ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

富士のふもとの不夜城~その2(山梨・下吉田)

2012年11月07日 | 赤線・青線のある町
富士のふもとの不夜城~その1の続きです。
 
 富士山に行きました。富士急行から見える富士だけが雲から僅かにお裾が見えて富士山だと確認できました。終点駅富士吉田から、金鳥居をくぐり富士を見据えながら進むと、道沿いに江戸時代の富士登山者の人々を世話する「御師」の宿坊を目にする事になります。江戸時代の市民にとって遊興の為の旅は禁じられていましたが、信仰のための旅は許されていました。霊峰の富士山登山、伊勢参り、金毘羅参りなどの旅です。しかし高さのみならず日本一気象条件の厳しい霊峰富士を目指すことは命懸けの旅でした。ところが、その危険とは裏腹に富士信仰は爆発的な人気で広がり、関東の神社の境内には必ずと言っていいほど、浅間神社の祠と共に、高さ10mに満たない富士山のミニチュア(富士塚)が富士の溶岩石で築かれ、そのミニチュアを登ることが市民の間で大流行したのです。そこで、市民は個人でまかなえない旅費や引率の登山のプロに支払う賃金を積立金として近隣のものと行う「富士講」の宗教的組織に参加しました。毎年行われるクジで、代表者だけが参拝する講のシステムは他の山々にある山岳信仰でも見られます。富士講は人気だったために、富士登山口にある「北口本宮冨士浅間神社」はその規模も雰囲気も歴史的重みも素晴らしいものがありました。

金鳥居をくぐると、雲の中の富士山を見据えながら「御師」の宿坊が連なる坂道を登ることになります。
  

「北口本宮冨士浅間神社」の入り口。植樹された杉並木と朽ちた灯篭が畏怖の念を駆り立てます。
 

 境内の拝殿の右隣にある白木の鳥居の奥が富士登山口です。そこに立つこの不敵な笑みを浮かべる富士講の石像・・・。
   
 
 安土桃山様式の素晴らしい拝殿。奥の本殿は金箔張りで、木花開耶姫を祀るもの。冨士山の神様はなんと女性だったのです!?
 

 拝殿には天狗の絵馬があって気分を盛り上げます。
 

 神社を堪能したあとは、下吉田の歓楽街の続きです。屋根が富士型になっている店舗もあります。
  
 
 細い暗がりの路地に面している壁に、大きな窓を設えるのは、中にいる女給さんが良く見えるようにという行政の指導によるものです。戦前の旧遊郭の建物は、日本家屋特有の格子窓だったので、そこで女給さんが手招きしたり、媚を売ると牢屋のように見えたから・・・と確かそのような理由で大きく採光窓が取り付けられました。今はユースホステルになっている店舗もありました。
 

 

コカコーラの富士社交組合看板。明朗会計の店という表示も。人魚の看板がとても可愛いのですが、場所はとても怖い廃墟の折り重なる路地でした。
 

見ているだけで吸い込まれちゃうアールの入口。まだ営業しているお店はキュートな色使い。
 
 
 歓楽街が途切れる場所に、病院と真向かいに「角田医院」というお神輿がそのまま建物になったようなお宅を目にしました。今は病院が管理していますが当時は大宴会場だったという事です。東京の宮大工に作らせた昭和初期の建物です。芸者遊びをする温泉宿をもはるかに凌ぐ豪華な建築だと思います。文化的価値が認められて内部公開とかにならないでしょうか?財閥や大富豪なんて言葉が現存していた頃の栄華がまだ富士の裾に眠っているのです。
 日本一の意地と張りだわね!

富士のふもとの不夜城~その1(山梨・下吉田)

2012年11月07日 | 赤線・青線のある町
 富士山が見たくなって、富士急行に乗りました。しかし関東が記録的な濃霧の為に、終点の富士吉田に到着するかしないかの時に電車の窓から見えた一瞬のみが、富士山のお目見えでした。あとは、雲の中・・・。富士吉田は、江戸時代からの富士登山口です。霊峰を崇める「北口本宮富士浅間神社」に参拝したあとは、古い建物を探索する事にしました。溶岩石をタイルがわりに張り巡らした商店など、いかにも富士のふもとの店といった感じです。
 
 富士吉田駅から、隣の月江寺駅、下吉田駅に下る国道の坂道はかつては富士道と言われていた通りで、ユニークな看板建築が軒を連ねます。戦前は、下吉田は絹織物の産地として、織物商の仲買人が泊まりがけで月江寺、下吉田界隈に多く訪れたために、遊郭、宴会場のような遊興の歓楽街が国道と並行した「西裏通り」周辺に出来ました。また富士には陸軍の演習場があったために、戦後は進駐軍がそこを盛り場とし、遊郭を母体とした赤線、私娼街の青線がその周辺にくまなく張り巡らされる結果となりました。進駐軍が撤退したあとは自衛隊が、そして観光客がそれらの施設を利用したようですが、街並みも裏通りの歓楽街も不思議と、1970年代頃から時間がストップしているように感じます。戦後織物産業は廃れ、国内旅行ブームの終焉などの為、宿泊客が激減して地方にお金を落としていかなくなったからでしょうか。
 

 

 所謂、瀕死の街をレトロタウンとして、魅力再発掘をアピールする観光振興会のパンフなどを見ると、「西裏通り」を歓楽街とはっきり明記しています。法の整備が地方によって曖昧なので、都内の歓楽街巡りよりも危険を承知で探索してみました。西裏通りを中心としてその横に入る路地にも様々な名前の通りがありました。
  
 
  

 戦後は赤線の店舗はカフェーといって、洋風に設える事が殆どなのですが、私娼街の青線に至っては千変万化です。スナック風、和風の小料理屋風店舗、二階に隠し部屋を持つ長屋店舗、戦前の旧遊郭をそのまま利用したもの、入口にブルーのペンキを塗って進駐軍のための目印にした店舗など様々でした。
 

 

 2つの店舗が向かい合う大正ロマン的な装置のような一角はどうでしょう。あまりにも作りが良いので戦後の赤線時代のものか、最近のキャバレーのものか判断つきかねる程でした。




  

 

 さらにデォープな雰囲気の場所。色町のタイル装飾は本来、綺麗なものと相場が決まっているのですが、こちらは少し趣が違うようです。
 

 

 「子之神通り」の富士が見える3階建ての豪奢な木造建築。通りに面してではなく、細い路地側に破風のある入口がある事から、たぶん遊郭でしょう。看板を見ると寿司屋に転業したようです。


 

 遊郭の通りの奥はタイル張りのカフェー風店舗がひしめき、さらに赤線感漂う一角です。赤線は、本来計画的な区割り上に建てられるのですが、こちらは迷宮化しています。おどろおどしいタイルや欲望をそのまま視覚化したような看板に興味深々。
 

 




 再び国内旅行や、山登りなど、脚光を浴びる日本の観光地ですが、下吉田界隈もぜひともそのレトロさ(?)を保ちつつ完全に廃れるような事の無いことを願います。