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仏師・定朝

2007年10月04日 | 平安時代

仏師・定朝 -1057

 定朝の事績がはじめて知られるのは1020年無量寿院の阿弥陀仏安置の際である。 定朝は康尚の弟子(実子とも云われている)で、康尚のもとで無量寿院造営に活躍した。 道長はこの堂のまわりに次々と堂塔をたて、1022年法成寺金堂供養を迎えた。 当日の「小右記」によれば、道長が仏師・定朝の賞について悩み、彼は法橋を望んでいるのだがどうしようかと相談し、実資は「定朝数体の大仏を造り奉る。非常の賞、傍難なかるべし」と答えたが、当日は観賞を見送り、二日後に法橋に叙された。 僧位のひとつである法橋に叙されたのは仏師としては初めてのことである。 また、定朝は清水寺の別当になったことがあり、清水寺で出家得度をしていたようである。

 法成寺では藤原道長の死後も、薬師寺、三昧堂、法華堂などの造仏はつづき、法成寺には二百二十体以上の仏像が作られたが、定朝主宰のもとに行われ、彼の一生の過半は法成寺の造仏であったといえる。 1023年に、薬師堂に諸仏を移したときに座主院源が衣を脱いで定朝に被けた。 このときに道長以下の諸公卿も衣を脱いだために、山の如くになったという。 1026年、後一条天皇の中宮・威子の御産祈願のために二十七体の等身大仏を定朝が造ったとされている。 二十七体の内訳は、釈迦三尊、七仏薬師、六観音、五大明王、六天である。 約二ヶ月という速さで完成させた裏には、約130人の仏師が関わっており、大規模な仏所組織があったと思われる。 ほかには後一条天皇崩御後(1036年)の仏事の為の仏像、後朱雀天皇念持仏(日常身につけたり身辺に置いたりして拝む仏像。また、本尊として信仰する仏。)の純銀一尺薬師仏などを造り、1046年の興福寺焼失後の仏像修造を行い、「法眼和尚位」を授けられている。 そして1053年の宇治平等院の阿弥陀如来像や雲中供養菩薩像の制作に至るのである。 定朝の最後の作品は、西院邦恒堂の阿弥陀如来像である。 因みに藤原邦恒は多くの国守を歴任した豊かな受領であり、この如来像は後々仏像の理想とされた。 1096年には白河上皇が邦恒堂の阿弥陀の相好が勝るとして「中右記」に記されている。 また、同じく受領の藤原資業は日野の山荘を寺とし、法界寺を建立したが、ここにも定朝の阿弥陀仏があったと言う。

 ところで、宇治鳳凰堂にある定朝作の阿弥陀如来座像に関して、関白藤原頼通の家司・平定家は日記にこう記している。 「宇治に京の定朝の工房から阿弥陀仏が10時間かけて運ばれ、新堂供養が行われた。これが鳳凰堂の本尊・阿弥陀如来である。」  阿弥陀如来の座像高は284cm(定朝以前は250cm)で絶妙のバランスがあるとして模範になった。 鳳凰堂中堂の須弥壇上に来迎壁を背にし、八重の蓮華座に座り、頭上には方形と円形の天蓋をいただく。 つまり、極楽浄土にいる阿弥陀を地上に再現したのである。

宇治鳳凰堂にある定朝作の阿弥陀如来座像

康尚 → 定朝 →  頼助・康助 →  康慶 → 運慶 →  湛慶

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