gooブログはじめました!古代からのウソの歴史の訂正と真実を

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ歴史の隠れ話に本物の光を、誠を伝える勇気を子孫のために、

歴史のウラ話&「今日は何の日」です!

2011-06-01 20:24:16 | 江戸時代のビッグ二ユース


歴史のウラ話&「今日は何の日」です!






前の記事│このブログのトップへ│次の記事





2006年07月04日




江戸幕府による鎖国完成 寛永16年(1639)

鎖国政策は、徳川幕府の代表政策ではあるが、実際はオランダや中国の王朝・明とは、鎖国中も交易が続いていたわけであるから、必ずしも徹底されていたわけではないことがわかる。

そもそも鎖国を進めた理由は国内からのキリスト教の排除と、各大名に交易によって力をつけさせないためであるところが大きかった。
1637年には島原の乱が発生しており、キリスト教の弾圧には幕府も敏感になっていたようなのである。

なにしろ、キリスト教の教義は、封建制度を確立するうえでも都合の悪いものだったからだ。おまけに、キリスト教を布教しているスペインやポルトガルには日本を植民地にする計画があるとする噂もあったらしい。だから、キリスト教の布教をしないオランダや明とは国交断絶に至らなかったのである。

鎖国は、実は複数回の海外船の来航禁止や、日本人の渡航禁止命令が出て完成に至る。

まず、元和2年(1616)、ヨーロッパ船の寄港地を平戸と長崎に限定。そして、寛永元年(1624)にスペイン船の来航を禁止し、寛永10年(1633)には奉書船以外の日本船の海外渡航禁止。寛永12年(1635)には、日本人すべての海外渡航と外国にいる日本人の帰国を禁止し、そのうえで、明船の寄港地を長崎に限定した。

ここに1637年の島原の乱が入り、寛永16年(1639)ポルトガル船の来航を全面的に禁止し、一応鎖国が成ったのである。ちなみにこの後、寛永18年(1641)には、平戸にあったオランダ商館を長崎の出島に移して、オランダ人もすべてここに移された。オランダ人はここを出ることを許されず、長崎奉行が厳しく監視したのである。
幕府は段階的に鎖国を進めていたが、海外渡航中で、帰国を禁じられた者たちは気の毒だなあ。

なお、鎖国は、よく知られるように、幕末のペリー来航による日米和親条約締結まで続いたから、およそ2世紀の間、日本は世界情勢から取り残されることになった。

その分、日本国内において、元禄文化、化政文化といった独自の文化が花開いたが、幕末の開国後にそのツケはまわってくる。しかし、明治日本に、偉大な指導者、人物がいたからこそ、日本は西洋列強の植民地になることなく、近代国家の仲間入りをできたのである。

とはいえ、鎖国中にも、熱心に海外の文化や情報を集めようとする人物はいた。

⇒鎖国中の外交窓口・出島跡周辺の地図(livedoor地図情報)
※出島資料館という施設があります。

※写真は『鎖国 ゆるやかな情報革命』。鎖国を通説とは少し違った角度から眺めた本です。介錯の仕方が斬新でけっこう評判もいいみたいですね。


--------------------------------------------------------------------------------

(キーワード)

●島原の乱(しまばらのらん)
1637年に発生した島原・天草地方の農民と有馬・小西などの牢人が組んでおこした一揆。背景には、幕府の出したキリスト教禁令に対する不満や、領主の松倉勝家や寺澤堅高などの過酷な年貢徴収に対する不満などがあったとされる。

天草(益田)四郎時貞という少年が一揆勢を率いて、原城にたてこもった。幕府はただちに板倉重昌を総大将に任じて討伐軍を派遣したが、無理攻めで重昌は討ち死にするという体たらく。ついに「知恵伊豆」こと老中・松平信綱が出張ってきて、包囲を続け、やがて乱を鎮圧した。約3万7千人の一揆加担者は皆殺しとなった。

ちなみに天草四郎は、海の上を歩いていたなどと言われ、キリスト教信者の農民達から神の子と崇められていた。


--------------------------------------------------------------------------------

いやー、何回も何回もにわけて鎖国令出しやがってよぉ!覚えるのに一苦労じゃねぇか!一気にビシッと決められねぇのか!…と言いたくなるくらい鎖国の流れについて、詳しくテストで出たことがあります…(泣)。

↓ぜひご協力お願いします。クリックするだけ!


最新の画像もっと見る