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燈明寺畷で新田義貞死す 延元三年

2011-06-01 17:57:17 | 江戸時代のビッグ二ユース

2006年07月02日




燈明寺畷で新田義貞死す 延元三年 暦応元年(1338)(閏7月2日)

足利尊氏の入京で、比叡山に逃れていた後醍醐天皇であったが、尊氏から「罪を問わない」「今後、再び公家政治をとっていただきたい」などの条件を掲示されて京への環幸を求められ、これに応じた。しかし、天皇に従う新田義貞を尊氏が許すはずはない。そこで、天皇は恒良親王に譲位して、義貞に恒良と尊良親王を連れて北国に落ちるよう命じた。

越前の敦賀につくまでに凍死する者が出たほか、尊氏の一族の斯波高経の軍勢に襲われたりしたが、なんとか生き残り、義貞らは金ヶ崎城に入る。以後、義貞は北陸での勢力確保に乗り出すが、状況は好転せず、足利軍の討手も派遣されてきた。

何度か撃退したが、やがて金ヶ崎城も完全包囲される。義貞とその弟の脇屋義助は、援軍を組織するため、一旦城を脱出。しかし、兵は集まらず、そうこうしているうちに金ヶ崎城は落城した。尊良親王と義貞の嫡子・義興は自害し、恒良は気比太郎の手で脱出したが、やがて捕らえられて京へ護送されたという。

窮地に陥った義貞であったが、中央で北畠顕家の軍勢の上洛・奮戦の影響もあってか、勢力を盛り返し、越前の国府を占領した。しかし、越前にはまだまだ斯波一族の軍勢がひしめいていて、楽観したものではなかった。

そこで、義貞は足羽の攻略を目論み、兵を進めたが、足羽攻めは難航した。そんな時に、越後の新田義貞の一族を大井田氏経らが率いて援軍にやってくる。義貞は援軍を得て、がぜん勢いづき、激しく足羽を攻め立てた。しかし、ここで、義貞に悪い知らせが入る。ずっと義貞に味方してきた平泉寺の宗徒が藤島荘寄進を条件として斯波方へ寝返ってしまったのである。

義貞は足羽への攻撃を中止しようとしなかったが、不吉な出来事も起こった。出陣しようとして、水練栗毛という馬にまたがろうとしたとき、いきなり馬が暴れだし、左右の口取りに重傷を負わせたのだ。合戦前の馬の狂乱は不吉であるとされており、部下からも諫言を受けたが、義貞は出陣した。

運命の日は閏7月2日である。この日は、義貞は本格的に足羽攻撃を行っている真っ最中であったが、藤島城の攻略が芳しくないと聞いた義貞は、勇躍軽騎50騎を率いて、藤島城攻めの方に向かった。部下達は、大将自ら出て行くような城ではないと静止したらしいが、これを義貞は振り切って出陣したのであった。

藤島に至る途中の燈明寺畷で、同じように藤島へ増援として向かう途中の敵軍と遭遇。義貞は慌てて馬を突撃させようとしたが、敵には弓兵が多かった。馬は射抜かれて斃れ、義貞も泥田に投げ出された。起き上がろうとした義貞が上を向いた瞬間である。敵兵の放った矢が義貞の眉間を射て、義貞はあっけなく戦死してしまったのである。一説には眉間を射られた後、自害したとも伝わる。

義貞の死により、足羽攻めは中止され、兵は脇屋義助がまとめて、国府に撤退した。義貞の首は京に送られ、獄門に処されたという。

⇒新田義貞戦没地の碑がある新田塚公園周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は平成3年に放映された『NHK大河ドラマ総集編DVD 太平記 3枚組』。近年不評の大河ですが、この作品はハマリ役も多く、かなり好評。平均視聴率26.0%というのも納得の作品。佐々木道誉@陣内孝則や、北条高時@片岡鶴太郎は特に見所です。
※太平記本として、全巻をダイジェストで読める『太平記要覧』は初心者にも超オススメ。年表と主要人名事典、キーワード解説もついてます。


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(キーワード)

●新田義貞(にったよしさだ)
上野国(群馬県)に大勢力を持っていた南北朝期の武将。鎌倉幕府を滅亡させた男。
元弘の変の時は、鎌倉幕府軍の一員として、楠木正成の籠もる千早城攻めに参加していたが、このときすでに心は幕府を見限っており、ほどなくして病と偽って領国・上野に帰ってしまった。

1333年5月8日に新田庄生品明神で倒幕の兵を挙げる。一説に後醍醐天皇の密命を受けていたものとされるが、定かではないらしい。挙兵後は、次々と送られてくる幕府の討手を撃破し、ついに鎌倉を落として幕府を滅亡させた。

幕府滅亡後は後醍醐天皇に従うが、討幕に参加していた足利尊氏とは対立するようになる。そして、尊氏がやがて天皇に叛いたため、その後は天皇軍の主力として尊氏の追討に尽力した。一時は尊氏を九州に追い払うが、軍勢を整えて戻ってきた尊氏に湊川の合戦で敗れて、敗走した。

その後も後醍醐天皇に従って北陸方面で転戦したものの、足利軍に攻められ、ついに藤島の合戦で敗死。『太平記』によると、眉間に矢を受けて討ち死にしたという。


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久しぶりの南北朝時代の出来事です。
新田義貞は、後醍醐天皇の軍の中心人物で、勇猛果敢な武将でしたが、戦術面ではいまひとつ思慮に欠けるところがあったようです。まあ失敗談だけを取り上げるとそういう評価になりますが、功績もいろいろと多いですよね


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