「入所者」でない入所者―栗生楽泉園でのケース

2007.05.13 信濃毎日新聞朝刊

ルポ07=ハンセン病療養所生活35年 夫の死…入所者でない妻退去へ 「長期面会者」居場所は
 
 和室の片隅に、荷物を詰めた段ボール箱が十ほど積み重ねてある。「クロを連れていけるし、やっとここを出る決心がついたよ」。猫をなでながら、自分に言い聞かせるように話した。

 群馬県草津町の国立ハンセン病療養所栗生楽泉園に暮らす七十代の滋美さん(仮名)。長野県の出身だ。ハンセン病元患者ではない。患者だった夫に連れられ、一九七二年からここで暮らしてきた。夫が五年前に亡くなってから、「行き場」を失っていた。

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 鍛冶職人の夫と出会ったのは東京。ウエートレスをしていた飲食店に、よく飲みに来た。滋美さんは子どものころから右足が不自由だったが、気にするふうもない。「心の広さ」にひかれて、一九六七年に結婚した。

 三年ほどして、夫の顔全体が赤らんできた。「ここじゃ仕事もないから、草津へ行って土木の仕事をしよう」「おまえの悪い足も、草津の温泉に入ったら治るかなあ」。その言葉を疑わなかった。引っ越した先は、栗生楽泉園の中。初めて夫の病を知った。

 夫の口癖は「社会復帰するんだ」。園から町へ働きに出ながら、八一年には町営住宅に応募したが、選に漏れた。国の隔離政策の過ちを認めた二〇〇一年のハンセン病国家賠償請求訴訟熊本地裁判決を弾みに、退所を準備していた〇二年春。夫は体調を崩した。その年の暮れ、息を引き取る。

 九六年のらい予防法廃止まで、ハンセン病療養所は患者の隔離収容施設だった。廃止の時、療養所は「入所者」のための療養施設と、改めて法律で位置付けられた。

 楽泉園はこれまで、滋美さんに退去勧告を繰り返しながら、滋美さんを夫の「長期面会者」とみなしてきた。「入所者」にできないための苦肉の策。全国の療養所で唯一のケースだ。

 夫が亡くなった五日後、園は再び退去を勧告。〇四年一月には園長名で退去命令が出た。楽泉園の北原誠・福祉課長は「人道上、強制的に排除することはないが、規定によって、入所者以外は居住できない」と説明する。

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 昭和三十年ごろまで、栗生楽泉園や菊池恵楓園(熊本県)などの療養所で、患者と一緒に家族が収容されて「入所者」として処理されたケースがある、と複数の元患者は証言する。多くは後に社会復帰したが、園に残った人もいる。ハンセン病に対する偏見と差別のため、いったん隔離されれば園の中でしか生きられない現実があった。

 園内では、国が医療や給食を全面的に保障する「入所者」と、「面会者」との間に明確な線が引かれる。だが、園外から見れば、滋美さんは「入所している元患者」。偏見を恐れ、信州のきょうだいに楽泉園や夫の病気のことは隠し続けた。

 実家は既に代が替わっている。夫が倒れた後、滋美さんは枕元で頼んだ。先立たれたら、収入は月約三万円の年金しかない。「私をかわいそうと思うなら、楽泉園の籍(入所者)に入れて」

 滋美さんのこの“願い”に、元患者たちは複雑な思いを抱える。楽泉園の入所者自治会は、この問題を静観してきた。

 かつて患者は、らい予防法によっていや応なく入所させられ、未来や故郷を奪われた。藤田三四郎会長(81)も、自分の病で妹の縁談が二度壊れ、六十年以上生家の敷居をまたいでいない。「われわれは法律で線引きされて、療養所に隔離、撲滅された。ここは本来、健常者の人がいるべき場所じゃない」

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 楽泉園は「(滋美さんが)ここを出ていただくための支援は惜しまない」(北原福祉課長)という。だが、この五年、退去先は見つからないままだった。近隣の町とも協議したが、「町とすれば法律上、国立療養所の『入所者』に支援の手を差し伸べることはできない。楽泉園とすれば『面会者』なのでお手伝いしかできない」と北原さん。自ら矛盾を認める。

 この状況を見かねて動いたのは、傾聴ボランティアをしていた一人の女性(57)だった。滋美さんからの相談を受けて、悩んだ末、隣町で自身が運営する宅幼老所のバンガローを改築。そこで生活保護を受けて暮らせるよう、手だてを進める。

 宅幼老所の副代表の男性(60)は、園の姿勢を問う。「法律を盾にする前に、一人の人間が三十年以上も楽泉園で暮らしてきたことを、どう考えるのか。本人が移った先に落ち着けるまで力を尽くすのが、園の最低限の責任ではないのか」

 引っ越しは五月半ばと決まった。だが、滋美さんは時折、「できればここ(楽泉園)で暮らしたい」と漏らす。「入所者」にも「社会」にも属せずに、揺れ続けた歳月の重さ。自分の居場所はどこなのか、今もつかみかねる時がある。

   (畑谷史代)

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 ところで、先日草津町で開かれた「ハンセン病市民学会」で制定に向かってのアピールが宣言されたという「ハンセン病問題基本法」(仮称)は、96年に制定された「らい予防法の廃止に関する法律」の廃止をひとつの柱にしている。入所者減による人員の削減、医療・介護の低下が危惧される中、療養所内に他の機能をうたった施設を併設させるためには、ハンセン病療養所を「入所者」のための施設に限定した現行法が壁になるということだ。

 信濃毎日のこのルポでは、「らい予防法の廃止に関する法律」の規定には言及しているが、法廃止や「ハンセン病基本法」待望論にはつなげられていない。自治会長のコメントからも、こうしたケースの救済よりむしろ園内に存在してしまった「健常者」に対する複雑な心情がうかがえる。
 
 「共生」とは何なのか。今しきりに語られている「将来構想」とは、療養所の「社会化」とは、何を目指すものなのか。「ハンセン病問題基本法」(仮称)の制定を望む声を伝える「市民学会」関連のニュース(特に毎日、読売、西日本など)ともよく読み比べてみていただきたい。(vino)


 

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