映画の感想など・・・基本的にネタばれです。
しづのをだまき
一銭五厘のハガキ
2008年03月26日 / 雑
古色蒼然たるハガキが、先夜、伯父の形見の漱石全集第12巻から出て来た。
小ぶりな官製葉書で、一銭五厘、楠正成の図柄である。
消印に「千里も一飛、航空郵便」の標語がある。昭和10年(1935年)7月下旬に、東京市・淀橋区(現在の新宿区あたり)で投函されている。宛名は仙台市の伯父、当時独身25歳、差出人は「K子」さん。
注目すべきは住所以外すべて英字(筆記体)で書いてあることだ。事務連絡と見せかけたラブレターなら気が利いている。当人たちはすでにこの世にはいないだろうし、時効だろうから、失礼してごく簡単に紹介する。
「御元気、それとも御多忙?(Are you well, or are you busy?)
お便りを待っています。(I am waiting for your letters)
明日、家族を追って、父と軽井沢に行きます。鎌倉~仙台の途上で軽井沢に寄りませんか?今年は大きい家が塞がっているので、小さい家を2つ借りました。父には閑静な書斎が必要なので、私は片方で遊び、もう片方で勉強します。便利でしょう?全部で8室あり、貴方が泊っても十分の広さです。荒船山とKozu Plateau(高津高原)に行く予定ですが、貴方が参加して下さると非常に嬉しいのですが。すぐ御返事下さい。」
この令嬢だが、時代の先端を行くかのように英語を操り、のびのびとして健康的、いかにもおじの好みそうな人だなあと思う。
現代から昭和10年を見ると日中~太平洋戦争へと突き進む、暗くあわただしいイメージがあるのだが、ここではそれは裏切られてしまう。さらに、伯父が鎌倉や軽井沢と言う地名と関係あるなんて全く意外である。
伯父の生地は九州南端で父親は教師だし、常々、質素この上ない暮しだったとしか聞いてないが、長男である伯父は東北の大学に進学してから、財政的に他の弟妹とは特別扱いを受けていたようだ。もともと祖父のことばはは東京アクセントだったし、かれも方言と標準語とのバイリンガルであった事が、都会の女性と付き合う上で利点だったかも知れない。
「文芸春秋」4月号で阿川弘之が言っているが、彼の幼少期の
「昭和の初めから12、3年は、けっして後年言われるような暗黒一色の時代ではなかった」とのこと。銀座のしゃれた喫茶店では欧風のコーヒーや洋菓子が自由に味わえたし、アメリカ映画は始終上映されていた。生活物資が豊富なだけでなく1932・36年のLA・伯林五輪大会での日本人の活躍に見られるように、開国維新以来の国盛が最高潮に達したのが昭和10年前後だったのだとか。
伯父とK子さんとの間がその後どう発展したのか、またこの近代的な令嬢が戦中戦後をどう送ったかは分らない。伯父はその10年後に、同じく東京のひとと結婚し「i」君が生まれている。70年以上も文学評論の頁に隠れていて、やっと平成になって日の目を見たハガキ。コピーをとって、実物の方は「i」君に送った。彼の事だから、この文も「のせて構わない」と言ってくれるだろう。
「召集令状」とは全く無関係な一銭五厘のハガキであった。
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今の時代も似たような空気が漂っているような…。杞憂であってほしいと願う一人です。