「入所者」でない入所者―栗生楽泉園でのケース<その後>

【茨城新聞 2007.05.31 朝刊 近県瓦版】

栗生楽泉園の永井さん 民間託児所で再出発 退去要請され4年

■夫が病死

 元ハンセン病の夫を亡くして草津町のハンセン病療養施設「栗生楽泉園」から退去を要請されていた永井梅子さん(72)の引っ越し先がようやく決まり、このほど新居へ移った。長野原町北軽井沢の民間託児所が救いの手を差しのべたもので、永井さんは「これからの愛のすみか。足が不自由だが、おむつでも一生懸命縫って頑張りたい」と人生の新たな出発を喜んでいる。

 永井さんは、東京の飲食店で働いていた三十歳の時、店に通ってきた鉄夫さん(二〇〇二年十二月に楽泉園で病死)と知り合い、結婚した。当時、鉄夫さんは病気が治ったかに見え、工員として働いており、永井さんは病歴を知らなかった。

 結婚後、その事を打ち明けられた。「なぜ、そのことを言ってくれなかったのか」と聞くと、「そうすればすべてが駄目になると思った」と言われ「破談する理由にはならない」と心を決めたという。

 やがて、鉄夫さんは再発、楽泉園に入園した。病人ではない永井さんの同居は本来は許されないが、懇願の末、“面会人”の名目で黙認された。しかし、園からの生活費支給などは、鉄夫さんだけが対象となり、永井さんが新聞配達などをして家計を支え、約三十年間ともに暮らした。

 〇二年に鉄夫さんが死去したため、園から「退去」を要請された。しかし、天涯孤独の永井さんには、簡単に身を寄せる場所が見つからず、四年間が経過した。

 新居を探している中、北軽井沢の民間託児所「こころ苑」(霜田初子代表)の「老人相談室」で霜田代表と知り合った。交流を重ねるうちに、乳幼児や学童保育の子供たちにも「おばあちゃん」と慕われるようになり、霜田代表から「敷地内のバンガローを改築して住みますか」と持ち掛けられた。

 永井さんは感謝し、園から転居した。現在、託児所の子供たちと触れ合い、施設周辺の散歩などを楽しんでいる。

 霜田代表は「ここの利用者はシングルマザーが少なくない。よきおばあさんとして、おかあさんとしての役目を期待している。地域コミュニティー再生のためのワンステップと思い、来ていただいた」と話している。

【写真説明】

新居で幼児らと交流する永井さん(左)。右隣は霜田代表

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