平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

石山寺

2007年11月25日 | 平安時代

石山寺

 2007.秋の紅葉を楽しむために行ったのは石山寺です。 滋賀県大津市にある真言宗の寺院で、本尊は如意輪観音です。 発願は聖武天皇、開基(創立者)は良弁で清水寺や長谷寺と並ぶ、観音霊場です。 石山寺は『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などにも登場し、『源氏物語』の作者・紫式部は石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承があります。 石山寺の由来は本堂が天然記念物の珪灰石という巨大な岩盤の上に建っているところからきています。 2007/11/17(撮影:クロウ)

東大門と参道

 

 

本堂(国宝)

 伽藍は本堂、合の間、礼堂からなる複合建築で、内陣には本尊如意輪観音を安置する巨大な厨子がある。 合の間と礼堂は淀殿の寄進で1602年に建立されたものである。 懸造の本堂は、清水寺、長谷寺など、観音を祀る寺院に多い。

 

 本堂から見下ろす紅葉

 

 

合の間

 合の間の東端は「紫式部源氏の間」と云われ、執筆中の紫式部の像が安置されている。紫式部の奥にいる童は藤原賢子? 

 

多宝塔(国宝)

 1194年の建立は最古の多宝塔である。 内部には快慶作の大日如来像が安置されています。 

 

 

 御影堂(開山堂)             石山寺由来の珪灰石

 

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平等院

2007年11月24日 | 平安時代

平等院 2007.11.23

 久しぶりの平等院は少し寂しい紅葉でしたが、平成16年1月より行われていた平成大修理事業を終えて久しぶりに姿を現した阿弥陀如来座像、天蓋をはじめ、平等院ミュージアム鳳翔館における雲中供養菩薩像など数多くの国宝展示等々、その当時の優美な姿を現在に伝える魅力満載のものでありました。

 

 

 

  

 

 1052年は釈迦入滅後2000年を経て、この年に末法を迎えると考えられていた。 この年に、関白左大臣・藤原頼通は、道長から受け継いだ宇治の別荘(宇治殿)を寺に改め本堂を供養し平等院と名付けた。前年には60の賀を祝い、極楽浄土に生きることを望んだようである。 翌年1053年には阿弥陀堂(今の鳳凰堂)を完成させ、頼通がなくなるまでの20年間に、法華堂、多宝塔、五大堂などが造営されている。 1061年には後冷泉(後朱雀と嬉子の皇子)皇后の寛子(頼通娘:1036-1127)が多宝塔を建立し、後に関白となる三男師実も1066年に五大堂(五大明王が本尊)を建立した。  鳳凰堂の三間四方の典型的な阿弥陀堂の左右に翼楼と楼閣を設けた独特の建物様式は、阿弥陀浄土図の宝楼閣を模したものであった。 つまり、平等院の鳳凰堂は阿弥陀如来と同様に極楽往生へいたる観想の場なのである。 1067年に弟・教通に関白を譲った頼道は1074年に83歳でなくなるまで極楽浄土を観想 (極楽浄土を実際に見るために浄土を構成する仏像・仏画を観察し記憶する訓練) して過ごしたという。 その後は後冷泉天皇の皇后・寛子がここで仏事と遊宴に過ごしたが、やがて藤原一門は衰退の一途をたどる。 1231年、平等院を訪ねた歌人・藤原定家は堂の破損ぶりを嘆き、あまりの痛々しさに阿弥陀堂に参らずに帰ったとしている。  

 別荘宇治殿は889年嵯峨天皇(784-842)の皇子・源融(823-895)が築いたもので、融亡き後陽成天皇(清和皇子869-942)が離宮とし、やがて宇多天皇(867-931)の所領となって朱雀天皇(923-952)の離宮・宇治院となる。 998年には当時左大臣の藤原道長が譲り受け、宇治殿とよんだ。 1027年道長亡き後は、頼道が引き継いで1052年(末法初年)に本堂を建立して平等院と号して仏寺とした。

 仏教が日本に初めて伝えられたのは、百済から欽明天皇時代の538年10月13日だと云われている。その後、仏教の扱いは、政治的なものがあり、蘇我氏が中国との友好関係を保つために国粋派の物部氏を退け採用した。その後、推古天皇の即位に伴う聖徳太子が皇太子となると敬虔な仏教徒となり、四天王寺や法隆寺を建立し、仏教が国教となった。以来、聖武天皇による東大寺の建立など仏教研究も盛んに行われるようになった。しかし、奈良仏教も腐敗堕落や玄肪や道鏡などが政治的野心を持ったがための失脚など、戒律の乱れが生じていた。こうした背景もあり、794年(延暦13)に京都・平城京への遷都が行われ、最澄や空海による新たな教えが広められ、一般大衆への広がりも見えるようになった。当時の人々の最大関心事は、病気とか死であり、古代からの神道ではこの腫の問題解決が出来ず、僧侶による読経や祈祷が受け入れられるようになった。又、日本古来の神道との合体が図られた「本地垂迹説」も現れた。しかし、空海や最澄の教えは、朝廷や貴族、学者、僧侶といった人々の関心事にしか過ぎず、一般大衆から浮き上がった存在であった。

 平安後期から末法思想は、頃の貴族達に浄土の世界への願望を高めていったという。それが、阿弥陀仏への信仰であり、西方浄土への願いとして阿弥陀如来を祀るお寺を創建するという流れになった。この末法思想は、仏陀の教えを三段階のフェーズに分け、「正法」、「像法」、「末法」と区切り、「正法」は、釈尊が入滅後500年或いは1000年間の間は、正しい教えが行われ、証果があるという。次の「像法」は、正法の後500年又は1000年の間は、教法は存在するが、真実の修行が行われず、証果を得るものがないという。そして、「末法」は、像法の後の一万年の間、仏の教えがすたれ、修行するものも悟りを得る事も無くなり、教法のみが残ると云われ、この「末法」時代が、1052年(永承7)に始まると信じられていた。 絶大な権力を手中にし栄華をきわめていた藤原道長も自らが建てた法成寺の阿弥陀堂に横たわり、九対の阿弥陀如来像の手に結んだ糸を握ったまま、死出の旅路についたという。このような来世への願いと現世の生活といいた両面から、東方の浄瑠璃浄土の薬師如来と西方の極楽浄土の阿弥陀如来を祀る伽藍配置が多くあったという。しかし、こうした伽藍配置も残余するものは少なく、京都では浄瑠璃寺のみだろう。そして、西方の極楽浄土を表したという平等院が、末法思想に対する思いが見える。そして、この末法時代から新たな鎌倉仏教の誕生へと進んでいく。

 ところで、観経は上、中、下の三品の観想があり、九品往生としてあらゆる衆生の極楽往生を説いている。 これを描いたのが鳳凰堂の扉絵の阿弥陀九品来迎図である。 来迎とは、仏教中の浄土教において、紫雲に乗った阿弥陀如来が、臨終に際した往生者を極楽浄土に迎える為に、観音菩薩・勢至菩薩を脇侍に従え、諸菩薩や天人を引き連れてやってくることを云う。 鳳凰堂の正面(東面)の三扉には上品上生図、上品中生図、上品下生図を描き、右側北面の扉には中品上生図、奥扉には中品中生図、 左側の南面の扉には下品上生図、奥には下品中生図など九品来迎図が描かれている。 さらに各扉絵には色紙形がそえられ観経の経文が書き抜かれているが、これは当時第一の能書家・源兼行の書である。 兼行は後冷泉、後三条、白河の三代の大嘗会屏風の色紙形を記した。 

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安芸の宮島・厳島神社

2007年11月17日 | 平安時代

安芸の宮島・厳島神社

 広島県の宮島にある1400年の歴史をもつ神社へ行ってきました。 途中岡山吉備の大吉備彦命陵等々を経由しながら約300km、高速を飛ばす。 目的は秋の紅葉を見るためであるが、残念ながらほとんど紅葉の醍醐味には出会えなかった。 まだ10日程度早かったようです。 フェリーへ宮島へ向かい、宮島桟橋から西へすぐのところに厳島神社参拝入り口があり、ほど近い丘にそびえるのは五重塔です。

 全国各地に約500社ある厳島神社の総本社であるここ厳島には、宗像三女神(市杵嶋姫命、田心姫命、湍津姫命)を祀っています。 市杵島姫命(イチキシマヒメ)は、日本神話に登場する水の神で、古事記では市寸島比売命、日本書紀では市杵嶋姫命と表記する。 天照と須佐男の誓約の際に、スサノオの剣から生まれた宗像三女神の一柱である。 神名の「イチキシマ」は「斎き島」のことで、「イチキシマヒメ」は神に斎く島の女神という意味である。  厳島神社のある宮島は、古代より島そのものが神として信仰の対象とされ、 593年、土地の有力豪族であった佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのに始まると伝わる。

また、平安時代末期に平家一族の崇敬を受け、1168年頃に平清盛が現在の社殿を造営した。 平家一門の隆盛とともに当社も盛えた。平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けた。 戦国時代に入り世の中が不安定になると社勢が徐々に衰退するが、毛利元就1555年の厳島の戦いで勝利を収め、厳島を含む一帯を支配下に置き、当社を崇敬するようになってから再び隆盛した。

厳島神社と五重塔

 

厳島神社参拝入り口からすぐ廻廊が伸びます。この廻廊の幅は4m、長さは約275mで、 朱塗りが見事に映えます。

 

高舞台 

 本社祓殿前にある、黒漆塗りの基壇に朱塗りの高欄をめぐらし前後に階段をつけた舞台で、平清盛が大阪・四天王寺から移したという舞楽がここで演じられます。舞楽の舞台としては最小のもの。現在の舞台は天文15年(1546年)、棚守房顕によって作られたもので、当初は組立て式だったものが江戸時代初期に現在のような作り付け構造になったと考えられています。

 

能舞台と反橋

国内でも唯一の海に浮かぶ能舞台。現在、重要文化財に指定されている国内5つの能舞台のうちの1つでもあります。厳島での演能は、永禄11年(1568年)の観世太夫の来演がその始まりとされ、慶長10年(1605年)には福島正則が常設の能舞台を寄進。現在の舞台と橋掛及び楽屋が建立されたのは藩主が浅野氏に代わった延宝8年(1680年)のことです。この能舞台は海上にあるため通常は能舞台の床下に置かれる共鳴用の甕(かめ)がなく、足拍子の響きをよくするため舞台の床が一枚の板のようになっているのが特徴。春の桃花祭神能がこの舞台で演じられるほか、茶道表千家と裏千家家元が隔年交互に執り行う献茶祭ではここでお茶が点てられ御神前に献じられます。

かつては重要な祭事の際、勅使がこの橋を渡って本社内に入ったことから別名・勅使橋(ちょくしばし)とも呼ばれました。現在の橋は、弘治3年(1557年)に毛利元就・隆元父子によって再建されたもので、擬宝珠の一つに刻銘が残っています。

 

 

大鳥居

本社火焼前(ひたさき)より88間の海面にそびえる朱塗りの大鳥居は、奈良の大仏とほぼ同じ高さの16.8m、重量は約60t。主柱は樹齢500~600年のクスノキの自然木で作られており、8代目にあたる現在の鳥居を建立するにあたっては、巨木探しに20年近い歳月を要したといいます。また根元は海底に埋められているわけではなく、松材の杭を打って地盤を強化し、箱型の島木の中に石を詰めて加重するなど、先人の知恵と工夫によって鳥居の重みだけで立っています。

 

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長谷寺

2007年10月28日 | 平安時代

王朝女人が詣でた長谷寺

 奈良・桜井市にある長谷寺には藤原定家、俊成の記念碑があるということで行って参りました。 長谷の地は、その昔泊瀬、初瀬、始瀬、終瀬と云われ、瀬が始まるところ、または瀬が果てるところであった。 古くは神意を仰ぎ、「神河」と呼ばれていた。 初瀬は三方を山に囲まれ西方のみが開けた「隠国(こもりく)の里」であった。 5世紀に泊瀬の小野に遊んだ雄略天皇は雄渾な国褒めの歌を歌っています。

隠国の 泊瀬の山は 出で立ちの よろしき山 走りでの よろしき山の 隠国の 泊瀬の山は あやにうら麗し あやにうら麗し

 三輪山のすぐ東に位置するこの古寺は、我が国最大の木造仏といわれる本尊十一面観世音菩薩像など、重要文化財が多々ある寺でもあり、草創については686年僧・道明が天武天皇のために銅板法華説相図を西の岡に安置し初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立し、のち727年僧・徳道が聖武天皇の勅願により東の岡に十一面観世音菩薩を祀り、僧・行基が開眼供養し寺が成立したと考えられていますが、正史に見えず、伝承のようです。 四季折々の花が境内を美しく彩る寺でもあり、四月下旬から五月中旬にかけて牡丹の花が見事に咲くことでも知られています。 また、平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集め、1024年には藤原道長が参詣しています。 古くから牡丹の花が咲き乱れ 「花の御寺」と称されていて、「枕草子」、「源氏物語」、「更級日記」など多くの古典文学にも登場します。 中でも「源氏物語」にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っています。 

 蜻蛉日記の著者である藤原道綱母(受領・藤原倫寧の娘で954年に藤原兼家と結婚)が初瀬詣を果たしたのは968年でした。 夫藤原兼家を振り切って少ない供と旅に出ます。 方違いを法性寺(今の東福寺)に定めて早朝出立し、伏見稲荷を横目に進み宇治で昼食後、木津川そばの橋寺(泉橋寺)に泊まり、 二日目は木津川を越えて春日大社を経由して椿市(今の桜井市近辺の海石榴市に泊まります。 椿市は当時交通の中心地として栄え、枕草子や源氏物語にも登場しています。 行きはほとんど一人旅のようで、深い憂色に包まれているが、帰りは、宇治まで兼家が迎えにきており、蜻蛉日記には浮き浮きと明るい調子で描かれています。

仁王門

 

仁王門をくぐらずに境内図の前を右に進むと藤原定家塚・俊成碑へ

 

中央は藤原定家塚 左が俊成碑

  

源氏物語の「玉鬘」の巻に登場する二本(ふたもと)の杉

 

 源氏復権後の栄華を極める生活の中の新たな物語です。夕顔の娘「玉鬘」(21歳)は、筑紫で美しく成人していました。 源氏は、その姫を探し出して引取りたいと考えていました。その夕顔の遺児「玉鬘」は、4歳のころ乳母一家に伴われて、立派に成人していました。その美貌に求婚者が殺到する中、乳母とその家族たちは、玉鬘を上京させて父の内大臣や母に巡り合わせたいと都へ上る決心をし、早船を仕立てます。神仏に願をかけ、長谷寺の御利益を頼みに、参詣の旅にでます。その旅の宿(海石榴市の宿)でかつての夕顔の女房右近とめぐりあいます。 右近は夕顔亡き後、源氏に仕えるようになってからも、夕顔の忘れ形見めぐりあいたいと、長谷寺に祈願をしていたのです。まさに長谷寺の引き合わせでしょう。この感動的な巡り合いをお互いに喜び、右近と乳母は語り合います。右近は、みすぼらしい身なりをしているものの、玉鬘の美しさに驚き、早速京に戻って源氏に報告します。源氏の驚きと喜びは大きく、早速玉鬘に文を送ります。源氏は、玉鬘を六条院に引取り、花散里のもとに預けます。  はじめて見る玉鬘は、夕顔の面影をそのままうつしており、源氏は満足です。夕霧は、玉鬘を姉と信じ、玉鬘を守って筑紫から上ってきた乳母の子も家司に迎えられ、思いがけない幸せの中に年の暮れを迎えました。

 紫式部は「玉鬘」の中で長谷観音の霊験を 「仏の御中には、初瀬なむ、日本の中にはあらたなる験あらはしたまふと、唐土にだに聞こえあむなり」 と讃えています。

本堂 木造の十一面観世音菩薩が祀られています 

 

 本堂は代表的な江戸建築で、創建は奈良時代といい、平安時代には礼堂があったとされている。現本堂には巨大な十一面観音菩薩が祀られ、1650年に徳川家光によって再建された。

 礼堂の前には舞台があり、紅葉の季節には幽玄のつどい「芸能奉納」が行われます。 また、紅葉の季節には舞台から見下ろす長谷寺全景の絶景が想像されます。実はこの「幽玄のつどい」、長谷寺に行って知ったのですが先週13:00から行われていました。 室町時代の貴族・武家社会には、幽玄(美しく柔和な優雅さのことをいいます)を尊ぶ気風がありました。 世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていったと考えられています。 世阿弥は将軍や貴族の保護を受け、特に摂政二条良基には連歌を習い、これは後々世阿弥の書く能や能芸論に影響を及ぼしたのです。 今回「夢幻能」が見れなかったのは誠に残念でした。


 

本堂と仁王門を結ぶ上登廊と上下登廊の中間にある蔵王堂

 

蔵王堂の横には紀貫之・古里の梅と一茶の句碑があります

 

仁王門への下登廊 観音万燈会時には上下の数百の燈籠に火が灯る

 

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良峯安世王

2007年10月07日 | 平安時代

 良峯安世とその子・良峯宗貞

 臣籍を賜った皇子・皇族を賜姓王氏という。桓武平氏や嵯峨源氏が代表的であるが、良峯氏や在原氏も見逃せない。 桓武天皇が下級女官である永継(ヨウキョウ)に産ませたのが後の良峯安世王といって嵯峨天皇とともに平安文化に生きた逸材である。 母・永継は藤原内麻呂の妻として冬嗣・真夏を産んでいるが、真夏は安殿親王(後の平城天皇)側に、冬嗣は賀美能親王(後の嵯峨天皇)側についた。 学問好きの安世は、そのうち賀美能親王から誘われて御所に出仕するようになると、安世は親王にその学才を見抜かれてかわいがられたのである。 母・永継の大らかな性格を受け継いだ良峯安世王は臣籍に下り、なかば桓武天皇に見捨てられた運命を悲観することもなく、 藤原氏の時勢もあり大納言まで進んだ。 その子・良峯宗貞は815年の生まれで、仁明天皇の寵愛を受けて蔵人頭の職を得ている。 ところが仁明天皇40の賀を催したばかりというのに逝去すると、良峯宗貞は出家して遍昭と名乗った。遍昭と同じく出家した天皇の子・常康親王は旧居を雲林院と変え、遁世歌人の交友の場となった。僧正遍昭の息子・素性法師と由性法師もその中に加わっている。

 遍昭出家後比叡山で修行を積んだあと、名僧として再び宮廷に迎え入れられ、後の陽成院となる皇太子・貞明親王の護持僧に任じられたが、それは陽成院の生母・高子の仕業である。 後に陽成院が廃され、光孝天皇が即位するが、光孝は遍昭の母を乳母として育っており、遍昭は益々厚遇を受けることとなった。 この厚遇はこうした巡りあわせだけではなく、天台宗からでた初めての僧正である遍昭の手腕であることはいうまでも無い。 遍昭の後半生の華麗なる活動の中で、和歌は生み出されたのである。

僧正遍昭:天つ風雲のかよひ路吹きとぢよ乙女のすがたしばしととどめむ

素性法師:今こむといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな

百人一首 僧正遍昭百人一首 素性法師

実は、この遍昭僧正の墓ですが、偶然みつけることができました。 東福寺から藤原順子が眠る安祥寺へ向かう途中のことです。カーナビの地図に写った遍昭墓の文字に思わず喜び、向かいました。 住宅地の中へ少し入ったところにあり、思わず通り過ぎるようなところにありました。

 

蘇我娼子娘  
  ┣ 武智麻呂(南家)680-737
 
  ┃  ┃               軽皇子(42代文武天皇) 701-756    縄主
  ┃  ┃               ┃ 多治比真宗769-813       ┣娘
 
 ┃  ┃             ┃    ┣ 葛原親王786-━高望王 薬子┃
 
 ┃  ┣ 仲麻呂706-764  ┃      ┃是公娘・吉子-807  
   ┃┃
  ┃   ┃         ┣   ┃   
 ┃┣ 伊予親王 -807    ┃┃帯子(百川娘)
  ┃  ┣ 巨勢麻呂 房前娘 ┃    ┃
┃乙牟漏皇后 760-790   ┃┃┃伊勢継子
  ┃ 貞姫                ┃    ┃┃┣ 高志内親王789-809 ┃┃┃┣高岳親王

  ┣ 房前  (北家)681-737┃     ┃┃┣ 安殿親王774-824 (51平城天皇) 
  
  ┃  ┣ 永手714-771     ┃和新笠┃┃┣ 賀美能親王786-842(52嵯峨天皇)┣阿保 
  
  ┃  ┣ 魚名-783        ┃   ┃┃┃┃ ┣業良親王   ┣正子 藤子    ┃ 

  ┃  ┃         ┃   ┃┃┃┃ 高津内親王 橘清友┣54仁明810-850 *
 
 ┃  ┃   坂上田村麻呂┃   ┃┃┃┃       ┣橘嘉智子┣55文徳帝(道康)   
  
┃  ┃   登子  ┗広野┃   ┃┃┃┃            ┗橘安万子順子┗56清和天皇 
  
┃  ┃    ┣        ┃   ┃┃┃┃          真作┃      ┗貞数親王
  ┃  ┣ 真盾━内麻呂-812┃    ┃┃┃┃種継           ┣三守         ┣女
  ┃  ┃    ┣ 真夏774┃   ┃┃┃┃ ┗藤原東子-807┗美都子   *  ┏文子
 
┃  ┗ 鳥養  ┣ 冬嗣775┃   ┃┃┃┃  ┣ 甘南備内親王800-817 
┣在原行平
  ┃       ┃ 永継 ┣長良┃    ┣山部王(50代桓武天皇)737-806     ┣在原業平

  ┃       ┃    ┣良房┃    ┃  ┃┣良峯安世785-830    ┣ 伊都内親王
 
 ┃       ┃    ┗順子┃    ┃  ┃永継
 ┗良峯宗貞815- 平子(乙叡娘)
  
┃       ┗子黒麻呂-794 ┃    ┃  ┃ヨウキョウ
  ┗素性法師 正子皇后
  ┃               ┃    ┃  ┃           ┣恒貞親王(皇太子)
 
 ┣ 宇合ウマカイ(式家)694-737┃  
┃ ┣ 大伴親王786-840(53淳和天皇)
  ┃   ┣ 広嗣 諸兄に対乱 ┃   ┃百川娘・旅子 759-788
  
  ┃  ┣ 良継 白壁王支持 ┃   ┣ 早良親王750-785(崇道天皇 大伴家持派)

  ┃   ┃  ┣ 乙牟漏      ┃白壁王709-781(49代光仁天皇)        
 
 ┃   ┃ 阿部古美奈-784  ┃       ┣ 他部親王761-775        
  
 
 ┃  ┣ 百川 道鏡追放   ┃県犬養広刀自┣ 酒下内親王754-829(斎宮) 
  
  ┃   ┃  ┣ 緒嗣774-843 ┃ ┃       ┃  ┣朝原内親王779-817(斎宮)    
  ┃  ┃  ┣ 旅子-788    ┃ ┃     ┃ 桓武天皇  ┣   
  
 
 ┃  ┃  ┗ 帯子-794    ┃ ┣ 井上内親王717-775  平城天皇  
  
  ┃   ┗ 清成          ┃ ┣ 不破内親王        
  
  ┃  賀茂比売         ┣首皇子(45聖武天皇)701-756 
  ┃   ┣ 藤原宮子   ━━┛ ┣ 基皇太子727-728

  ┃   ┣ 長娥子(長屋王妾)  ┃
 
藤原不比等 659-720          ┣ 阿部内親王(46孝謙/称徳718-770)
       ┣━━━━━━━━ 安宿姫701-760(光明子・皇后)
県犬養(橘)三千代-733 

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小野篁

2007年10月07日 | 平安時代

小野篁

 小野篁(タカムラ)は、延暦21年(802~852)生れで、嵯峨天皇の勅を奏じて「凌雲集」を撰じた参議・小野岑守の子である。 嵯峨天皇に遣えた平安初期の政治家であり、文人、歌人でもある。文章生から東宮学士などを経て閣僚級である参議という高級官僚にまでなり、また乗馬、弓術、剣術など武術百般にも優れた文武両道の人物であった。  不羈(ふき)な性格で、奇行も多く、昼は朝廷で仕事をして、夜は閻魔王宮の役人であったという。この奇怪な伝説は、「江談抄」(ごうだんしょう)や「今昔物語」などの説話集や「元亨釈書」(げんこうしゃくしょ)等にも数多く見られることから、平安末期頃には、篁は独特の神通力をもち、常に現世と冥土の間を行き来していて、閻魔庁における第二の冥官であると語り伝えられていたことが伺える。
 また、篁は承和5年(838)の三十代半ばで遣唐副使に任じられ、四隻で九州を出発したが間もなく難破し翌年三隻で再出発するが再び難破する。 藤原常嗣の難破船の損傷が激しく、小野篁の乗船と交換したため、小野篁は強硬に抗議し、もう一人の副使の藤原常嗣と争った。 しかも「西道揺」という詩を詠んで遣唐使制度を風刺したことなどにより、嵯峨天皇の怒りに触れて隠岐へ流罪となり、一切の官職官位を奪われたこともある。 隠岐へ船出するときに詠んだ歌が次ぎである。

小野篁: わたのはら八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟

百人一首 法性寺入道前関白太政大臣

  しかし、承和7年(840)には帰京・復位を許され、その後は学殖を高くかわれて順調に官位を昇り、承和14年には従三位という高位についていることからも、篁の尋常でない才能のほどがわかる。  小野氏はその昔、大化の改新の頃は和邇臣系に属し、葛城氏や蘇我氏と並ぶ有力な大氏族で、春日、大宅、粟田、柿本、小野に分裂し小野妹子、小野老から小野岑守・小野篁といった公卿期を絶頂とし、その後も古今歌人の小野春風、小野道風を輩出するが、小野小町で没落の一途を辿った。 

 今回、小野篁の墓へ行って来ましたので紹介します。 それは大徳寺から東へ歩いて10分くらいの堀河通り沿いで、北大路通りの南に位置します。 島津製作所の敷地の一角を墓地として整備しており、わかりにくいところではありましたが、立派に管理されておりました。 因みに紫式部の墓も並んでおります。

 

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法性寺(東福寺)

2007年10月07日 | 平安時代

法性寺(現在の東福寺)

 1006年、藤原道長は法性寺に五大堂を建立し、供養を行った。 法性寺(平安時代には定額寺)は藤原忠平(880-949 基経の4男)の建立であり、摂関家の氏寺である。 本堂、礼堂、五大堂、南堂、尊勝堂などがあり、958年に火災により大きな被害を受けたが、道長が五大堂を再建した。 五大堂には不動、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉の五大明王を安置する堂である。 この五大明王を本尊として修する五壇法は、良源(慈恵大師912-985)によって広められた。 967年、冷泉天皇の狂気が強まったときには、良源は五壇法の中壇を務め、またその後も円融天皇の病を回復させたことから、名声を博した。 道長は五壇法を篤く信じたようで1008年、彰子の出産間じかに土御門第で行った五壇法の祈祷は「紫式部日記」や「栄華物語」に記されている。  「ほど近うならせたまふままに、御祈りども数をつくしたり。五大尊の御修法おこなはせたまふ。 観音院の僧正、二十人の伴僧とりどりにて御加持まいりたまふ。」  道長の五大堂への信仰は篤く、供養の翌年には五壇法を修し1013年には前年の病気を受けて五壇法を修し、1018年には病の為に十日間以上五大堂に参籠し、頼通の病の時には実資とともに籠もったりもしている。 その後も五大堂で頼通の算賀が行われたり、師通や中宮賢子が五壇法を修するなど、道長一門の祈祷の場として重要な位置を占めた。 

 当時、広大な境内を所有していた法性寺は現在では東福寺として多くの人で賑わう紅葉の名所でもある。 東福寺の北大門から本堂まではかなりの距離があるが、中ほどにある同聚院には中尊不動明王が祀られていて、作者は無量寿院造営で中心となった仏師・康尚である。 同聚院を訪れる人はほとんどなく、寂しい感じではありましたが、雑踏から開放された阿弥陀如来座像が奥にひっそりと佇むのを見るとなおさら当時のことが思い起こされて感慨無量でございます。

同聚院にある中尊不動明王・阿弥陀如来座像(康尚作) (撮影:クロウ) 

 

 また、東福寺の西に隣接して、法性寺という小さな尼寺があるが、ここに安置されている千手観音は忠平が建立した法性寺の本尊である。  康尚は991年から宮中や世尊寺、浄妙寺、無量寿院、比叡山、高野山などの造仏で事績があり、藤原道長や行成に重用された。 行成が残した「権記」にも康尚はしばしば登場し、行成は999年に康尚の邸に赴き、世尊寺に安置する大日如来、普賢菩薩、十一面観音作り始めの儀を行っている。 世尊寺は行成の創建によるもので、母方の父・中納言・源保光の旧宅(桃園第)を寺にしたものである。 道長も供養の前日に世尊寺を訪れており、康尚の仏像を見ている。 1002年には故東三条院(詮子)のため法華八講に用いる本尊三体を作っている。 また1005年彰子のためにも金色薬師、十一面観音、彩色不動を造り始めている。 この年に浄妙寺三昧堂の本尊を造り、御堂関白記に記されている。

 東福寺の大門、同聚院を過ぎると一華院、臥雲橋があります。また臥雲橋からは偃月橋が見えます。 偃月橋は、本坊より塔頭、龍吟・即宗両院に至る三ノ橋渓谷に架かる木造橋廊です。桁行十一間、梁間一間、単層切妻造の屋根は桟瓦葺。下流の通天・臥雲両橋とともに東福寺三名橋と呼ばれています。  さらに南に進むと日下門があり、これをくぐるとすぐに方丈・本堂を望むことができます。 本堂の南には三門があり、三門の西には禅堂、東司、六波羅門が、また東には十三重石塔、浴室などがあります。 さらに東に進むと月輪南陵への参道がありますが、ここへは既に行った事があり、今回は参道入り口で引き返しました。 (撮影:クロウ)

一華院                        臥雲橋からみた偃月橋

 

東福寺(撮影:クロウ)

方丈

 禅宗の方丈には古くから多くの名園が残されてきましたが、四周に庭園をめぐらせたものは当寺唯一の試みです。当庭園1938年は、釈迦成道を表現し、八相の庭と命名されています。

 

仏殿(本堂)

 1881年焼失後、1934年再建され起工から竣工まで17年を要し復興させた昭和の木造建築中最大の建物です。入母屋、裳階(もこし)付単層本瓦葺、正面七間・側面五間。三門にならった大仏様の組物と角扇垂木。禅宗唐様の桟唐戸・礎盤・鏡天井。裳階の窓は和様の連子窓、破風の妻飾りは法隆寺南大門風と、多様に様式が組み合わされています。 内部は禅式床瓦敷とし、正面須弥壇上に本尊釈迦立像、脇に摩訶迦葉尊者 阿南尊者、四天王を安置。天井の画龍は堂本印象氏の作、龍の大きさは体長54m・胴廻り6.2mに及んでいます。 ただし内部に入ることはできませんでした。

 

三門

 三門は空門・無相門・無作門の三解脱門の略。南都六宗寺院の中門にあたります。東福寺は新大仏と呼ばれるような巨大な本尊を安置するなど南都二大寺に影響を受け、この三門は大仏様(天竺様)、禅宗様(唐様)、和様をたくみに組み合わせた建造方式となっています。 五間三戸、重層入母屋造、両脇に階上へのぼる山廊を設けた、日本最大最古の遺構です。 応永年間(1394-1428)、足利義持の再建で、1977(昭和52)年、大修理が完成しました。山廊から階上へ上れば、壮麗な極彩色の世界がひらかれています。楼上内部は二本の柱があるほかは広々として、須弥壇(しゅみだん)中央に宝冠釈迦如来、左右に月蓋長者、善財童子・十六羅漢像が安置されています。正面縁の大額「妙雲閣」の筆は足利義持のものです。中世建築ではめずらしい一面の極彩画は、画聖兆殿司(明兆)およびその門人寒殿司の筆と伝えられています。 

 

月輪南陵への参道 仲恭天皇が眠っています。

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仏師・定朝

2007年10月04日 | 平安時代

仏師・定朝 -1057

 定朝の事績がはじめて知られるのは1020年無量寿院の阿弥陀仏安置の際である。 定朝は康尚の弟子(実子とも云われている)で、康尚のもとで無量寿院造営に活躍した。 道長はこの堂のまわりに次々と堂塔をたて、1022年法成寺金堂供養を迎えた。 当日の「小右記」によれば、道長が仏師・定朝の賞について悩み、彼は法橋を望んでいるのだがどうしようかと相談し、実資は「定朝数体の大仏を造り奉る。非常の賞、傍難なかるべし」と答えたが、当日は観賞を見送り、二日後に法橋に叙された。 僧位のひとつである法橋に叙されたのは仏師としては初めてのことである。 また、定朝は清水寺の別当になったことがあり、清水寺で出家得度をしていたようである。

 法成寺では藤原道長の死後も、薬師寺、三昧堂、法華堂などの造仏はつづき、法成寺には二百二十体以上の仏像が作られたが、定朝主宰のもとに行われ、彼の一生の過半は法成寺の造仏であったといえる。 1023年に、薬師堂に諸仏を移したときに座主院源が衣を脱いで定朝に被けた。 このときに道長以下の諸公卿も衣を脱いだために、山の如くになったという。 1026年、後一条天皇の中宮・威子の御産祈願のために二十七体の等身大仏を定朝が造ったとされている。 二十七体の内訳は、釈迦三尊、七仏薬師、六観音、五大明王、六天である。 約二ヶ月という速さで完成させた裏には、約130人の仏師が関わっており、大規模な仏所組織があったと思われる。 ほかには後一条天皇崩御後(1036年)の仏事の為の仏像、後朱雀天皇念持仏(日常身につけたり身辺に置いたりして拝む仏像。また、本尊として信仰する仏。)の純銀一尺薬師仏などを造り、1046年の興福寺焼失後の仏像修造を行い、「法眼和尚位」を授けられている。 そして1053年の宇治平等院の阿弥陀如来像や雲中供養菩薩像の制作に至るのである。 定朝の最後の作品は、西院邦恒堂の阿弥陀如来像である。 因みに藤原邦恒は多くの国守を歴任した豊かな受領であり、この如来像は後々仏像の理想とされた。 1096年には白河上皇が邦恒堂の阿弥陀の相好が勝るとして「中右記」に記されている。 また、同じく受領の藤原資業は日野の山荘を寺とし、法界寺を建立したが、ここにも定朝の阿弥陀仏があったと言う。

 ところで、宇治鳳凰堂にある定朝作の阿弥陀如来座像に関して、関白藤原頼通の家司・平定家は日記にこう記している。 「宇治に京の定朝の工房から阿弥陀仏が10時間かけて運ばれ、新堂供養が行われた。これが鳳凰堂の本尊・阿弥陀如来である。」  阿弥陀如来の座像高は284cm(定朝以前は250cm)で絶妙のバランスがあるとして模範になった。 鳳凰堂中堂の須弥壇上に来迎壁を背にし、八重の蓮華座に座り、頭上には方形と円形の天蓋をいただく。 つまり、極楽浄土にいる阿弥陀を地上に再現したのである。

宇治鳳凰堂にある定朝作の阿弥陀如来座像

康尚 → 定朝 →  頼助・康助 →  康慶 → 運慶 →  湛慶

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法成寺

2007年10月02日 | 平安時代

法成寺

 道長が仏寺の造営に力を入れた頃、世は乱れ1052年から末法の世が始まると信じられていた。上東門邸の東に造営された中河御堂は後に法成寺と呼ばれ規模を拡大していく。 嬉子の死後(1025年)、三昧堂が建てられ、妍子の為に阿弥陀堂で大掛かりな供養が営まれた。 道長がこの世を去るのは妍子の死後間もなくの1027年12月4日である。 妍子の死の直後から痩せ衰え、重態に陥り背中の腫瘍の切開に手間取ったために病状がさらに悪化した後に息を引き取った。

 藤原道長は、胸病の為、1019年に土御門第にて出家した。戒師は院源、法名は行観、54歳であった。その後病がもちなおすと7月に阿弥陀仏の造立を発願し新堂の造作をはじめ翌年阿弥陀仏九体と観音勢至菩薩が完成し安置された。場所はみずからの主邸・土御門第の東隣で、これを無量寿院と号して彰子・妍子氏・威子の参列を仰ぎ、落慶法要を行った。この無量寿院に堂塔が建て増しされて成立したのが法成寺である。 これは摂関期最大級の寺院で、次々と堂舎が建てられ、その規模は東西2町・南北3町に及び、伽藍は豪壮を極めた。『栄華物語』には、西側の阿弥陀堂、中央の金堂・五大堂・十斎堂、東側の薬師堂、釈迦堂、東北院、西北院などの様子が描かれている。 法成寺は平等院の範となった寺院でもあり、当時、鴨川方向から見れば、ちょうど宇治川方向から見た平等院のようであったと思われる。 なお、道長の日記とされている『御堂関白記』の「御堂」とは、この法成寺のことを指している。1058年に大火で伽藍ことごとく焼失したものの、道長の子・頼通は直ちにこれを再建した。そして、孫である師実へと引き継いだ。しかし鎌倉時代に入ると伽藍は荒廃し、1219年に全焼し廃絶した。

「よみがえる 平安京」京都市企画、村井康彦編集、淡交社より

 阿弥陀堂には九体阿弥陀が本尊として安置され、十一間の堂となっている。 薬師堂は十五間であり、ここには七仏薬師と六観音が安置された。七仏薬師は当時、安産などを願う連壇法として盛んで、六観音法も六道衆生の苦を取り除くために院政期に栄えた多壇法である。 また、釈迦堂には釈迦如来像と百体の釈迦像が置かれた。 また多くの建物は廊で結ばれており、これは寝殿造のものと同じ板敷きで、法会の際には人々の居室にあてられた。 また鐘楼と経蔵が寝殿造の釣殿のように伽藍の南におかれ、中央の池・中島とあわせて重要な景観となった。 「栄華物語」にはこの様子を次のように伝えている。

『庭の砂は水精のやうにきらめきて、池の水清く澄みて、色々の蓮の花並み生ひたり。その上にみな仏顕れたまへり。仏の御影は池に写り映じたまへり。東西南北の御堂御堂、経蔵、鐘楼まで影写りて、一仏世界と見えたり。』

 この伽藍様式は寝殿造の構成を応用したもので、後の平等院に継承され完成するのである。

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藤原行成一家

2007年10月02日 | 平安時代

藤原行成一家

源泰清女(姉君)(976~1002)

 父は醍醐源氏・源泰清(有明親王の皇子)で母は不明です。 989年に14歳で行成(当時18歳)と結婚し、行成との間に七人の子を儲けるもうち三人は夭折。 賢妻だったようで、行成は自分の日記に誇らしげに 「妻が世間の人にホメられてる」 と書き残している。 長保四年(1002)赤痢を患いながらも女児を出産するが、二日後その女児と共に没してしまう。 「非慟の極み、何事かこれに如かん」と日記に記し、行成は嘆きは表している。 没後も行成は毎年命日に法要を欠かさず営んでいたことが「権記」よりうかがる。 薬助丸 【元服の年頃を過ぎても幼名だったり、「酉の時、薬助を河原に持ち出し除服せしむ」(『権記』寛弘七年6/30)という書かれ方から病弱で元服せずに亡くなったと思われる。】、 実経 【幼名犬丸。寛弘三年(1006)9歳の時に童殿上。同五年元服(加冠役は藤原斉信)翌年12歳で従五位下昇殿左兵衛佐に任ぜられる。長和三年17歳の時に従四位下、しばらくして民部権大輔になる。翌年従四位上。出世は早々に諦めたのか行成の意向か、受領となり、長元五年(1032)に近江守の頃、百姓達から非法を訴えられます。】、  良経 【幼名宮犬丸。生まれてすぐ為尊親王のもとで育てられる( 冷泉天皇と超子の皇子。行成の叔母九の御方が為尊親王の妻) 寛弘八年11歳の時に元服(加冠役は源俊賢)。寛仁二年(1018)従四位下。 最終的に正四位下、皇后宮権大夫(禎子内親王の)となる。】、 大君 【行成が愛を注ぎすぎて結婚を渋っているうちに妹二人に先を越され、あわや婚期を逃しかけて、亡くなった泰清女(姉君)があの世から行成を叱りとばしにくるという事件が起こる。源顕基(俊賢の子)の後妻になったかとの説がある。 】、 中の君 【源経頼の妻となる。 】

源泰清女(妹君)

 先の源泰清女の妹。行成の妻となった姉の死後、妻となる。存命中から関係があったかどうかは不明。 行経と藤原長家の室となった姫君の母。『栄花物語』に行成と一緒に娘の世話をする様子が書かれています。 行経【母は源泰清女(妹君)
元服は治安三年(1023)12歳の時(加冠役は藤原頼宗) 16歳の時に行成と死別するも、頼通のウケが良かったからか、早世したが長家室となった姉の縁故か、兄弟の中で一番出世し最終的に従二位参議まで昇る。  藤原資房と仲が悪かったのか、資房の日記『春記』に記載がある。 父に似て能書家。後の世尊寺流は彼の子孫。】、 三の君【藤原長家(当時14歳・道長の末っ子)と結婚。 当時彼女は12歳。雛遊びのお人形のような可愛らしい夫婦だったという。もともと体が丈夫ではなかったようで行成を心配させまくり、望んでなったはずの大宰権帥を返上させている。 15歳で病没。その時の様子が栄花物語に書かれている。 死後、猫に転生して…という話が『更級日記』にある。】、 四の君【万寿二年(1025)に長家の妻となっていた斉信女が亡くなると、行成は再度自分の娘を長家と結婚させようとして、愛娘千古の結婚相手を捜していた藤原実資と長家争奪戦を繰り広げます。】

60代醍醐天皇885-930延喜帝
  ┃┃┃┣克明親王,宣子内親王(斎院)
  ┃┃┃源封子(源旧鑑娘)
  ┃┃┣代明親王904-937(邸宅は伊尹,行成の邸とす)
  ┃┃藤原鮮子 ┣源重光 923-998
  ┃┃     ┣源保光 924-995(桃園中納言)
  ┃┃     ┃藤原伊尹┗娘従三位源泰清

  ┃┃     ┃ ┣懐子 ┃源泰清(有明親王男)
  ┃┃     ┃ ┃   ┃ ┣娘姉  
  ┃┃     ┃ ┃   ┃ ┃┣薬助丸?  
  ┃┃     ┃ ┃   ┃ ┃┣実経 998-1045  
  ┃┃     ┃ ┃   ┃ ┃┣良経1001-1058為尊親王下で育ち、元服時の加冠役は源俊賢  
  ┃┃     ┃ ┃   ┃ ┃┣大君:源顕基(俊賢の子)の後妻  
 
 ┃┃     ┃ ┃   ┃ ┃┣中の君:源経頼の妻  
  ┃┃     ┃ ┃   ┃ ┃行成  
  ┃┃     ┃ ┃   ┃ ┃    ┏定実-1131
 
 ┃┃     ┃ ┃   ┃ ┗娘妹┏伊房1030-1096
  ┃┃     ┃ ┃   ┃  ┣世尊寺行経1009-1050
  ┃┃     ┃ ┃   ┃  ┣三の君1007-1021:藤原長家の室
  ┃┃     ┃ ┣挙賢 ┃  ┣四の君?
  ┃┃     ┃ ┣義懐 ┣
行成972-1028
  ┃┃     ┃ ┣藤原義孝
  ┃┃     ┣恵子女王925-992
  ┣重明親王   ┣壮子女王930-1008(村上帝妃具平母)
  ┃源昇娘    ┣厳子女王(頼忠妻 公任母)
  ┣勤子内親王 定方娘

  ┣源高明914-982
 源周子 ┣俊賢959-1027
 -935  ┣明子
    愛宮┣頼宗、能信、寛子
      藤原道長

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世尊寺と藤原行成

2007年10月01日 | 平安時代

世尊寺と藤原行成

 世尊寺は行成の創建によるもので、母方の父・中納言・源保光の旧宅(桃園第)を寺にしたものであるが、 最初は清和天皇の第6皇子であった貞純親王(母は棟貞王の娘で清和源氏の祖)の邸宅だった。そこが桃園の地だったため、貞純親王は桃園親王と呼ばれた。  その後、邸は、醍醐天皇の皇子・代明親王(源高明とは異母兄弟)、その子の源保光(桃園中納言)、藤原師氏(桃園大納言)、その子の主殿頭近信に伝領、さらに師氏家から師輔の長子の伊尹家(一条摂政殿)へ移り、平安時代中期に藤原行成の邸宅となり、行成はその邸内に一宇を建立し、寺としたのである。 長保3年(1001)の2月に中納言保光の旧宅だった世尊院の堂を供養する記事がある。  なお行成へは、代明親王の娘・恵子女王が藤原伊尹家に嫁いで義孝をもうけ、源保光の娘が義孝に嫁ぎ、藤原行成が生まれた。 藤原行成は能書家として三蹟の一人に挙げられたが、後の世尊寺流の祖となっており、世尊寺流のゆわれは世尊院の堂から来ている。 ちなみに、桃園とは「延喜式」の内膳司に記載されている京北園に由来し、天皇供御の果実や蔬菜類をさいばいしたもの。ここでは主として桃の木を植えた。  また藤原伊尹の娘の懐子は冷泉天皇との間に花山天皇をもうけているが、花山天皇はここ世尊寺で生まれたとも言われている。

和新笠┏ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇) 
 ┣山部王(桓武)┃┃藤原沢子   -839
 ┃ 737-806   ┃┃  ┃ ┗藤原佳美子-898    ┓
 ┃           ┃┃  ┣時康親王58光孝天皇830-887┛ 
白壁王709-781 ┃┃  ┃┃   ┣源旧鑑    藤原穏子885-954(時平・妹)

(49代光仁天皇) ┃┃  ┃┃   ┣源和子-947    ┣ 康子内親王919-957(師輔妻) 
         ┃┃  ┃┃   ┣忠子┣有明親王 ┃ 藤原安子(師輔娘)

         ┃┃  ┃┃   ┗周子┃910-961  ┃   ┣63冷泉天皇
          ┃┃  ┃┣為子内親王┃藤原淑姫 ┃-948┣64円融天皇 壮子女王
 ┏━━━━━━┛┃  ┃┃高藤    ┃┃┃藤原桑子┃    ┣為平親王  ┣具平親王

 ┣有智子内親王 ┃  ┃┃┣定方  ┃┃┃┃和香子┣ 成明親王(62村上)926-967
 ┃母交野女王斎院┃  ┃┃┃┗能子┃┃┃┃┃-935┣ 寛明親王(61朱雀)923-952 
 ┃         ┃  ┃┃┗胤子┃┃┃┃┃┃  ┃      ┣昌子内親王950-1000
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃藤原仁善子┃(和泉式部奉仕)┣-
 
┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃ ┣ 煕子女王-950  冷泉天皇
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  
┣保明親王901-923
 ┣源潔姫809-856 ┃  ┃┃   ┣60代醍醐天皇885-930延喜帝 ┗ 慶頼王920-925
 ┃    ┣明子  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃┣克明親王,宣子内親王(斎院)
 ┃藤原良房┗文徳┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃源封子(源旧鑑娘)
 ┣源信810-869  ┃  ┃┃  ┃ ┃┃┣代明親王904-937(邸宅は伊尹,行成の邸とす)
 ┣源常812-854  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃藤原鮮子 ┣源重光 923-998
 ┃       ┃  ┃┃   ┃ ┃┃     ┣源保光 924-995(桃園中納言)
 ┃       ┃  ┃┃   ┃ ┃┃     ┃藤原伊尹┗娘従三位源泰清

 ┃       ┃  ┃┃   ┃ ┃┃     ┃ ┣懐子 ┃源泰清(有明親王男)
 ┃       ┃  ┃┃   ┃ ┃┃     ┃ ┃   ┃ ┣娘姉  ┏定実-1131
 
┃       ┃  ┃┃   ┃ ┃┃     ┃ ┃   ┃ ┗娘妹┏伊房1030-1096
 ┃       ┃  ┃┃   ┃ ┃┃     ┃ ┣挙賢 ┃  ┣世尊寺行経1009-1050
 ┃       ┃  ┃┃   ┃ ┃┃     ┃ ┣義懐 ┣
行成972-1028
 
┃       ┃  ┃┃   ┃ ┃┃     ┃ ┣藤原義孝
 
┣源弘812-863
  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃     ┣恵子女王925-992
 ┣源定816-863  ┃  ┃┃   ┃ ┣重明親王   ┣壮子女王930-1008(村上帝妃具平母)
 ┗源融823-895  ┃  ┃┃   ┃ ┃源昇娘    ┣厳子女王(頼忠妻 公任母)
  ┗源昇    ┃  ┃┃   ┃ ┣勤子内親王 定方娘

  
        ┃  ┃┃   ┃ ┣源高明914-982
  
 
       ┃  ┃┃   ┃源周子 ┣俊賢959-1027
          ┃  ┃┃    ┃-935  ┣明子
          ┃  ┃┃   ┃   愛宮┣頼宗、能信、寛子
  
        ┃  ┃┃   ┣敦実親王 藤原道長

          ┃  ┃┃   ┃ ┣源雅信┣彰子,頼通,教通
          ┃  ┃┃   ┃ ┃ ┣源倫子 藤原温子 菅原衍子
           ┃  ┃┃   ┃ ┃穆子   ┃橘義子 源貞子 
           ┃  ┃┃   ┃時平娘    ┃┃
  
         ┃  ┃┣
源定省(59宇多天皇)867-931
           ┃  ┃┣ 綏子内親王-925
            ┃  ┃斑子女王   ┗━━━━━━━━━━━━━━┓
  
         ┃  ┃               藤原長良802-856┣-
          
正良親王(54仁明天皇)810-850     ┣藤原淑子┃
          ┃        ┃ ┣ -       836-891┣藤原基経┃
          ┣正子内親王┃
小野吉子(更衣)   842-910┗藤原高子┃姣子女王
          橘嘉智子      ┃紀名虎娘・静子
良房┓在原行平娘┃  ┃┃
                         ┃ ┣
紀有常女*5   藤原明子 ┃ ┣陽成天皇876-884
                    ┃ ┣ 惟喬親王(第1皇子)
清和天皇850-881┣元良親王
                        ┣ 道康親王(55文徳天皇)836-858 ┣ ┃ ┣元平親王
 
                  藤原順子(冬嗣・娘)     ┣源能有 ┃ ┃藤原遠良娘

                               伴氏娘 ┗源厳子 ┣貞純親王(桃園親王:清和源氏の祖)
                                        ┃┗源経基
                                               ┃ ┗満仲(摂津源氏の祖)
 
 
 
                             棟貞王の娘  ┗頼信(河内源氏の祖で源頼義の父、藤原道兼道長に仕える)

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金峯山埋経

2007年09月29日 | 平安時代

金峯山埋経

 金峯山とは吉野のさらに奥の大峰連峰の総称で山岳修行の第一の霊場である。 吉野の金峯山寺は山下と呼ばれ、中心の山上とは標高1719mの山上ヶ岳である。 山頂には湧出岩と呼ばれる巨岩があり、蔵王権現が湧現したところと伝えられ、現在も尚女人禁制である。 蔵王権現は金剛蔵王菩薩ともいい修験道の開祖役行者が金峯山の頂上で衆生済度のため祈請して感得したと伝える魔障降伏の菩薩であり、釈迦の化身とも弥勒の化身とも言われている。 この山頂付近から1691年に経塚が発見され1007年の約500字に及ぶ銘が刻まれた円筒形の金銅製経筒とその中には道長書写の経典残巻が発掘された。 日本で最古の経塚遺物であるだけではなく、道長の御嶽詣の状況が「御堂関白記」に道長自身が自筆で記して全容が伝わる点でも画期的な事例であった。

奈良・吉野の金峯山寺

  

 蔵王権現には子が授かるという効験が信じられており、栄華物語では、翌年、彰子の懐妊がわかったときに「みたけのしるし」と喜び、皇子誕生を願っての御嶽詣であったことを述べている。 「御堂関白記」によると、8月2日に京を出発し、3日から6日は大安寺、壺坂寺などの大和の諸寺に泊まり、7日には野極(今の吉野蔵王堂の下方)に泊まり、以降尾根づたいに修験の道をたどり数多くの難所を経て10日に山上御在所の金照房に到着している。 翌11日は早朝沐浴ののち子守三所、三十八所、御在所に参詣し、ここで法華経百部と仁王経を三十八所のために、 理趣分を一条天皇、冷泉院、中宮、東宮のために、 般若心経を八大竜王のために供養している。 そして道長が書写した金泥法華経一部及び今度書写した弥勒経三巻、阿弥陀経・心経を供養して、金銅燈籠をたててその下に埋納したと記している。

 この後、埋経、経塚の流行は続き、1031年良源の弟子覚超は比叡山横川において円仁書写の法華経を弥勒の世に伝えようと銅製の外筒一口を堂内埋納しようとした。 また道長の長女彰子もこれに賛同し、法華経一部八巻を書写して埋めた。 後の大正12年の発掘では金銅製経筒が出土し、彰子書写の経巻は腐っていたが、道長書写のは紺紙金泥の法華経ほか15巻が残り、東京国立博物館が所蔵している。 法華経は998年の書で10年前に書写したことがわkり、経筒銘によればその時から御嶽詣を願っていたようである。

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道長と法華経

2007年09月28日 | 平安時代

道長と法華経

 道長の時代に最も尊重されたお経は法華経であった。「枕草子」には「」経は法華経さらなり」とあり、日常にもっとも親しみがあり、貴族社会に融和していたのは、法華八経とか三十講とかの法華経の講説であった。 法華経は一部八巻二十八品からなり、この八巻を朝夕二座を設けて四日間で講和するのを法華八経といい、追善供養の仏事として盛んに行われた。 また、二十八品に開結二経を加えて三十座三十日にわたり講和するのが、法華三十講である。 最も早くに行われた例としては988年性空上人が書写山円教寺で行ったものがあるが、藤原道長が行った例も早く、藤原邸では五月に行い、1005年以降は毎年恒例の行事となっている。 三十講も八講も巻五提婆品を講ずる五巻の日がもっとも盛り上った。1008年の法華三十講は四月二十三日から行われ、「栄華物語」では五月五日となった五巻の日の様子を描いている。 御堂関白記によると、この日の行道に加わったのは僧俗計百四十三人であり、土御門第の池の周りをめぐった。 また、このときに紫式部も参加し、 「妙なりや今日は五月の五日とて五つの巻にあへる御法も」 との歌を詠んでいる。

 三十講は道長主催で盛んに行われたが法華八講は広く一般で行われ、先祖の追善供養として命日の前後に特定の寺院で催された。 道長の父・兼家の忌日・七月二日には自邸二条第を寺にした法興院において法華八講が行われ、結願として道長は毎年参列している。 一月二十一日と考えられる道長の母・時姫の忌日には、法華経の講演を行ったり、僧を斎食させたりするのを通例とした。 姉で道長を取り立てた東三条院詮子の命日は十二月二十二日で慈徳寺での法華八講が行われ、道長はおおむね参入している。 また、一条天皇は1011年6月22日に崩御し翌翌年より円教寺で法華八講が行われた。 このように平安中期に最盛となった法華八講は、特に藤原氏北家を中心に催され、摂関家内部の嫡流意識と深いつながりがあると思われる。 栄華物語では道長は法華経の隆盛につくしたことを功徳として特筆し、自らが法華経を読誦し、人々がそれを習い、法華経を広めた。

 1005年10月に道長は宇治・木幡の地に浄妙寺三昧堂を建立している。 木幡は基経以来藤原氏の墓地であり、道長はその供養の願文によれば、若い頃から父・兼家に従ってしばしば木幡の地を訪れ、その荒廃を見て涙を流したという。 栄華物語には道長の思いとして、三昧堂建立の願意が述べられている。 道長は1004年に建立の地を定め、1005年になって藤原行成に鐘銘を書かせ9月28日に鐘を鋳造した。 10月18日には行成は道長の命により南門と西門にかける浄明寺額二枚を書し、具平親王が供養経の外題を書している。 19日の供養当日には月明かりの中、寅刻に出発、巳刻に鐘をうち、 「鐘の声、思ふがごとし」 と満足している。 藤原氏の公卿のほとんどが参会し、天台座主覚慶を証者、前大僧正観修を導師として、供養僧百口という大規模な供養であったという。 この日の願文と呪願文は式部大輔大江匡衡と菅原輔正が作り、藤原行成が書したもので、また堂の仏像を作ったのは仏師康尚であった。 「御堂関白記」にはこの供養の願意は、ここに眠る父母や昭宣公(藤原基経)以来の先祖の霊の菩提のためであり、今後一門の人々を極楽へ導くためであると述べている。 このように浄妙寺を建立することによって道長は摂関家の結束をはかったと考えられている。   

宇治陵・37号墓 (関白藤原基経の墳墓

 

宇治陵・36号墓 大津透著「道長と宮廷社会」ではここが藤原基経の墳墓としている

 

 9世紀までは葬儀の場が重要であり、墓は骨を捨ててある処にすぎず、訪れることもなく荒涼としていたようである。 藤原忠実(師実の孫)の談話を記した「中外抄」に、道長の孫にあたる藤原師実の仰せとして葬所と墓所の違いについて、こう述べている。 「葬所は重要ではなく、骨をば先祖の骨を置くところに置けば、子孫の繁栄するなり。 鷹司殿(源倫子)の骨をば雅信大臣の骨の処におきて後、繁昌す」 とある。 円融皇后・藤原遵子を前年奈良坂般若寺で火葬した後、木幡に改葬すべきか否かについて実資は、「先祖、木幡山を占して藤氏墓所となす。 よりて一門の骨を彼の山に置き奉る、ひたすら悪からざるなり。 藤氏繁昌し帝王の国母、今に絶えず。」 と改葬を主張していて、一族の骨を一所に集めると子孫繁昌をもたらすと考えられていた。

 ところで、浄妙寺は平安末まで栄えたが、五摂家の分裂もあり中世の廃絶した。 そのため長い間場所も不明であったが、1990年に宇治市木幡小学校のグランドで三昧堂と多宝塔と思われる基壇が発掘され、陶器なども出土した。 この発掘と、1062年に頼通が浄妙寺の大門から道長墓へ至った記述から、道長の墓の場所を推測することが可能となり、32号墓または33号墓が該当するのではないかと推測されている。 

32号墓 (藤原道長墳墓との伝承)

 

33号墓

 

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白河上皇期の藤原氏

2007年09月09日 | 平安時代

白河上皇期の藤原氏

 白河上皇が院政を振るっていた頃の特色は乳母(御乳母)の一族や受領層が院の近臣として進出したことである。 乳母の関係を通じて躍進した藤原氏で挙げられるのは藤原顕季である。 彼は母が乳母であったことから白河上皇の第一の近習として権力を握った。 そして播磨・尾張などの受領を経て得た財力で京内の数箇所に邸宅を構え、院の御所に提供したが、なかでも六条第は有名で、彼の呼称である六条修理太夫はこの邸宅に因む。 また白河院の歌壇の中心人物でもあり歌学の祖と仰がれた。 さらに孫娘の得子(美福門院)は鳥羽天皇の皇后となるなど、平家の全盛期から鎌倉時代にかけて公卿となって活躍する者を多く輩出している。 白河上皇に重用された為房は、妹が堀河・鳥羽天皇2代にわかって乳母を務め、参議となった。 同じく参議となった嫡男の為隆とともに摂関家の家司を勤めた。 次男の顕隆は妻が鳥羽天皇、娘が崇徳天皇の乳母という関係から、権中納言になっている。 顕隆は関白忠実の失脚後は「夜の関白」と言われ恐れられた。

 為房と顕季は藤原北家の出身ではあるが、目立たない存在であった。 ところが、顕季の子孫からは四条、山科、油小路といった諸家が分立し、為房の後は吉田、万里小路、葉室、勧修寺などに分家し、それぞれに後世で活躍する。 北家の中で為房と家系が近い邦綱は平清盛と結びついて頭角をあらわし、権大納言となっている。 初め、忠通、基実といった摂関家の家司を務めた邦綱は蔵人頭をへて公卿になり、諸国の受領を歴任しながら財力を蓄え、京内に営んだ邸宅は里内裏や御所にもなっている。 しかし邦綱の強みは3人の娘が六条、高倉、安徳天皇三代に渡って乳母を務めたことであり、さらに別の娘は建礼門院の乳母となった。 また、建礼門院の妹で関白・基実の妻となった盛子の後見役をするなど、清盛と深く結びついた。

 また南家で、その存在をアピールしたのは藤原通憲で妻が後白河天皇の乳母であった。学者の家柄ではあったが、下級貴族に甘んじていた通憲は出家をすることによって自由な立場で行動する道を選んだ。 そして出家によって信西と名を変えた彼は鳥羽院政の終わりと後白河院政の初期に活躍する。 交友を持った藤原頼長も一目置くほどの学識者であったが、平治の乱で命を落とすこととなる。 信西の家系では公卿はおらず、中納言の成範がトップに立っている。 高倉天皇の寵愛を得て範子内親王を生んだ小督は彼の娘である。

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後三条天皇時代の藤原氏

2007年09月06日 | 平安時代

後三条天皇時代の藤原氏 

 生前の道長は、摂関を頼通、教通、頼通の子という形で継承していくように考えていた。 そして頼通はこれに沿って実弟の教通に関白を譲り、その際子の師実への継承を含ませた。 しかし関白となった教通は子の信長へという気持ちが強くなっていく。 そんな中で頼通が83歳で死去し、翌年教通も80歳で死去したために、予定通り、師実が関白を受け継いだ。 このとき白河天皇4年目の治世である。 すでに師実の養女・賢子は白河天皇の中宮になっていたので天皇と関白の関係は極めてよかった。

 頼通が関白を降りた翌年には後冷泉天皇が崩御し、代わって後三条天皇(母は禎子内親王)が即位する。 教通は73歳の高齢で関白になったが、天皇との外戚関係はなく、頼通、教通兄弟の娘は誰も皇子を生んでいなかった。 このことから後三条天皇は摂関家を抑えて政治を推し進め、さらに院政を推し進めようとして39歳で皇子の白河天皇に位を譲ったが、翌年病死したために院政の目的は達成できなかった。 また、それから間もなく、頼通、教通、上東門院(彰子)が相次いで他界したことで、情勢はおおきくかわる。 白河天皇は摂関家の晩鐘につけこんで権力を握りつつあり、この10年後に院政を敷くこととなるのである。

 東国を中心にした内乱の勃発は、中央政府の権力は衰退し、力をつけてきた地方豪族が躍進を示すものである。 そして清和源氏の義仲、頼信、頼義、義家の系統で代表される源氏は着々と勢力基盤を築いていく。 因みに、その延長線上に鎌倉幕府が誕生するが、それは30年後のことである。

 奥州での内乱が終息した頃、京都では新しい政治体制が生まれた。白河天皇が34歳で上皇となり、8歳の堀河天皇に関白・師実を摂政につけて、自ら幼帝を後見したのである。 師実は10年で関白を嫡男の師通に譲った。 33歳の師通は16歳の天皇と新鮮な感覚で政治を行い、上皇の政治介入を抑えていた。 師通は「今上天皇にお仕えするのが当然なのに、上皇の門前に車が止まっていいのか」 と、上皇の御所に参上する者を暗に批判したが、彼の死後はそのようなことを言う人もいなくなったという。 気性が強くまっすぐな性格に加えて度量の大きい師通の時代は、清廉潔白な賢人を登用して政治を行ったので、天下もきちんと治まったと言う。 学問を好み、漢詩、和歌、枇杷、書にすぐれた摂関の鏡のような師通が38歳で亡くなったときには「天は才能と寿命の二物を与えなかった」と惜しまれている。 白河院政が軌道にのるのは、師通の死後であることを思うと、院政期の摂関のなかで最も力を発揮したのが師通であったといえる。

 堀河天皇が29歳で崩御するのは師通の死後8年後のことである。 師通なきあとは嫡男の忠実が後を継ぎ、堀河天皇の崩御に伴う5歳の鳥羽天皇の摂関・関白を勤めた。 その間に忠実は娘の泰子を鳥羽天皇に入内するように勧められたのを渋ったことで、白河上皇の反感を買い、関白の罷免に追い込まれ、宇治の別荘に籠居せざるをえなくなっている。 しかし8年後に白河上皇が崩じ、鳥羽院政にかわると、忠実の復帰が叶い、泰子は鳥羽上皇の皇后に迎え入れられた。 忠実のあと関白となった子息の忠通とは折り合いが悪かったが、これは白河上皇にあった。 摂関の任免権を上皇が掌握したからである。 かつては天皇といえども手が出せなかった、という以上に天皇東宮の擁立や廃止すら行うほどに権勢を誇った摂関も地に落ちてしまったのである。 

 忠通の38年間に及ぶ摂関は頼通につぐものであるが、次男の頼長を偏愛する忠実親子との対立に明け暮れる毎日であった。 忠実から関白を頼長に譲るように強要された忠通がこれを拒むと、怒った父は忠通を義絶し、氏長者をとりあげて頼長にあたえてしまった。 こんなことで怯む忠通ではなく、彼は父子のことを鳥羽上皇に中傷することで心証を悪くして反目を増すばかりで、ついに上皇崩御後に保元の乱として爆発した。 敗れて負傷した頼長は死に、忠実は蟄居した。 乱の2年後に天皇が後白河から二条にかわったのを契機に忠通は関白を16歳の嫡男・基実に譲り、法性寺に住んだ。 忠通のことを法性寺関白といい、能書でならした彼の書風を法性寺流というのはこれに因んでいる。 

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