切られお富!

歌舞伎から時事ネタまで、世知辛い世の中に毒を撒き散らす!

四月 大歌舞伎 夜の部 (歌舞伎座)

2005-06-06 02:10:00 | かぶき讃(劇評)
今頃、四月の感想その2です。

①毛抜(けぬき)

よく、「歌舞伎でも珍しい、ミステリー仕立ての演目」などといわれるこの芝居。しかし、この芝居の面白味はそういうところにはないような気が前々からしていた。

話は、髪の毛の逆立つ病気に悩んでいたお姫様を、豪放磊落な探偵役・粂寺弾正が見事解決し、背後にあった悪人のたくらみを打ち砕くというもの。

この芝居の面白味は何といっても、粂寺弾正というキャラクター。若衆から腰元にまで手を出そうとする好色ぶりと、観客に向かって謝ったりする楽屋落ちぶり。なんだか、パタリロみたいな芝居だななんてわたしは思っていたのだけど・・・。

今回の粂寺弾正はもちろん團十郎。市川家のお家芸、歌舞伎十八番のひとつでもあるし、この人の当たり芸でもある。

実のところ、今の左團次が襲名のときにやった「毛抜」のビデオを観たことがあって、色好みの艶っぽさでは、左團次の方かな、などと正直思っていたのだけど、今回の舞台を観て考え方が変わってきた。

話はやや脇道に逸れるが、森鷗外の「ヰタ・セクスアリス」という小説の中で、主人公が寄宿舎の中の同性愛について父親に相談したところ、さぞや父親もびっくりするだろうと思った主人公が、全然びっくりしない父親を意外に思うというくだりが出てくる。鷗外を思わせる江戸末期に生まれた青年と江戸時代に育った父親との認識のギャップを示している場面なのだけど、要するに何がいいたいかといえば、江戸期の性欲というのは田山花袋の「蒲団」以降のギラギラしたものとは違う、おおらかなものだったのではないかということ。

確かに、左團次の芝居の好色はギラギラした感じがあってわかりやすいのだけど、今回の團十郎の何かふっくらとした、男女どちらにも臆することなく手を出そうとするおおらかさは、ひょっとしたら江戸期のこの芝居の本来の姿に近いのかなという気がしてきた。

ただ、ちょっかいを出される側、若衆役の勘太郎の真面目っぽさは逆に妙な色気があった一方、腰元の時蔵はもっときつくはねのけてもよいのではという気もしたが・・・。(因みに、左團次襲名のときの腰元は菊五郎。若いときの菊五郎は色っぽくて綺麗でしたよね。今は・・・。)

脇役では敵味方に團蔵、権十郎と声のいい役者が揃ったおかげで、舞台も大いに締まった印象。「暫」なんかもそうだけど、歌舞伎十八番は芝居としての実より、声の響かせ合いみたいなところがあるので、配役が決まると観ている方も楽しい。(だから、ほとんど支離滅裂な弾正の謎解きは、この芝居の肝ではないと思う。)

元禄歌舞伎らしい太平楽な芝居ともいえるこの演目。妙な心理劇にならない團十郎の芸風にも合っていて見ごたえのある良い舞台でしたね。



②十八代目中村勘三郎
襲名披露 口上 勘九郎改め 勘三郎

こういうのって、あんまり何回も観るもんじゃないですね。三月も衛星放送やCS歌舞伎チャンネル、生の舞台で都合3回観たし、そして今回。そんなに言ってることも変わるもんじゃないし、まあいいかってところで・・・。

気になったのは、富十郎さん、相変わらず元気だなってところかな。


③籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)

待ってましたというか、好きな芝居なので、今回は言いたい事がいろいろある。

実話を元にしたこの芝居。『花の吉原百人斬り』という片岡千恵蔵主演の映画にもなったのでご存知の方も多いでしょうが、念のためにストーリーをおさらい:

田舎の金持ちで醜男の佐野次郎左衛門は初めて行った吉原で、花魁八ツ橋に一目惚れをします。八ツ橋に次郎左衛門は通いつめ、身請けをするところまで話が進みますが、間夫の浪人繁山栄之丞から次郎左衛門と別れるよう迫られた八ツ橋は、満座の中で心ならずも次郎左衛門に愛想づかしをします。八ツ橋のことを深く恨んだ次郎左衛門は、四か月後に妖刀籠釣瓶で八ツ橋を切り殺してしまうのでした。

まずは序幕、吉原仲ノ町見染の場。田舎から出てきた次郎左衛門(勘三郎)と治六(段四郎)。吉右衛門の次郎左衛門は田舎者といった感じが強いのだけど、勘三郎は実直で仕事が出来る、仕事一筋の人といった腹か?ここでは、引手茶屋の亭主立花屋長兵衛役の富十郎がなんといっても立派。そして、肝心の玉三郎演じる八ツ橋花魁登場と有名な花道前での笑み(これで次郎左衛門が一目惚れするという重要なファム・ファタール的芝居。)。これが残念ながら、前述の通り席の位置が悪く、まったく確認が出来ず!(双眼鏡でも無理でした!!)歌舞伎座も新橋演舞場みたいに二階、三階席にもテレビモニターをつけて欲しいなあとつくづく思いましたね。

二幕目以降はさらっと行きますが、典型的な美男美女の花魁・間夫の関係・八ツ橋・栄之丞の玉三郎・仁左衛門ですが、仁左衛門の場合、このひとの持って生まれた芸風というのか、栄之丞が色悪というよりは、かなり人の好い人物に見えてくる。個人的には梅玉の栄之丞の無表情な色男(つまりはちょっとわがまま風のイメージ)がこの役のベストだとは思うのだけど、仁左衛門の感じもひとつのスタイルで、八ツ橋との関係が心理的なものに映る。(逆に言えば、梅玉がやると肉体的な関係に見えてくる。)このことと関係するのだけど、縁切りの場での玉三郎の八ツ橋の愛想尽かしは「心を偽る」という心理主義的な感じがあるのに対して、歌右衛門・雀右衛門の場合は「心を鬼にする」という印象だった。

兵庫屋に入ると勘三郎の次郎左衛門は割と粋な感じで、はやく吉原の作法に慣れた人というイメージになる。このあたり、朴訥とした感じを崩さなかった吉右衛門とはタイプが違う。愛想尽かしをされた後は、比較的悲嘆の度合いが大きい感じ。それだけに、慰め役で八ツ橋と並ぶ花魁九重が重要になるのだが、今回は魁春。わたしは個人的に九重という役が好きで、この芝居の隠れた核になっている役だと思っているぐらいなのだが、何といっても東蔵の九重が貫禄があって傑作だった。魁春の九重は、魁春自身のやや地味な芸風もあって、慰めるより慰められる方が似合うような雰囲気。つまりは地味でちょっと物足りない。

意外と見落とされるところなのだけど、愛想尽かしの後の幕が引くまでの間、吉原の営業終了時間を表す、木戸の閉まるバタンバタンという音、これがわたしは好きなんですよね。悲嘆に暮れる男の背中の向こうで鳴る、木戸の音のイメージがなんとも哀愁のある音響効果で。

大詰。妖刀・籠釣瓶を掛け軸の箱に入れて次郎左衛門は立花屋の二階に上がるわけなのだけど、吉原には刀を持って入ってはいけないという決まりがあるんですね。ここでは立花屋女房おきつの秀太郎が艶のある色町の女房らしくていい。それから八ツ橋を斬ったあとに明かりを持って現れる女中お咲の小山三!

2時間もある長い芝居なのだけど、隙のない構成と人物造型で飽きさせない。作者は三世河竹新七なのだけど、実際には黙阿弥がかなり手直ししたという説もあって納得のいくところ。三方飾りの廻り舞台といい、愛想尽かしの場の胡弓の悲しげな旋律といい、やっぱりいい芝居ですね。勘三郎の熱演もまずまずだったし。(でも、わたしは播磨屋が好みではあるんだけど。)

因みに、太宰治の「ダス・ゲマイネ」という初期の小説では、女に振られた主人公の渾名が佐野次郎。つまり、この芝居から取った名前。この主人公は電車に轢かれて死んでしまうんですけどね。ついでながら、太宰治の娘さんの名前「里子」さんはもちろん「義経千本桜・鮨屋」のお里からとったんだとか。

自分の容貌を気にする男が主人公という意味では、明治21年に初演されたこの芝居は近代に片足を突っ込んだ芝居だといえるかもしれませんね。
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3 コメント

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勘三郎 (パパゲーノ)
2005-06-06 23:07:59
お富さん、こんばんは、4月夜の歌舞伎座見聞録、読ませて頂きました。毛抜きに対する考察、私は此処まで考えつきませんでした。お富さん、すごい。歌舞伎には江戸の香りが感じられないといけないという事ですね。

佐野次郎左衛門は顔は醜いが世の荒波を生き抜いて、絹の商いを成功させた男です。そのような男が花魁に縁切りをされ、殺人事件まで行く悲劇なのです。

籠釣瓶は喜劇の面があるのは否定できません。初演では美男子の二代目左団次をわざとあばた顔にしました。

今回の新勘三郎の舞台からはあばた顔の奥に潜んでいる男の度量が感じられないから、自分のあばた顔もわきまえず、吉原一の花魁を追いかけた身のほど知らずのあほうの喜劇になってしまいました。勘三郎には、これからもう少し人間としての重みを舞台で出てもらいたいと思います。

やはり、今のベストは播磨屋が次郎左衛門で、勘三郎は治六かな。
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追伸 (パパゲーノ)
2005-06-07 08:14:46
今回の籠釣瓶は世の中、金の世の中、金さえあれば何でも出来るというバブル紳士があぶく銭をつかみ、ホステスに入れ揚げたという最近よくあった話のような舞台でした。
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コメントありがとうございます。 (切られお富 )
2005-06-08 03:41:15
パパゲーノさん。



籠釣瓶に関する御意見、まったく賛成です。

さすがにわたしも気が引けて、遠回しにしか勘三郎の次郎左衛門のことは書かなかったのですが、「バブル紳士」という表現はまさにぴったりという印象です。



これというのも、新勘三郎の次郎左衛門には先代のような愛嬌が足りないからで、愛想尽かしの後の悲しみが随分安っぽく写ってしまっていたと思います。



巧みな表現で納得しました。ありがとうございます。
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