西日本新聞の連載を転載(1)

西日本新聞
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「壁」は消えたか・らい予防法廃止10年<1>
ぬくもり 子どもの手に救われ-連載 元患者なお遠い古里
2006.03.31 

 強制隔離政策を定めた「らい予防法」の廃止から、四月一日で丸十年を迎える。差別、名誉回復、生活保障、高齢化-。ハンセン病と元患者たちを取り巻く現状と課題を追った。

 ベルをかたどったスピーカーから、メロディーが響く。「盲導鈴(もうどうれい)。目の不自由な人が多いから、これで場所を知らせるの」。上野正子さん(78)はそう説明すると、少し間を置いて「でもこの歌は好かん」と言った。

 鹿児島県鹿屋市の国立ハンセン病療養所「星塚敬愛園」。上野さんは八年前、この園から国の強制隔離政策の誤りを問う国家賠償請求訴訟を起こした。全国初のハンセン病国賠訴訟だった。

 同園から立ち上がった第一次原告は、上野さんら九人。闘争の精神的支柱だった島比呂志・名誉団長は三年前に他界。夫清さん(85)ら二人は、認知症で園内の病院に入院する。

 「もう私も老人ホーム(に行く年齢)。いや応なしに、ここがついのすみかよ。五年前とも、十年前とも変わりゃせん」。沖縄・石垣島から来て六十六度目の春。法の廃止で「自由」を得たとしても、裁判で国に勝ったとしても、島の実家には帰れない。

 「カラスト イッショニ カエリマショウ」。スピーカーから、嫌いだといったメロディーが流れた。

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 熱い日々だった。

 「らい予防法廃止」。療養所入所者たちの長年の要求を、日本らい学会が、全国各地の議会が、マスコミがこぞって支援した。「らい予防法廃止法案」は衆院に続き一九九六年三月二十七日、参院で可決、成立。療養所入所者の代表は、その歴史的知らせを参院の地下食堂から全国に電話連絡した。厚生省(当時)での会見では「終生隔離から解放された」と、喜びと興奮を隠せなかった。

 「すべてが変わると期待した」。星塚敬愛園の同じ第一次原告の一人、上野政行さん(82)は振り返る。

 だが、高揚した分だけ「その後」の空気はより冷めたものに感じた。

 国賠訴訟も、国と闘うほかに「園内の戦争」があった。「面倒を見てくれるのは国」「療養所内の待遇が悪くなる」。約四百八十人の入所者の大半は、原告に加わるどころか上野さんら訴訟組を批判した。「三年我慢と、曲がったこの指を見つめる日々じゃったな」

 そうやって得た勝訴判決。患者の隔離は必要なかった。偏見も差別も、国の誤った政策で生み出された、と-。

 「でも、言えんのだ」。入所以来変わらぬ六畳一間の自室で、政行さんは明かす。弟の嫁の実家にも、妹の夫にも「隠れみのを着ている自分」の存在を告げられない。週末に園を訪れる地元の小学生には本名を語れるのに。「法の廃止に期待したが何も変わらなかった…。家族が一番遠い」

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 「これだけは知っておいてほしい。私が真っすぐに生きてきたことを」。二〇〇四年五月三十日、鹿児島県国分市(現霧島市)の小学校。上野正子さんが「話の出前」授業を締めくくると、全校児童二十人が駆け寄り握手を求めた。それまでポケットの大きな服ばかりを選び、隠すことばかり考えていた短く変形した指を、子どもたちの手が次々と包み込んだ。

 「曲がっていたのは私のひがんだ心。この時、やっと解放された」

 奇麗事ばかりではない。地元が始めた園訪問交流では、仮病を使って孫を参加させない祖父母がいる。講演で訪れても、紙コップでしかお茶を出さない学校もある。法が存在した九十年間で植え付けられた誤解と差別は、「九十年かかってしか消せないかも」と感じる。でも、「人間は変われると、子どもたちの手が教えてくれた。だから私は『らい』を語るよ」

 正子さんは今、鉛筆を右手に握り、その頭に付いた消しゴムでカチカチとパソコンのキーをたたく。「自分史を書きたいの。裁判に勝ってから始まった人生だから、まだ五歳だけど」

 法の廃止後交流が始まった人たちのことに、多くのページが割かれそうだ。

 (社会部・東憲昭)

     ◇

 ▼平均年齢77・5歳 国内のハンセン病療養所は国立13、私立2の計15カ所。全国ハンセン病療養所入所者協議会などによると、国立13所の入所者数はピーク時の1940年代には定員を上回る1万人以上に上ったが、現在は3099人(3月30日時点)で、平均年齢は77・5歳(今年2月末現在)。療養所内での死亡者の約65%に当たる遺骨約1万6000柱が親族に引き取られないまま各園の納骨堂に眠る。

    ×      ×

 ●入所者高齢化 描けぬ将来

 ハンセン病患者強制隔離の法的根拠だった「らい予防法」の廃止(一九九六年四月一日)後、「人間回復」は着実に進んだかにみえる。だが、約九十年間に及んだ隔離政策がもたらした偏見・差別はなお根強い。

 国の隔離政策は、一九〇七(明治四十)年の「癩(らい)予防ニ関スル件」に端を発する。三一年には「癩予防法」が成立。全患者が隔離対象になった。

 戦後は特効薬プロミンの開発で通院治療が主流になり、世界保健機関(WHO)も隔離政策見直しを勧告するが、五三年の「らい予防法」成立で隔離政策を継続した。

 九〇年代に入り(1)ハンセン病の権威といわれる旧来の学者たちの引退(2)全国の療養所の所長連盟や、らい学会による強制隔離不要の見解発表-などを背景に世論が高まり、九六年、ようやくらい予防法が廃止された。

 国の隔離政策の誤りを追及する国家賠償請求訴訟を、菊池恵楓園(熊本県)と星塚敬愛園(鹿児島県)の入所者十三人が第一陣として提訴。二〇〇一年五月、熊本地裁は国の違法を全面的に認める判決を言い渡した。

 元患者への同情、支援は最高潮に高まったが、熊本県内で起きた宿泊拒否事件(〇三年十一月)のように、長年の絶対隔離政策が社会に植え付けた偏見や差別は根深く、社会の同情も容易に反発に変わることも見せつけた。

 入所者たちは、いまだ本名を明かせず、古里にも戻れない状態が続く一方で、高齢化が急速に進行。社会復帰するには年を重ねすぎ、また、社会に出ても容れられず再び療養所に戻る人も少なくない。各療養所とも入所者は減少の一途。「最後の一人」まで、どう生活、医療の態勢を整えるのか、将来への構想も大きな課題になっている。

 一方で、特に子どもたちを中心にした元患者たちとの交流、訪問事業などが深まりつつあり、多くの問題の中にも、成果を上げてきている。

    ×      ×

 ●全国のハンセン病療養所と入所者数=図、略

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「らい予防法廃止10年」では、他に熊本日日新聞が連載(会員制)
特集ハンセン病
http://kumanichi.com/feature/hansen/
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