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源頼朝が征夷大将軍に任命される

2011-06-04 15:57:02 | 江戸時代のビッグ二ユース

2006年07月12日




源頼朝が征夷大将軍に任命される 建久3年(1192)

「1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府」で有名な鎌倉時代が幕を開けたのは、この頼朝の征夷大将軍就任によってである。頼朝は征夷大将軍に任ぜられてから鎌倉に幕府を開くが、これは日本初の武家政権であったわけだから、日本の大変革の日であったとも言える。

そもそも、頼朝はかねてより征夷大将軍の位を熱望していた。しかし、後白河法皇が反対し、なかなか実現しなかったのである。法皇の反対の理由は、「征夷大将軍とは、天皇の信頼厚い「廷臣」を任命すべきである。」というものである。頼朝は、鎌倉から動かなかったから、廷臣ではないというわけだ。

しかし、頼朝にも考えがあった。征夷大将軍は、元々東北の蛮人・蝦夷討伐のための役職であったので、頼朝は、この役職の職務を朝権代行職として置き換えて考えていた。これはつまり、東国の最高責任者としての名目になるということである。

だが、後白河法皇は、廷臣以外に征夷大将軍の位を与えるのは朝廷外に新しい権力を産むようなものだとして、一向に許可を出さなかった。とはいえ、源義仲の討伐、平氏討伐で功のある頼朝に何も報いないわけにもいかないので、法皇は右近衛大将という官職を頼朝に与えた。ところが、頼朝は再び征夷大将軍の位を望む大義名分を手に入れる。奥州平泉の制圧である。

なぜ平泉を制圧することになったかといえば、平泉には、平氏討伐後の紆余曲折で朝敵となっていた頼朝の弟・義経が匿われていたからだった。また、平泉は、中央の影響が薄いうえに金の産出量が多い。さらに、大陸との交易も行い、独自の文化を築いていったため、見方によっては独立国家としての体勢を整えようとしていると見えたであろう。ゆえに、これの討伐は、征夷大将軍の役目にぴったりである。頼朝はそう思っていたのかもしれない。

しかし、頼朝の思惑が読めている後白河法皇は、それでも頼朝を征夷大将軍に任じようとはしなかった。あくまでも政治は皇室が、公家中心で行うものという考え方である。少し前まで、貴族に雇われる身分にすぎなかった武士の政権というのは、さすがに想像できないであろうから、後白河法皇の考え方も、まったく仕方ないところではないだろうか。

結局、後白河法皇は、崩御するまで頼朝を征夷大将軍に任ずることを許さなかったが、法皇の崩御後に即位した後鳥羽天皇は、ついに頼朝を征夷大将軍に任じ、公家政権は終わりを告げることとなったのである。

⇒鎌倉の中心・鶴岡八幡宮周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は、『頼朝の天下草創』。シリーズ日本の歴史の鎌倉編。シリーズだけに鎌倉時代の流れも載っているので、頼朝以外のこともわかります。まあこれを気に入った場合、シリーズを全部買いたくなりますが…(笑)。
安い新書では、『源頼朝―鎌倉殿誕生』というのもあります。私は読んでないんですが、レビューを見ると割りと好評ですね。
小説もあります。山岡荘八の『源頼朝〈1〉』が私は好きです。


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(キーワード)

●源頼朝(みなもとよりとも)

鎌倉幕府の創始者。源氏の棟梁。義朝の三男。
父・義朝が、平治の乱で敗れた際、義朝と共に逃げる途中ではぐれ、平清盛に捕らえられる。清盛は最初、頼朝を殺そうとしたが、清盛の母・池禅尼がが命乞いをしてくれたので、伊豆の蛭ヶ小島に流されることになった。伊豆では、北条時政が頼朝を監視しており、頼朝は毎日お経を読む生活をしていたらしい。

以仁王の令旨を受けた頼朝は、監視役ながら平氏をよく思っていなかった北条時政の援助を受けて挙兵。一時、石橋山の合戦で大庭景親に破れ窮地に陥るが、難を逃れ、安房(千葉県)に逃げ延びた。以後は、関東武士団を率い、奥州から参陣した弟の義経を大将に、平氏討伐をすすめ、1185年にこれを達成。しかし、義経とは対立し、旧知の奥州藤原氏を頼って落ち延びた義経を討つべく、奥州征伐を断行し奥州も平定した。

1192年、征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開く。1199年、落馬がもとで死去したとされるが、死因については史書によって様々であるという。


●征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)

基本的には武家の棟梁を表す役職というべきか。
もとは、蝦夷討伐のために、平安時代に設けられた役職で、初代は大伴弟麻呂がつとめたが、平安時代の征夷大将軍といったら、何と言っても坂上田村麻呂が有名であろう。

その後、武家の棟梁を指す役職となり、これになると幕府を開くようになった。「源氏の頭領のみが役職につける」といわれるが、特別そういう規則があるというわけでもないらしい。ちなみに足利・徳川は共に源氏の子孫(徳川の方は自称)。秀吉は百姓の子だけど、さる公家の養子に無理矢理なって藤原姓を名乗ったことはある。でも、征夷大将軍にはなれないので、関白職についた。一説には、公家から「関白の方が征夷大将軍よりも上ですよ」と言われて関白になったともいう。


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個人的に頼朝ってあんまり好きじゃないんですよねぇ。別に判官びいきってわけじゃないですけど、なんというかこう…自分勝手なヤツというイメージがありまして…。

でも去年の大河「義経」の頼朝=中井貴一はなかなかよかったです。個人的にイメージにあっていて…。あ、だけど役柄的にはあんまり好きじゃないですよ。ただ役柄にマッチした演技だったなあ…ということでありんす。

昔、芳賀研二が浮気したときに誠意を見せるとか言って、「誠意大将軍」とか言ってたなあ。何とかけてんだ。何と。恐れ多いものとかけるな!

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