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一銭五厘のハガキ

 
古色蒼然たるハガキが、先夜、伯父の形見の漱石全集第12巻から出て来た。

小ぶりな官製葉書で、一銭五厘、楠正成の図柄である。
消印に「千里も一飛、航空郵便」の標語がある。昭和10年(1935年)7月下旬に、東京市・淀橋区(現在の新宿区あたり)で投函されている。宛名は仙台市の伯父、当時独身25歳、差出人は「K子」さん。

注目すべきは住所以外すべて英字(筆記体)で書いてあることだ。事務連絡と見せかけたラブレターなら気が利いている。当人たちはすでにこの世にはいないだろうし、時効だろうから、失礼してごく簡単に紹介する。

「御元気、それとも御多忙?(Are you well, or are you busy?)
 お便りを待っています。(I am waiting for your letters)
明日、家族を追って、父と軽井沢に行きます。鎌倉~仙台の途上で軽井沢に寄りませんか?今年は大きい家が塞がっているので、小さい家を2つ借りました。父には閑静な書斎が必要なので、私は片方で遊び、もう片方で勉強します。便利でしょう?全部で8室あり、貴方が泊っても十分の広さです。荒船山とKozu Plateau(高津高原)に行く予定ですが、貴方が参加して下さると非常に嬉しいのですが。すぐ御返事下さい。」

この令嬢だが、時代の先端を行くかのように英語を操り、のびのびとして健康的、いかにもおじの好みそうな人だなあと思う。

現代から昭和10年を見ると日中~太平洋戦争へと突き進む、暗くあわただしいイメージがあるのだが、ここではそれは裏切られてしまう。さらに、伯父が鎌倉や軽井沢と言う地名と関係あるなんて全く意外である。

伯父の生地は九州南端で父親は教師だし、常々、質素この上ない暮しだったとしか聞いてないが、長男である伯父は東北の大学に進学してから、財政的に他の弟妹とは特別扱いを受けていたようだ。もともと祖父のことばはは東京アクセントだったし、かれも方言と標準語とのバイリンガルであった事が、都会の女性と付き合う上で利点だったかも知れない。

「文芸春秋」4月号で阿川弘之が言っているが、彼の幼少期の
「昭和の初めから12、3年は、けっして後年言われるような暗黒一色の時代ではなかった」とのこと。銀座のしゃれた喫茶店では欧風のコーヒーや洋菓子が自由に味わえたし、アメリカ映画は始終上映されていた。生活物資が豊富なだけでなく1932・36年のLA・伯林五輪大会での日本人の活躍に見られるように、開国維新以来の国盛が最高潮に達したのが昭和10年前後だったのだとか。

伯父とK子さんとの間がその後どう発展したのか、またこの近代的な令嬢が戦中戦後をどう送ったかは分らない。伯父はその10年後に、同じく東京のひとと結婚し「i」君が生まれている。70年以上も文学評論の頁に隠れていて、やっと平成になって日の目を見たハガキ。コピーをとって、実物の方は「i」君に送った。彼の事だから、この文も「のせて構わない」と言ってくれるだろう。

「召集令状」とは全く無関係な一銭五厘のハガキであった。
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コメント
 
 
 
Unknown (稲みのる)
2008-04-06 12:19:23
手元にある昭和16年前後の「キネマ旬報」や「映画評論」を見ると、確かに国盛りが最高潮といった観もあります。令嬢のお手紙にも高揚した時代の空気が感じられますね。
今の時代も似たような空気が漂っているような…。杞憂であってほしいと願う一人です。
 
 
 
Unknown (Bianca)
2008-04-07 00:51:17
>昭和16年前後の「キネマ旬報」や「映画評論」とは貴重ですね!対米英戦争がまもなく勃発する時期ですので。このハガキの前後に5・15事件、2・26事件が起き、つまり東北の農村では娘を売るほど困窮していたのに、このような特権階級はどうやらノホホンとしていたようすが見て取れます。
 
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