし、荒れる日もあるし、絶望する日もしょっちゅうある。


だから、他人の生活苦が分かる。痛い痛いほど分かる。分からないでは居られない。


志あるものが、生活が安定してないと「本業が荒れる」のは本当である。


しかし、そんな中でこそ「生きる本質」や「生きる意味」を否応無しに、考えて、苦しんで、前に進むのだ。

拙僧は「性・さが」として動き回らないと腐敗・堕落する性分なので稼いでは動き、動いては稼ぐ。


山登りのプロの大半が、稼いでは登り、登っては稼ぐスパイラルみたいなもんだ。


拙僧の坊主カラーは「坊主も歩けば棒に当たる」だから、動きまわり、働き歩く。


一部のスーパーな登山家はスポンサーがついているが、ほとんどの登山家は稼いでは登り、登っては稼ぐ、兼業登山家なんである。


しかし、登山家の誰が、「登山に差し障りがある」と言って、補助金をあてにするだろうか?補助金がないと山登りが荒れるのだろうか?


文楽は芸術だが、所詮 大衆芸能だ。大衆芸能とは大衆に支えられてナンボである。

補助金に支えられてしか存立しない大衆芸能なぞ、芸能とは呼ばない。


文科省の古典芸能保存としてなら理解出来るが、大阪市の市民の税金で賄われる類のモンではない。


拙僧や隣寺のS僧侶がもんどりうちながら、伝道、布教しついるさまを文楽・だらく成金に見ていただきたいものだ。


毎回、毎回が一期一会の説法で、読経で、完全燃焼法事をやっとるんだ。

荒れる読経の日だってある。だから


「生物の仏法」となり「生きた伝道」にならせていただくのだ。


生活に困窮しても、明日はやってくる。その日、その月を一生懸命生きる。しか、ない。


でも、法衣を着て、袈裟をかけて、数珠を持ったら 生活苦は、切実さを持って拙僧を追い込んでくれる。「次は無いかも知れない」

逆に言えば、お釈迦さまは「生きてるだけで充分」と思われていただろう。

そして、生きている間は「真理を伝え、歩いて行こう」とも思われていたはずだ。

びんぼう・金無し 問題なし。


「収入が安定しないと、芸が荒れる」なんて、よく芸人が言えたものだ。芸は民の中に生き、必死に芸で稼ごうとするから、生き生きとして、かつ「芸の色気」が出てくるのだ。


近松門左右衛門が聞いたら 絶叫して橋下徹以上に怒り狂うだろう。


俺の書いた浄瑠璃は「閻魔大王から逃れられない人間のあからさまと業」や。国とか市とかから守られるオワコン(終わってしまったコンテンツ)ちゃうぞ!


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