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小野篁

2007年10月07日 | 平安時代

小野篁

 小野篁(タカムラ)は、延暦21年(802~852)生れで、嵯峨天皇の勅を奏じて「凌雲集」を撰じた参議・小野岑守の子である。 嵯峨天皇に遣えた平安初期の政治家であり、文人、歌人でもある。文章生から東宮学士などを経て閣僚級である参議という高級官僚にまでなり、また乗馬、弓術、剣術など武術百般にも優れた文武両道の人物であった。  不羈(ふき)な性格で、奇行も多く、昼は朝廷で仕事をして、夜は閻魔王宮の役人であったという。この奇怪な伝説は、「江談抄」(ごうだんしょう)や「今昔物語」などの説話集や「元亨釈書」(げんこうしゃくしょ)等にも数多く見られることから、平安末期頃には、篁は独特の神通力をもち、常に現世と冥土の間を行き来していて、閻魔庁における第二の冥官であると語り伝えられていたことが伺える。
 また、篁は承和5年(838)の三十代半ばで遣唐副使に任じられ、四隻で九州を出発したが間もなく難破し翌年三隻で再出発するが再び難破する。 藤原常嗣の難破船の損傷が激しく、小野篁の乗船と交換したため、小野篁は強硬に抗議し、もう一人の副使の藤原常嗣と争った。 しかも「西道揺」という詩を詠んで遣唐使制度を風刺したことなどにより、嵯峨天皇の怒りに触れて隠岐へ流罪となり、一切の官職官位を奪われたこともある。 隠岐へ船出するときに詠んだ歌が次ぎである。

小野篁: わたのはら八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟

百人一首 法性寺入道前関白太政大臣

  しかし、承和7年(840)には帰京・復位を許され、その後は学殖を高くかわれて順調に官位を昇り、承和14年には従三位という高位についていることからも、篁の尋常でない才能のほどがわかる。  小野氏はその昔、大化の改新の頃は和邇臣系に属し、葛城氏や蘇我氏と並ぶ有力な大氏族で、春日、大宅、粟田、柿本、小野に分裂し小野妹子、小野老から小野岑守・小野篁といった公卿期を絶頂とし、その後も古今歌人の小野春風、小野道風を輩出するが、小野小町で没落の一途を辿った。 

 今回、小野篁の墓へ行って来ましたので紹介します。 それは大徳寺から東へ歩いて10分くらいの堀河通り沿いで、北大路通りの南に位置します。 島津製作所の敷地の一角を墓地として整備しており、わかりにくいところではありましたが、立派に管理されておりました。 因みに紫式部の墓も並んでおります。

 

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