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切られお富!

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7月歌舞伎座(夜の部)「熊谷陣屋」「牡丹燈籠」

2015-07-13 20:54:43 | かぶき讃(劇評)
観てきました。簡単に感想っ(若干、ネタバレあります)。

①熊谷陣屋

海老蔵初役の熊谷で、吉右衛門が教えたとのことですが、この役はつくづく難役だと再認識しました。

ちなみに、舞台を観る前、昭和35年の白鸚の映像をたまたま見直していたんですが、力感といい、その芝居の深みといい、あらためて傑作だと思いました。当代だと、熊谷は吉右衛門、仁左衛門、幸四郎がしばしば演じますが、この三人にない、線の太い力感が白鸚にはある。このとき、白鸚55歳!

ところで、なんで白鸚の話から入ったかというと、多くの歌舞伎ファンが望んだ海老蔵の熊谷って、粗削りでも力感こもるものじゃなかったかと、感じたからなんですよね。

吉右衛門の熊谷といえば、その深い解釈と独特の台詞の抑揚で、芝居巧者の熊谷という印象。仁左衛門ならスッキリとした口跡と若干のセンチメンタリズム、幸四郎なら悪達者なまでの心理主義的演技と堂々たる口跡。

その段でいうと、吉右衛門の芸風と海老蔵のそれが微妙に相性悪かったのではと、勘ぐってしまうような、今回の熊谷でした。

具体的にいうと、妻の相模を見つけて、怒って二重の階段を上るくだりが、やや腰高で定まらない印象。怒る姿にも重量感がないと、ここは締まらないなと。怒っているというより、どうも神経質に見えてしまう。

また、「敦盛の首討った」で、母親藤の方が熊谷に斬りかかるくだり。藤の方を押しとどめる力感がどうも感じられない。白鸚の映像だと、観ているこっちも押し留められるくらいの力強さで、近年、こういうスタイルのこの場面って、なかなかなかったなと思ったくらい。(最近は、巧みに押し留める印象の舞台が多いので。)

そして、戦物語も、決まるところは決まるんだけど、あんまり目をむきすぎるし、若いにも関わらず、手の使い方に力強さが伝わらない。どうも、空振り感がありました。

ちなみに、白鸚の映像では、義経は十一代目團十郎。海老蔵は本来義経のニンなのかもしれないけど、やはり勇壮な荒武者の熊谷が観たいですね。

で、今回脇役がベテラン揃いで、これがかえって海老蔵には気の毒だったかもしれません(染五郎の時みたいに、花形歌舞伎じゃなかったという意味で。)。なかでも、梅玉の義経が、姿の気品といい、台詞の余韻といい、大傑作。この義経のためなら、熊谷ならずとも、密命に従うんじゃないでしょうか。

相模役の芝雀は、どういうわけか頬が少しこけてお父さんを思い出すような舞台姿、情のある母親で悪くなかったし、魁春の藤の方も気品あり。左團次の弥陀六はいつも通りで楽しく、わたしは好きです。

ということで、わたしが望んでいたのは、亡くなった十二代目團十郎の心理主義的じゃない熊谷で、團十郎の口跡だと若干ふわっとした印象になっていた舞台を、海老蔵の口跡の強い押し出しで、どんどん押していくようなタイプのものでした。あらためて團十郎の熊谷を見直したくなったなあ~。好き嫌いはわかれるでしょうが、團十郎の熊谷もわたし結構好きだったんで。そんなこんなでちょっと、厳しく書きすぎたかな。これも期待のあらわれなんで、どうかご勘弁を。


②牡丹燈籠

前回の仁左衛門&玉三郎の舞台が大傑作だったんで、玉三郎の相手役が中車に替わってどうなるかと思いましたが、今回は前回の舞台にはないよさがあって、玉三郎の演出に感心しました。

今回は、おつゆの父親のお妾(後添い?)お国とその浮気相手源次郎のくだりを大幅カット。お峰が殺される幸手堤のくだりを関口屋の中に変え、お六に幽霊が取りつくくだりをアレンジして、四谷怪談で伊右衛門が伊藤喜兵衛宅で連続殺人を犯すくだりみたいにしたうえで、中車演じる伴蔵の花道の悲壮感あふれる引っ込みで幕切れ。

仁左衛門のときの伴蔵は愛嬌のある悪党という感じでしたが、中車の伴蔵はもうちょっと人間臭くて、臆病な部分も悪党の部分もなかなかにリアル感がある。

一幕目だと、幽霊からお金をもらって、梯子をもってお札をはがすくだり。怖がりながら梯子を持って移動するだけの場面(回り舞台)ながら、恐怖の部分と舞台の躍動感で、なかなかたいした熱演でした。

中車の真骨頂は特に二幕目でしたが、最後の夫婦喧嘩から「寝よう」というくだりは、歌舞伎役者にはないエロさかなと。歌舞伎の演技だと、もうちょっとカッコつけそうですからね。そして、なんといっても、最後の花道の引っ込み。戦後の「曽根崎心中」の初演当時の引っ込みはこういうタイプかなと、想像してしまうような切迫感ある引っ込みでした。前回の仁左衛門のときは、土手で「お峰!」と絶叫するくだりが青春の悔恨というイメージでしたが、今回は逃げ場のない逃走といった体。これは見る価値ありますよ。

玉三郎は、一貫して受けに回っているという点と、役本来の特徴通り、キレイにみせようとしないところが、前回よりもさらに徹底。これは、相手役が美男役者仁左衛門ではないことへの配慮という意味もあると思う。そして、そのかわり、怖がるところ、女の身勝手な部分、嫉妬するくだりの可愛さたるや!前回よりも高い声を出している場面が多く感じたのも、このあたりと関係あるように思える。

馬子の久蔵は海老蔵がお付き合い。今回は軽いコメディ的な扱いで、「客向けの部分」と海老蔵も玉三郎も割り切っているように見えた。ただし、本当はこのくだり、久蔵からお峰が、夫の浮気を探り出す重要な場面で、落語でも圓生が腕の見せ所にしている部分。前回の舞台では三津五郎が芸達者ぶりを見せていて、これが本来の形ではあると思う。

三遊亭圓朝役の猿之助は、圓生の口演などかなり研究したようで、芝居としてなら圓朝になりきっていたが、語り手としては台詞が若干わかりにくい。落語調を気にするあまり、なぜか微妙に講談調っぽかった。前回は三津五郎だったが、この人の説明は実にわかりやすかった。舞台としてなら、こっちが親切だと思う。また、今回は圓朝の出る高座の位置が毎回変わって、演出としても面白かった。

ということで、今回は中車の歌舞伎の舞台としては、今現在最高傑作だと思いました。この調子なら、新鴈治郎と「曽根崎心中」の九平次なんかやれるかもしれませんね。9時過ぎまで、堪能できる舞台でした。
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