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不思議なる人 我が母

2月23日(水)

母が85歳の時の歌集を見ている。自費出版にしては装丁が凝っていて、函入りで布装、昔風に薄紙のカバーもついている。短歌については触れないことにして、後書きを読むと、最初に浮かぶ感想が「ずいぶん変わった人だなあ」。すべての文が「どや顔」なのだ。

「どや」とは標準語で「どうだ」、だから「どや顔」とは「これを見ろ、どうだ、すごいだろう!」と言っているような「自分の功を誇る得意顔」のこと。明石家さんまが言い出したらしい。わが家では同居人が、アスペルの姪に関して使ったのが最初だ。「またどや顔している!」「あんたのブログは基本的にどや顔だね」などと言う風に使う。彼は正直で、そういう時は小鼻がひくつく。その頻度は( 彼:私:姪=1:3:5 )ぐらいか、海軍軍縮条約ではないが。

母は夫の影響で歌を始め、歌歴は戦前・戦中・戦後にわたっている。ずっと前、近所の印刷屋から誤植や空白だらけの(活字が足りなかったらしい)歌集を夫婦で出したが、父はその後ちゃんとした歌集を生前一冊、死後一冊出しているし、寡婦として12年、そろそろどうだ、と仲のよい伯父が費用を援助してくれたらしい。

さて不思議な人、母のどや顔の歴史は古い。
母60代初めのころ、次姉のかかっていた東大病院の精神科のドクターに、「あなたのお母さんは実に珍しいタイプだ、自己顕示型と言うのか」といわれたことがある。また長姉の婚約者が、鹿児島までやって来たとき、母のお喋りに何時間か付き合わされたあと、一言「あのお母さんと一緒なら退屈することはないなあ」と言っていたそうだ。後にその婚約は解消された。母のせいではないと思うが。

ティーンの頃、食卓で母の「独演会」を聞くのが苦痛だった。高速度で止まることの無い、クルクルと話題の変わる話しぶりは、専門家が見れば、一目で常軌を逸していると診断するだろう。私たちは生れてこの方それに慣れているから、「国語の先生が家庭にこもって力の使い道がないとこういう風になるのか」と好意的な解釈をしていたが、段々、よその母親は違っているらしいーたとえもと職業婦人でもーと、気がついてきた。だからと言ってよその家の子になるには遅すぎた。
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
Unknown (桃すけ)
2011-02-24 18:09:46
お母様は国語の先生だったんですね。どんな詩を書かれていたのでしょう。興味があります。あなたの文章とはまったく似ていないのですか?感性は似ると思うのですが・・。私の母も本好きでしたが、自分で何かを書くということはありませんでした。叔母(母の姉)は新聞に投稿したりしていたようで、国語の先生になりたかったようですよ。母も3姉妹でした。「雨の日にお香を焚きながら本を読むのが好き」というような人ですが、父と結婚してそのような優雅な生活とは縁がなくなってしまいました。それにしても、どや顔とは笑ってしまいます。可愛いではないですか。
 
 
 
Unknown (Bianca)
2011-02-26 10:20:03
桃すけ様、コメント有難うございます。
自分では認めたくないのですが、似た所が可也あるような気がします。同じ年頃に同じ本を読んでいるし、知的には近いかもしれません。彼女の歌は大胆でバッサリ型。父は線が細くて女性的。師匠の土屋文明には、母の方が覚えが良く、歌会に父だけが行くと「奥さんは?」と聞かれたとか。私は父の歌が好きですが、似たもの同士の反撥もあるのかも。締切日の前になると父は苦悶しますが、母はサッサと仕上げていました。共通の話題は短歌のこと。貧乏でも病気でも、短歌は出来ますが、やはり人的環境が大きいかな。
 
 
 
Unknown (桃すけ)
2011-02-26 13:31:23
ビアンカさんには、そのような文学的?土壌があったのですね。お父様とお母様が歌作りをなさってるなんて、わが家では考えられないことです。察するに、お母様の歌は個性的で魅力的のような気がします。私の母が書いた文章、手紙類も含めて何もないので、どのような文章を書く人なのかわかりません。叔母からの手紙は残っている(当たり前ですね)のに。父はかなり達筆で、絵も描くという人で、手紙は毛筆で候文だったようですよ。当然これも私は目にしていません。従姉妹の家にはあったそうですが、処分して手元にはないそうです。残念です。私は母の家系に似て、まったく字はダメです。いいところは似ないなあと嘆いています。
 
 
 
Unknown (Bianca)
2011-02-27 07:26:16
母の短歌、私のことも2,3作っていますが、思い出すたびにムカッとします。子どもにとっては親は愛情を日々何くれとなく注いでくれればいいので、その外は余計、むしろ邪魔だと思います。歌は「悲しき玩具」であると石川啄木が言っていますが玩具に夢中になっている親というのも考え物です。
 
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