ハンセン病問題に関する情報、思ったことなど
ハンセン病問題ノート
西日本新聞の連載を転載(2)
西日本新聞
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「壁」は消えたか・らい予防法廃止10年<2>
無理解 「普通」の生活願うが-連載
2006.04.01
中年の男性医師は柔和な表情で、仲本圭二さん(62)=仮名=の腰を診察していた。
「大きな病気にかかったことはありますか」
「ハンセン病でした」
正直に答えた。沈黙は一瞬だった。医師は、視線を外して言った。「ハンセン病療養所で受診してください」
腰痛はハンセン病とはまったく関係がなかった。専門的知識を持っているはずの医師からも理解されない。怒り。いや、悲しみがこみ上げた。服を着て、黙って診察室を出た。ほんの一年ほど前の出来事だった。
仲本さんは十三歳のころ発病し、国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」(熊本県合志市)に入所した。比較的症状は軽く、手や指に感覚障害は残るが生活に支障はない。二〇〇三年四月に退所し同市内で暮らし始めた。
「ただ普通の生活」。受診拒否は、そんな願いを打ち砕いた。以来、体調を崩したときは恵楓園の治療棟に通う。「腰痛でさえ診察してくれないんじゃ、しょうがないね」。あきらめにも似た言葉が漏れた。
□□□
〇一年五月、熊本地裁は国の強制隔離政策を違憲と断じた。判決後、恵楓園から五十六人が退所した。退所者同士で励まし合おうと〇三年五月に「ひまわりの会」(十六人)を発足させ、仲本さんが会長に就いた。
行政との交渉、全国の退所者や支援者との会議を重ねた。理解者は着実に増えた。だが、まだまだ広がりが足りない。受診拒否だけではない。退所者を受け入れる住宅さえ容易には確保できない。「ほとんどの退所者が仮名で過去を隠している。病歴がばれると暮らせなくなる可能性がある」
「らい予防法」の廃止で、療養所からの出口は広がったはずだ。だが、社会への入り口はあまりにも狭い。
「もっと啓発活動に力を入れよう。社会復帰したのに普通の病院に通えないのはおかしい」。今年三月中旬、合志市で開かれた同会の会合で、熊本市の中修一さん(63)が、語気を強めた。
〇二年四月、中さんは恵楓園を退所。本名を名乗り、病歴を明かし、講演活動などを通じて差別と闘っている。
同じ退所者から「あまり目立つことはしてくれるな」と懇願されたこともある。だが、中さんはひるまない。
「差別を恐れて、黙っていては何も変わらない。私たちにも人間らしく生きる権利はあるんだ」
□□□
「中さんみたいにはとてもなれない」。合志浩さん(59)=仮名=は今、過去を語るつらさを骨身に感じている。
昨年、二十代後半の息子から「結婚したい女性がいる」と打ち明けられた。悩んだ末に、女性には自ら病歴を伝えた。彼女は理解してくれた。だが、彼女の両親は強く反対した。
合志さんは十一歳で発病し、恵楓園に入った。二十歳のとき病気が治り一度社会復帰した。過去を隠して大阪の会社で働いた。ハンセン病を報道する新聞を職場で見つけると、そっと隠した。病気の後遺症で再入所。約七年前に再び園を出た。
近所付き合いを避け、行きつけの飲食店でも病歴を話さない。「過去に触れないことが、社会で生きる術(すべ)」。そう信じてきた。
その信念がいま、揺らいでいる。近く、彼女の両親に会い、語ろうと思う。「身近なところで理解者が一人でも増えたら」と考えたからだ。
自分の中に変化は感じている。だが、相手は、社会は-。
変わらなければ。変わってほしい。変わらない世の中に訴える。 (玉名支局・中川次郎)
× ×
▼退所者1390人 全国ハンセン病療養所入所者協議会によると、全国13の国立療養所からの退所者は1390人(2005年1月1日現在)。厚生労働省は、01年5月のハンセン病国賠訴訟熊本地裁判決後、02年4月から退所者の福祉の増進を目的とする「退所者給与金制度」を実施。退所した期日によって最大で月額26万4100円が支給されている。
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「壁」は消えたか・らい予防法廃止10年<2>
無理解 「普通」の生活願うが-連載
2006.04.01
中年の男性医師は柔和な表情で、仲本圭二さん(62)=仮名=の腰を診察していた。
「大きな病気にかかったことはありますか」
「ハンセン病でした」
正直に答えた。沈黙は一瞬だった。医師は、視線を外して言った。「ハンセン病療養所で受診してください」
腰痛はハンセン病とはまったく関係がなかった。専門的知識を持っているはずの医師からも理解されない。怒り。いや、悲しみがこみ上げた。服を着て、黙って診察室を出た。ほんの一年ほど前の出来事だった。
仲本さんは十三歳のころ発病し、国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」(熊本県合志市)に入所した。比較的症状は軽く、手や指に感覚障害は残るが生活に支障はない。二〇〇三年四月に退所し同市内で暮らし始めた。
「ただ普通の生活」。受診拒否は、そんな願いを打ち砕いた。以来、体調を崩したときは恵楓園の治療棟に通う。「腰痛でさえ診察してくれないんじゃ、しょうがないね」。あきらめにも似た言葉が漏れた。
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〇一年五月、熊本地裁は国の強制隔離政策を違憲と断じた。判決後、恵楓園から五十六人が退所した。退所者同士で励まし合おうと〇三年五月に「ひまわりの会」(十六人)を発足させ、仲本さんが会長に就いた。
行政との交渉、全国の退所者や支援者との会議を重ねた。理解者は着実に増えた。だが、まだまだ広がりが足りない。受診拒否だけではない。退所者を受け入れる住宅さえ容易には確保できない。「ほとんどの退所者が仮名で過去を隠している。病歴がばれると暮らせなくなる可能性がある」
「らい予防法」の廃止で、療養所からの出口は広がったはずだ。だが、社会への入り口はあまりにも狭い。
「もっと啓発活動に力を入れよう。社会復帰したのに普通の病院に通えないのはおかしい」。今年三月中旬、合志市で開かれた同会の会合で、熊本市の中修一さん(63)が、語気を強めた。
〇二年四月、中さんは恵楓園を退所。本名を名乗り、病歴を明かし、講演活動などを通じて差別と闘っている。
同じ退所者から「あまり目立つことはしてくれるな」と懇願されたこともある。だが、中さんはひるまない。
「差別を恐れて、黙っていては何も変わらない。私たちにも人間らしく生きる権利はあるんだ」
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「中さんみたいにはとてもなれない」。合志浩さん(59)=仮名=は今、過去を語るつらさを骨身に感じている。
昨年、二十代後半の息子から「結婚したい女性がいる」と打ち明けられた。悩んだ末に、女性には自ら病歴を伝えた。彼女は理解してくれた。だが、彼女の両親は強く反対した。
合志さんは十一歳で発病し、恵楓園に入った。二十歳のとき病気が治り一度社会復帰した。過去を隠して大阪の会社で働いた。ハンセン病を報道する新聞を職場で見つけると、そっと隠した。病気の後遺症で再入所。約七年前に再び園を出た。
近所付き合いを避け、行きつけの飲食店でも病歴を話さない。「過去に触れないことが、社会で生きる術(すべ)」。そう信じてきた。
その信念がいま、揺らいでいる。近く、彼女の両親に会い、語ろうと思う。「身近なところで理解者が一人でも増えたら」と考えたからだ。
自分の中に変化は感じている。だが、相手は、社会は-。
変わらなければ。変わってほしい。変わらない世の中に訴える。 (玉名支局・中川次郎)
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▼退所者1390人 全国ハンセン病療養所入所者協議会によると、全国13の国立療養所からの退所者は1390人(2005年1月1日現在)。厚生労働省は、01年5月のハンセン病国賠訴訟熊本地裁判決後、02年4月から退所者の福祉の増進を目的とする「退所者給与金制度」を実施。退所した期日によって最大で月額26万4100円が支給されている。
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