寝る前に読む本は簡単に寝つけそうな物を選んでいる。
先日は村岡花子訳「赤毛のアン」を読んだ。
「第30章クイーン学院の受験」で14~15歳のアンが進学準備のために教室に残り、これまで片時も離れなかった親友ダイアナと初めて別々になり、窓から彼女のうしろ姿を見送る。その夜アンはマリラに言う。
「ダイアナが一人で出て行く姿を見たら、アラン先生が日曜日のお説教で言いなすったように、まるで死の苦しみをなめたようだったわ」
「死の苦しみをなめた」のはどちらだろうか。私は長年ダイアナととっていた。アンと別れ、進学できないのは辛かっただろうと。が、客観的に見るともともと大した野心などないダイアナが進学できないからと言って、死の苦しみとは大げさではあるまいか。感受性の強いアンだからこその感じ方であり、表現であるのでは。
というわけで図書館で英文を探してみた。
”I really felt that I had tasted the bitterness of death,
as Mr Allan said in his sermon last Sunday"
極めて明快に、私=アンが主語とされている。
ところで図書館には松本侑子訳もあったので、見てみると
「一人で帰っていくダイアナを見たときは、まるで死の苦しみを味わったようだったわ」
とあり、まあ主語はわかる。その上「死の苦しみ」が聖書のどこにあるかまで調べてある。もう一つ、曽野綾子の訳では「死の苦しみ」の部分自体がすっぽり抜け落ちている。
松本訳は93年4月、曽野訳は92年12月刊行。松本侑子は、これまでの翻訳が肝心な部分を省いたり注釈がないことを批判しているが、曽野訳にも当てはまるようだ。
→「少女レベッカ」22-1-18