平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

藤原道長亡き後の頼通

2007年09月05日 | 平安時代

藤原道長亡き後の頼通

 藤原道長の嫡男・頼通が摂政となったのは26歳のときであり、この後半世紀という長期間、甥の後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の三代に渡って摂関の地位にあった。 平安時代の摂関二十人のなかで、次に長いのは忠通の三十八年、全体の平均が十年程度であるから頼通が破格であったことがわかる。 しかしそれは彼の力量によるものではなく、父・道長が敷いた路線の賜物であり、頼通はどちらかというと凡庸であったという。  「恵和の心」の持ち主であったといわれる頼通の前半生は、父の支持を仰ぐなど多くの意見を聞きながら政治を行ったが、父の死後は権勢欲が強まっていった。 その治世の中で見るべきものとしては荘園の整理がある。 この頃、新立荘園を廃止する法令が数回にわたって出されているが、公領を取り込んで私領化する貴族が増えていた。 荘園化の現象は地方において著しかったので公領の減少は受領にとって大きな問題であった。そこで荘園の廃止を要求する受領の意見に押されて廃止令となるのであるが、効果は芳しくなく、かえって権門を擁護する形となっていった。

 この時期に、藤原氏出身の有能な政治家が世を去っている。一人は90歳まで現役の右大臣を勤めた藤原実資である。もう一人は59歳で権大納言の職を退き、京都・北山の長谷で出家し、76歳まで生きながらえた藤原公任である。 従兄弟同士の二人は摂関の実頼を祖父に持ち、実資は父の若死でこの祖父の養子となり、財産を受け継ぎ、公任の父・頼忠は関白であったが、この関白は子息に受け継がれるものではなかった。 頂点には立てなかった二人ではあったが大きな功績を残している。 道長は9歳年上の実資をうっとうしく思わぬでもなかったが、「賢人右府」と称された実資の知識に頼ることが多く、無視できない存在であった。 また気骨のある実資は王道思想を道理とする立場から、天皇をないがしろにする道長の態度に反発することもあったが、おしなべて迎合をしている。 また実資は、中宮・彰子を賢后と呼び、彰子の信任をえており、また、長寿ゆえに5代の天皇にまみえることとなった。 一方頼通にとっての実資は頼り切る存在であった。 粘着質の実資とは違って、公任は道長と同じ年の学識豊かな才人で、藤原行成らと一条天皇時代に四納言に挙げられ文化面でも活躍は著しかった。 また、漢詩、音楽、和歌のいずれにも優れ、三船の才と讃えられた。 

 頼通は一人の妻への愛情が深いために、後継者問題で苦労をし、挙句の果てに外戚関係を失って宇治に隠棲した、ということがよく言われている。妻の名は隆姫女王で、その父は村上天皇皇子の具平親王である。 18歳の時に15歳の隆姫女王と結婚したのは彰子が敦良親王を生んだときである。 隆姫女王は93歳の長寿であったが一人の子も産むことはなかった。 将来を案じた道長は、三条天皇から皇女を頼通に降嫁してはと勧めたが、隆姫の気持ちを考え断ったと言う。 しかし頼通が隆姫女王以外に女性を寄せ付けなかったのかというと、そうではない。 この頃に、藤原永頼の娘に男子を産ませている。また、源憲定の娘にも通房という子を生ませている。 すでに隆姫の弟・源師房が頼通の養子になっていたが、道長は通房の誕生を喜んでいる。 ところが通房は18歳で大納言となった2年後に亡くなっている。 さらに頼通は隆姫女王の義弟・頼成の娘・祇子との間に6人の子をもうけ、末子の師実が後を受け継ぐことになる。 僧籍にはいった覚円を除いて3人の兄は全て他家の養子になっているのは隆姫女王への配慮か、それとも養子にした源師実の立場を考慮したものかは不明である。 そして娘に恵まれなかったせいか、摂関の命取りとなった。 一条天皇の皇子・敦康親王の娘・嫄子を養子にし、後朱雀天皇(彰子所生の敦良親王)に入れたが、祐子内親王しか生まれず、やっと祇子との間に生まれた寛子を後朱雀天皇の皇子(後の後冷泉天皇)に入れたが、一人の子にも恵まれなかった。 寛子は92歳で崩御するまでに6代の天皇にまみえ、その間に皇后・皇太后・太皇太后となるなど、皇后位につくこと77年というのは前代未聞であった。 寛子は派手好みで、夫の後冷泉天皇亡き後は宇治に住み、平等院の奥の院と呼ばれた白川金色院を創設した。 結局、外孫の望みを絶たれた頼通に残された道は、子息を通じて強力な楔をうつことであった。 頼通が期待を寄せたのは養子の右大臣・源師房であり、妻となった尊子(道長の五女)には俊房・顕房・麗子がいた。 男子はそれぞれ左大臣、右大臣となり、麗子は師実の妻となり、関白・師通を生んでいる。

                   為隆為房(1049-1115白河上皇に重用)
為平親王娘          尊子(道長五女)    ┣為隆(万里小路家祖)
 ┣隆姫女王995-1087 ┣俊房        ┣顕隆(葉室家祖) 
 ┣次女  ┃    ┣顕房       ┃ ┗徳大寺実能━公能
 ┣師房  ┃    ┃  ┗賢子(白河中宮)┗妹(堀河・鳥羽の乳母)
 ┣嫥子女王┃    ┣麗子        

具平トモヒラ親王┣源師房(1008-1077養子)               篤子内親王
      ┣源嫄子(敦康親王娘1016-1039養子)      中宮賢子 ┣
       ┃ 彰子┣祐子内親王1038-1105 藤原茂子(公成娘)┣73堀河天皇1079-1107
       ┃  ┣69後朱雀1009-1045     ┣
72白河天皇1053-1129
       ┃  ┃  ┃  ┣71後三条1034-1073 ┃乳母:藤原顕季アキスエ母
       ┃  ┃  ┃禎子内親王(陽明門院1013-)┃┣長実
      ┃66一条天皇┃  光子(堀河鳥羽の乳母) ┃┃ ┗得子(美福門院)1117-
道長    ┃     ┣70後冷泉1025-┣三条実行 ┃┣家保    ┃
 ┣頼通992-1074   藤原嬉子┃    ┣西園寺通季┃┣顕輔    ┣76近衛天皇
 ┃      ┃ ┣通房1025-1044  ┃    ┣徳大寺実能┃藤原経平娘 ┃ 
 ┃      ┃ ┃         ┃    ┃ ┗公能 ┃      ┃ 
  ┃   ┃源憲定・娘┏━━━┛    ┣璋子(待賢門院)1101-1145┃
  ┃   ┣覚円   ┣ x     実季┳公実      ┣75崇徳      ┃
 ┃   ┣寛子 1036-1127平等院奥院┗苡子   ┣77後白河      ┃  忠隆娘
 ┃   ┣師実 1042-1101京極殿       ┗━━┓┃         ┃   ┣基通 
 ┃   ┣家綱-1092 ┣師通モロミチ1062-1099     ┃┃  ┏━━━━━┛┏近衛基実
 ┃   ┣忠綱-1084 ┣賢子 ┃       74鳥羽上皇       ┣近衛基房 
  ┃   ┃     麗子  ┣忠実1078-1162    ┣       ┣九条兼房 
  ┃  
藤原祇子     ┣全子  ┃  ┣泰子(高陽院1095-1155) ┣慈円
  ┃頼成(隆姫義弟)  俊家1014-1082 ┃  ┣忠通(法性寺関白1097-1163)
  ┣教通996-1075           ┃ ┣源師子
倫子 ┃   ┃┣ x                 ┃源顕房
   ┃   ┃嫥子女王
       ┣頼長1120-1156(内覧 保元の乱で敗)
子内親王 ┣ 信家       盛実娘

         ┣ 通基        
 
       ┣ 信長1022-1094(九条太政大臣)        
  
         ┣ 生子1014-1068(後朱雀女御)      
  
   頼忠   ┣ 歓子1021-1102(後冷泉皇后)      
  
    ┣公任┣ 真子(後冷泉女御)      
  
 厳子女王┣娘 
  
     昭平親王娘

コメント

歌人・相模

2007年09月04日 | 平安時代

歌人・相模

 998?年~1061年頃の女流歌人で、中古三十六歌仙の一人である。 百人一首に収められた、「恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋にくちなん名こそ惜しけれ」 は恋歌として名高い。 実父は源頼光という説もあるが不詳で、能登守慶滋保章の娘を母として生まれる。 継父であろうという摂津源氏・但馬守頼光(948-1021年)の養女。 1020年より以前に相模守大江公資に娶られ、相模の女房名で呼ばれるようになる。 夫の任地相模国に随行したものの、結婚生活が破綻し、万寿元年(1024)帰京してまもなく、公資と離別した。 その後、四条大納言藤原公任の息男であり、自身も歌人として名高い中納言藤原定頼(995-1045年)からたびたびの求愛を受けた。 しばらくして一条天皇の第一皇女・脩子内親王(996-1049)に出仕する。 1049年に主君・脩子内親王が薨去した後は、さらに後朱雀天皇の皇女・祐子内親王(1038-1105年.脩子内親王の弟の孫)に仕えた。 相模は長元八年(1035)の「賀陽院水閣歌合」(関白左大臣藤原頼通の主催)に出詠したのをはじめ、数々の歌合に名をつらね、後朱雀・後冷泉朝の歌壇で活躍した。 彼女は和歌六人党(藤原範永・平棟仲・藤原経衡・源頼実・同頼家・同兼長)の歌道の指導的立場にあったばかりでなく、能因法師・和泉式部・源経信などとの交流もそれぞれの家集から伺える。 代々の勅撰集に百首ほど入集。白河朝に編まれた『後拾遺和歌集』では和泉式部についで第二位の入集歌数を誇る。家集『相模集』(『思女集』などの異名を持つ)も伝本が現存する。

    藤原守仁娘・(伊予守) 
    ┣ 道頼971-995(兼家養子) 藤原為光娘(忯子の妹)花山法皇狙撃事件
┗┳ 道隆953-995(中関白家)        ┣ 

 ┃        ┣━┳伊周コレチカ974-1010┳道雅(三条帝娘・当子内親王と恋愛)
 ┃ 高階成忠┳タカシナ貴子┃        ┣大姫
 ┃(高二位殿)┃ -996 ┣隆家979-1044  ┗小姫 
 ┃ 923-998 ┣信順マサノフ┣御匣殿985-1002(定子亡き後、養母として入内) 
 ┃     ┣明順  ┣頼子姫(敦道親王師ノ宮の妻) 
 
┃   
  ┗光子  ┣原子姫980-1002(居貞親王女御) 
 ┃      (定子乳母)┗定子977-1000 里邸二条 
 ┣ 道兼961-995┳兼隆985-1053┣脩子内親王   996-1049
 ┃             ┣兼綱     ┣敦康親王    999-1018
 ┃          ┣尊子984-1022┣よし子内親王1000-1008
 ┃   繁子(師輔娘)┃    ┃
 ┃  66一条帝980-1011(乳母は橘徳子) 
 ┣ 道長━┳ 頼通━┳ 師実━━ 師通━━ 忠実━┳ 忠通

 ┃    ┃ ┃ 宇治殿 ┗ 寛子(後冷泉后)     ┗ 頼長
 ┃┏源倫子┣ 教通(996-1075 和泉式部娘・小式部を妾とする。本妻は公任・娘)
 ┃┃(鷹司)┃      ┣ 歓子(1021-1102後冷泉后)   ┣信長  
 ┃┗時中 ┃      ┣ 真子(後冷泉女御)      公任娘 
 
┃父:雅信┃920-993 ┗ 生子(1014-1068後朱雀女御)         
 ┃  重信┃-995         ┃延子(藤原頼宗娘)
 ┃    ┃             ┃ ┃嫄子(敦康親王娘)1016-1039 1076-1103
 
┃    ┣ 彰子988-1074上東門院┃ ┃┣祐子内親王,禖子内親王  藤原苡子

 ┃    ┃ ┣敦良親王(69代後朱雀)1009-1045━┳良子、娟子    賢子┣鳥羽
 ┃    ┃ ┣敦成親王(68代後一条)1008-1036┓┣尊仁親王(71後三条)┣堀河天皇
 ┣ 道綱 ┃ 66代一条帝980-1011       ┃┃┃┣貞仁72白川帝1053-1129   
 ┃    ┃ 67代三条帝976-1017         ┃┃┃藤原茂子(公成娘) 
  ┃        ┃ ┣禎子内親王1013-1094陽明門院  ┃┛┃
  ┃974-1004┃ ┃                ┣馨子内親王1028-1093斎院
 ┣ 綏子 ┣ 妍子994-1027(枇杷殿)      ┣章子内親王1026-1105 

 ┃  ┃ ┣ 威子998-1036         ━━━━━┛ ┃藤原教通娘・歓子1021-1102
 ┃  ┃ ┗ 嬉子1007-1025(産後死去,後冷泉母)┣- ┣ - 

 ┃  ┃        ┣親仁親王70代後冷泉(紫式部部娘賢子が乳母) 
  ┃  ┗━━━━┓69代後朱雀                 ┣ - 
 ┃954-982       ┃娍子972-1025(堀河女御 済時娘)   藤原頼通娘・寛子1036-1127
 ┣ 超子(ゆきこ)┃ ┣敦明親王994-1051小一条院

 ┃  ┃    ┃ ┃ ┣敦貞親王
 ┃  ┃    ┃ ┃延子985-1019(顕光娘、一条帝女御元子の妹) 
 ┃  ┃    ┃ ┣敦儀、敦平、師明親王、当子(斎宮)、子内親王
 ┃  ┣居貞イヤサダ親王67代三条帝976-1017 
 ┃  ┣為尊親王977-1002(弾正ノ宮:和泉式部を寵愛)
 ┃  ┣敦道親王981-1007(師ノ宮:和泉式部を寵愛) 
 ┃ 63冷泉帝
 ┗ 詮子(東三条院 兼家娘)962-1001出家後土御門第へ移り、道長は一条院へ。 
    ┣懐仁カネヒト親王(66代一条帝)
   64円融帝959-992

コメント

更級日記

2007年08月24日 | 平安時代

更級日記

 更級日記は、菅原孝標(たかすえ)・次女によって1020年頃から、52歳頃の1059年までの約40年間に書かれた回想録です。作者は菅原道真の五世孫にあたり、母方の伯母には蜻蛉日記の作者である藤原道綱・母がいます。また叔父の理能は清少納言の義兄であり、同家系(清和天皇の皇后であった高子を娘にもつ藤原長良の系統)から紫式部がでています。

 この日記は東国・上総の国府に任官していた父とともに寛仁4年9月京の都へ帰国するところから始まります。13歳の頃に源氏物語(彼女の時代から遡ること約10年前に完成している)に憧れ、物語世界への憧憬に過ごし、度重なる身内の死去によって見た厳しい現実、32歳で祐子内親王(藤原彰子の孫で後朱雀天皇三女)家へ出仕、三十代での橘俊通との結婚と仲俊らの出産、夫の単身赴任そして康平元年秋の病死などを経て、子供たちが巣立った後の孤独の中で次第に深まった仏教への傾斜までが平明な文体で描かれています。

 ここでは更級日記の一部を紹介しながら、菅原孝標・次女が語ろうとした世界を感じてみたいと思います。

 常陸の国の奥・上総の国で10歳から13歳にかけて菅原孝標・次女は育ちます。この頃世の中には物語りというものがあることを知り、是非とも読んでみたいと思うようになります。姉、継母といった人々が光源氏の様子などを話しているのを聞くと、益々思いは募ります。特に彼女は浮舟が好きだったようです。 この頃等身大の薬師仏を作らせ、都へ行き、たくさんあるという物語が見れますように・・とお祈りをするのでした。 そしてついに13歳の時に上京することになります。 家具などすっかり片付いてしまいますが、その中に薬師仏様がぽつんと立っています。 お見捨てしてこの家を出て行くのがつらくて、一人こっそりと涙を流します。 門出の為に移動したさきは垣根も塀もなくみすぼらしい限りですが、夕霧が一面を覆ってひろがる風景は見事で、ここを立ち去ってしまうことが残念でなりません。 9月15日頃どしゃ降りの中を国境をこえて下総に入り、その夜は「いかだ」というところに泊まります。ある夜は「黒戸の浜」というところに泊まります。そこは砂丘がはるか遠くまで続き、それを月明かりがとても明るく照らしていて風の音もしんみりと心細く聞こえます。人々と同じように私も「今晩はうとうとまどろんだりせず、秋の夜の月を見てみよう」と詠みます。

 私の乳母にあたる人は夫にも先立たれ国境・まつさとで出産したので、後から上京することになりました。その乳母が恋しくてたまらずにいると、兄にあたる人が私を抱いてお見舞いに連れて行ってくれました。私の小屋に比べると乳母の小屋は粗末なもので、屋根からは月明かりがいっぱい差し込んできます。 乳母は辛そうに横たわっていますが、月明かりに照らされた姿はとても白くて美しく、私のお見舞いを嬉しく思い、私の髪を何度も掻き撫でながら泣いています。 それなのに急いで兄は切なく思う私を連れていきます。月のおもしろさも感じることができずに寝てしまいました。

 今は武蔵野国、特に面白い景色もなく浜は泥で覆われ葦や荻が高く茂り、その中を進むと竹芝という寺です。「ここはどういうところですか」と聞くと、「ここは竹芝という坂なんですが、昔この国に住んでいた男を火焚き屋の火を焚く番人として国司が任命して朝廷に差し出したのです。 ある日、男が御殿の前の庭を掃きながら、なんでこんなに辛い目に会うのだろうと独り言をいっていました。 その時、帝のお嬢様で大切に育てられていた姫君が御簾のところに出ていらして、男の独り言に興味を抱き、男を呼び、独り言の話を聞きたいと迫ります。男は恐る恐る欄干に参上して坂壺のことを申し上げると、姫君は私を連れて行って見せておくれといいます。 男は姫君を背負い武蔵野国に下ります。」 一方都では帝や后が姫君の行方不明に驚き探します。 朝廷から遣いが武蔵野国に到着すると男を見つけると、姫君は事情を説明して遣いを都にかえさせます。 姫君の希望を聞き入れた朝廷は、男と姫君を武蔵野国に預けます。 男は家を内裏のように造り、姫君をすまわせたのです。 その後姫君はなくなり、家を寺にして、そこを竹芝寺と呼ぶようになりました。

 足柄山というところで4,5日も暗い山道を歩いています。麓に泊まったら月もなく真っ暗な晩で不気味です。 するとどこからともなく遊女が3人姿を現します。人々は宿の前に柄の長い傘をさしかけて遊女達を座らせます。 昔「こはた」とかいった有名な遊女の孫だそうです。髪はとても長く額髪も美しく色は白くこぎれいで「ちゃんとしたところの使用人として通用しそうだ」などと人々は感心しています。声までたとえようもなく空に澄み登るように歌を歌います。 ある人が「西国の遊女はとてもこんなにすばらしく歌えないよ」というと、「難波あたりの遊女に比べたら私達はとてもかないません」と返します。 美しい遊女がこんなに恐ろしい真っ暗な山の中に去っていくのを見て、人々は満たされない思いで泣いています。

 粟津に滞在して、いよいよ12月2日に京に入ります。午後4時頃に粟津を出発し逢坂の関が近くなると山の斜面の板囲いがしてあるその上から建造途中の仏様の顔だけが眺められました。色々とたくさんの国々を通ってきましたが駿河の国の清見が関と逢坂の関ほど心に残るところはありませんでした。 暗くなってから三条の宮様 【一条天皇と定子の長女・脩子内親王 同母弟妹に敦康親王がいる。敦康親王とは別々に暮らしていたが、親王が20歳の若さで薨去した際には非常に嘆き悲しんだという。1024年に落飾、入道一品宮などと称された。また藤原頼宗の次女延子(母は伊周女で脩子内親王の従姉妹)を養女とし、延子が後朱雀天皇に入内した際には養母として付き添った。 歌人相模が仕えたことでも知られる。】 の西隣にある我が家にようやくたどり着いたのでした。三条の我が家はだだっぴろく荒れ果てて、これまで通ってきた山々にも負けないくらいに恐ろしげな深山木がこんもりと茂っていて、都とは思えないくらいです。 都に着いたらなんとしても早く見たい・・と思っていましたので、物語を探して早くみせて、と母親にせがんだら、三条の宮様のところに仕えている衛門の命婦という人をたずねて手紙を送ってくれました。 するとその人は私達の帰京を喜んでくれて、宮様のものをいただいたのよと、すばらしい冊子類を硯箱にいれて贈ってくれたのです。 私はうれしくてたまらず、昼夜読みふけり、ほかの物語も読みたくなってきます。

 私の継母だった人はもともと宮仕えをしていたのですが、父とともに上総の国に下った人なので、うまくいかないことなども色々あり、父との仲もしっくりいかないようで、別れてよそに行くことになりました。5歳ほどの子供をつれて、「決して忘れませんからね、梅ノ木が咲く頃には必ず来ますね」と言い残していってしまいました。恋しくてたまらない気持ちを抱き続けながら声を忍んでは泣いてばかりいました。 新しい年になると、早く梅が咲かないかしら、と梅ノ木をじっと眺めながら待ち続けていました。でも、梅の花は咲いたというのに何の連絡もないのです。思い余って歌を届けます。 すると継母は胸に響くようなせつない言葉を書き連ね、「やっぱりあてにして待っててくださいな。私が行かれなくても、昔の歌にあるように、梅の高い枝をみて約束などしていない思いがけない人が訪ねてくるかもしれませんよ」という歌を贈ってくれました。

 この年の春、疫病が大流行し「まつさと」の渡し場で月の光を浴びてしみじみと美しいと思ったあの乳母は3月の初めに亡くなりました。物語を読みたいと思う気持ちも無くなってしまうくらい悲しくなります。一日中泣き続けて、ふと外を見ると夕日が華やかに差し込んでくるなかを、桜の花が散り乱れています。 散っている花も再びやってくる春には姿をみることができますが、乳母の姿は二度と見ることはできないのです。 また、聞くところによると侍従の大納言様(藤原行成)のお嬢様がやはり疫病でお亡くなりになったということです。 夫君の中将様(藤原長家:藤原道長の6男で母は明子)が嘆いていらっしゃると聞いた話も、ちょうど乳母が亡くなった時なので人事とは思えず聞いたのです。 上京したときに姫君のお書きになったものを手本にと私にくれたのですが、それには「鳥辺山に火葬の煙が立ち上ったなら、それはか弱く見えていた私が亡くなったのだと思ってください」と、なんともいえないほど美しく見事におかきになっていらっしゃったのです。 この歌が自分の運命を暗示しているようで涙がこぼれてなりません。

 私が落ち込んでばかりいるので、なんとかして慰めようと母が物語りなどを探して見せてくださいました。心遣いが利いて私の気持ちも次第に晴れてきます。 源氏物語の若紫の巻きなどを読んでからは、その続きが読みたくて心ひそかに祈っているのです。 親が太秦の広隆寺に籠もっているときも一緒に行って、ただ物語のことばかりをお願いしますが、見ることはなかなかできないのです。 そんなとき、叔母にあたる人が地方から上京してきて親が私をさしむけたのです。「ほんとにかわいいお嬢さんにおなりになったこと」といって私が帰るときに、ほしくてたまらなかった源氏物語の全巻を櫃にはいったまま、そしてほかにも色々な物語類を袋にいれてくださいました。 帰るときの気持ちといったら天にも昇る気持ちだったのです。 胸をどきどきさせながら、今までは少ししか読めなかったので筋がつかめずにいらいらしていた源氏物語を最初の巻きから誰にも邪魔されずに几帳のなかで臥せって読む気持ちといったら嬉しくて后の位なんか問題になりません。 すると夢の中でとてもすっきりしたかんじの僧で地が黄色い袈裟を着た人がきて、法華経の第五巻を今すぐに勉強しなさいと言いますが、物語に夢中で習おうとも思いません。 私は幼いからまだ綺麗じゃないけれど、年頃になったら器量だってすごく美しくなって髪も長くし、光源氏が愛した夕顔や浮舟の女君のようになるわ、と思っていた気持ちは今思うと浅はかであきれたものでした。

 物語のことを昼夜思い続けていると、ある時次のような夢をみました。最近皇太后宮様(妍子:道長の娘で三条帝の妃)の姫君(禎子内親王)でいらっしゃる宮様の御用の為に六角堂に水を引いて遣り水を造っています、という人がいるので、それはいったいどういうわけですか、と聞いたら、天照大神をお祈り申し上げなさいと応えました。こんな夢を見て人に話すことも無く何も考えずにそのままにしてしまったことは情けないことです。春が来るたびに宮様(禎子内親王)のお邸を眺めながらこのような歌を歌いました。 桜が咲くのを待ち、また散ってしまったといっては嘆いている春。まるで自分の家のようにして宮様の家の桜を眺めています。

 桜の咲き散る季節になると乳母が亡くなったことを思い出します。同じ頃に亡くなった侍従の大納言様の姫君の筆跡を見ては哀しさが込み上げます。 5月頃のこと、物語を読みふけっているとどこからきたのか猫が柔らかい声で鳴いています。姉が私達で飼いましょうというと猫はとても人に馴れていて私達の傍に来てのびのびと横になるのです。猫は下々のひとのところには寄り付かず、汚らしい食べ物にはそっぽをむいています。そのうち姉が病気になってしまい、ごたごたしているとき猫を使用人のいる北向きの部屋にばかり置き、こちらに呼ばなかったら、うるさく泣き騒いでいます。 病気の姉がふっと目を覚まして、猫をこっちに連れていらっしゃいといいます。姉が見た夢によると、猫は侍従の大納言様の姫君が生まれ変わったものだという。こちらの妹君が私を懐かしがって思い出されているので少しの間ここにいるのですと。それなのに最近は使用人の部屋ばかりに置かれてほんとうに辛いことです。 ・・・まるで上品で美しい人のように見えてはっと目を覚ましたのです。それを聞いてわたしもジーンと胸が詰まるような気持ちになりました。 それからは猫を大切にお世話します。私が一人で座っていると猫もやってきてちょこんと向き合って座るのです。 私が頭を撫でながら、大納言様の姫君でいらっしゃるのね。父上の大納言様にお知らせ申し上げたいわ。 と話しかけると私の顔をじっとみつめて柔らかい声で鳴くのです。

 翌年のある晩、火事が出て大納言様の姫君と信じて大切に育てていた猫がかわいそうに焼け死んでしまいました。 大納言様の姫君などと呼ぶとまるで自分の名前が呼ばれたことがわかるかのように顔で鳴いて擦り寄ってきたのに。。父も感動的な話だな、是非父上の大納言様に申し上げようと言っていたところだったのです。 私の元の家は広々としておくが深く花や紅葉の季節にはまわりの山辺も問題にならないくらいにすばらしい景色でそれを見慣れていたのでした。それなのに今回の家は比べようもなく狭く、幻滅です。梅の香りを運んでくる隣からの風をしみじみと味わうにつけても、すみなれたものと家の軒端の梅が恋しくて恋しくて・・。と詠みました。

 その年の5月の初めに姉が子供を産んで亡くなってしまいます。他人のことだって人が亡くなることはひどく辛いことなのに、まして肉親の姉を亡くした苦しみはなんとも言いようがなく胸が張り裂けるばかりです。母などは姉の亡くなった部屋につめているので、私は形見となって取り残された幼い子供達を自分の両側に寝かせていると、荒れた板屋根の隙間から月の光が漏れてきて幼い子の顔に当たってしまします。 ひどく不吉に思われたので顔を袖で覆って隠し、もう一人も自分のほうに抱き寄せて、このこの将来などを考えてしまうのは辛くてやりきれない気持ちです。

 東山は霊山に近いところなので参拝しましたが、山道がとても辛かったので山寺にある石の井戸に立ち寄って、水を手に掬っては飲んでいました。この水はおいしくていくら飲んでも飽きない気がする・・という人がいます。 有名な昔の歌で、奥山の石の間から湧き出す水を手で掬って飲むと飽きない・・というのがあります・・と詠みかけると、水を飲んでいる人が、山の井のしずくにごる水よりもこっちの水のほうがもっと飽きないでおいしい気がすると返事をしました。   

 

┗┳ 長良━┳ 高子(清和后、陽成母)
 ┃    ┗ 元名 ━ 文範 ┳━━為雅 
 ┃              ┃   ┣━娘 
 ┃              ┃  ┏女 ┣    
 ┃              ┃  ┃  義懐(紫式部・姉を愛人とする)
 ┃              ┃倫寧┃  
 ┃              ┃ ┣╋女(蜻蛉日記著者936-995)

 ┃              ┃女 ┃ ┣━道綱  
 ┃              ┃  ┃ 兼家 
 ┃              ┃  ┣女  
 ┃              ┃  ┃┣━定義 
 ┃              ┃  ┃┣━女(更級日記著者) 
 
┃              ┃  ┃菅原孝標    
 ┃              ┃  ┃ 
 ┃              ┃  ┗━━理能    
 ┃              ┃     ┣ 
 ┃              ┃清原元輔┳女    
 ┃              ┃    ┗清少納言(枕草子著者966-1025) 
 ┃              ┃      ┣
 ┃              ┃     橘則光 
 ┃              ┃   (師貞皇太子乳兄弟)        
 ┃              ┃ 
 ┃              ┗為信┳康円
 ┃                 ┃ 
 ┃                 ┗娘    宣孝
 ┃         利基━兼輔━雅正 ┣━┳娘 ┣賢子 
 ┃                ┣為時 ┣紫式部(源氏物語著者970-1010) 
 ┃                ┃   ┣惟規 
 ┃                ┃   ┗息子(死産) 
 ┃                ┣女(紫式部兄妹の面倒を見た御方) 
 ┃                ┣為長 
 ┃                ┃ ┣ 
 ┃                ┃筑前守忠幹女 
 ┃                ┃  
 ┃                ┣為頼 
 ┃           定方 ┳ 娘 ┃
 ┃              ┃   ┣伊祐
 ┃              ┃  上毛野公房女 
 ┃              ┣朝頼━為輔━宣孝(紫式部と結婚)
 ┃              ┗朝忠━穆子
 ┃                  ┣ 倫子 
 ┃                 源雅信┣
 ┃                    藤原道長

コメント

京都・嵐山 法輪寺

2007年07月17日 | 平安時代

小督と横笛と法輪寺

 京都には法輪寺が二箇所にあります。 ひとつは北野天満宮の南に1kmくらいのところにある通称「だるま寺」ともいうお寺です。 そしてもうひとつが嵐山の渡月橋を渡って嵐山側へすこし行ったところにあります。

 嵯峨野の玄関口となる嵐山の渡月橋は、その昔は法輪寺橋と呼ばれていたという。この橋の南側山麓に、「十三詣り」でよく知られている法輪寺で、参拝のために設けられた橋であったとされている。 橋の途中から南の山を眺めると、その法輪寺の多宝塔を見ることができる。なお、渡月橋と呼ばれるようになったのは鎌倉時代で、亀山天皇が名付けたとされている。本尊は、木造虚空蔵菩薩座像(弘法大師の弟子道昌僧正の作)で、日本三虚空菩薩蔵の一つ (他の二つは、伊勢神宮の鬼門を守護する金剛証寺・伊勢市朝熊と、鎮護国家の道場として創建された明星輪寺・大垣市) とされている。 法輪寺は奈良時代713年 元明天皇の勅願で創建され、開山は行基菩薩。もとは葛井寺(くずいじ)と称していてが、平安時代の天長6年(829)弘法大師の高弟道昌(どうしょう)が虚空蔵菩薩を安置し、貞観16年(874)に法輪寺と改められている。 法輪寺は、推古30年(622年)に聖徳太子の病気平癒を祈って山背大兄王とその子由義(弓削)王が建立を発願したとするほか、聖徳太子が建立を発願し山背大兄王が完成させたという伝承も伝えられている。 (撮影:クロウ) 

 

 

 法輪寺の山門をくぐり、勾配のある石段の途中に珍しい「電電宮」という名前の小さな祠がある。この電電宮の周りに立つ奉納・寄進者名板を見ると、国内の大手電気・電子関連や放送関連の会社名がずらりと並んでいる。

 

 さらに石段を登ると視界が拡がり正面に本堂、右手は渡月橋が望める見晴台、左手に渡月橋を渡るときに見えていた多宝塔がある。本堂は、毎年3月13日前後の休日から十三詣りの親子ずれで賑わう。十三詣りは、江戸時代に始ったとされている。十三歳頃になると男なら声替わり、女なら生理的に変化する。すなわち子供から大人に変わる年頃。十三歳になった男女が正装し、旧暦3月13日(現在4月13日)前後に渡月橋を渡って法輪寺の虚空像菩薩に厄払いと智恵を願いに詣でる京の伝統的な祭事。 参拝帰りの子供たちは、渡月橋を渡り終えるまでに後ろを振りかえると、虚空像菩薩に授かった智恵を返すと親から言われ、前を見て必死に歩くという。 なお、本堂後ろには小督局(こごうのつぼね)の供養塔と伝える小さな石塔 (現在は非公開)があるという。また、境内には弘法大師の修行の遺跡と伝えられる葛井の遺跡があるが、現在は柵が施され見ることが出来ない。

 さて、この法輪寺は平家物語の中で悲恋の舞台として登場している。  一つが、高倉帝の寵愛を受けた小督局(こごうのつぼね)が、清盛の怒りから逃れるために隠れ住んだという話。高倉帝(天皇)12歳のとき、17歳の娘徳子(建礼門院)を高倉帝のもとに嫁がせたのが平清盛。築き上げた平家の栄華を確固たるものとするための政略結婚である。やがて徳子は出産するが、そのようなとき宮廷一の琴の名手といわれた小督(こごう)が高倉帝の前で琴を奏でたのが悲劇の始まりといえる。小督局は、桜町中納言藤原成範の娘で、琴の名手で美しいことでも大変評判、たちまち高倉帝は小督に熱を上げてしまう。ここまでは、当時の宮中では数ある出来事。しかし、高倉帝の中宮の徳子(建礼門院)が平清盛の娘であったことと、小督局は清盛の娘婿にあたる冷泉隆房の愛人であったことだ。高倉帝が小督を寵愛していることを知った清盛は大変怒り、小督を亡き者とする動きをはじめる。これを知った小督局は、夜中秘かに宮廷を抜け出し、姿を隠してしまう。
 一方、高倉帝の熱は冷めず、姿を隠した小督局を探すように側近の源仲国(みなもとのなかくに)に命じる。しかし、嵯峨辺りに住んでいるのでは?としか分からない。仲国は、連日連夜、馬にまたがり嵯峨周辺を訪ね廻る。月の美しいある夜、馬を近づけた法輪寺橋の近くで聞き覚えのある琴の音がかすかに聞こえる。仲国は笛の名手、宮廷では幾度となく小督の琴と合奏したことがある。琴を奏でているのは小督局?さっそく馬上で琴の音にあわせ笛を吹く・・・。小督局とめぐり合った仲国は、高倉帝の思いを伝えて小督を宮廷へ連れ戻したという。
 高倉帝は大変喜び、ますます小督局への寵愛は増す。一方、腹の虫が納まらないのが清盛。小督への憎しみは頂点にたち、やがて小督を宮中から追い出し、無理やり尼としてしまう。二度と高倉帝と会うことが出来なくなってしまった小督局。高倉帝の寵愛を受けたがための悲劇である。

 二つ目は、建礼門院に仕える横笛と滝口入道の悲恋である。 滝口入道とは、内大臣・平重盛に仕えていた宮中警護に当たる滝口(清涼殿の東北の詰所)の武士・斉藤滝口時頼のこと。 滝口時頼は、時の権力者平清盛が西八条殿で催した花見の宴で、建礼門院(重盛の妹)に仕えていた雑士女・横笛の舞を見て一目惚れ。その夜から横笛のことが忘れられず恋しさが募るだけ。思い悩んだあげく、恋しい自分の気持ちを手紙にして横笛に届けることにした。刀しか持ったことのない無骨な手で、書いては消し、書いては消して・・・。その文はやがて横笛のもとに届けられた。
 宮中警護を勤めるたくましい男性から愛を打ち明けられた横笛は「この気持ちを受け入れよう」と心に誓い、それから幾度となく手紙を交わし、愛の契りを結んだのであるが、この愛は長くは続かなかった。  二人の交際を知った滝口時頼の父は「おまえは名門の出、将来は平家一門に入る身ながら、あのような身分の低い女に何故思いをはせるのか」と厳しく叱りつける。滝口時頼が父茂頼(しげより)に従わなかったことから、とうとう勘当されることとなる。主君(内大臣)の信頼に背いた己を自責し、横笛に知らせることなく、わずか18歳で嵯峨の法輪寺にて出家。(『源平盛衰記』)煩悩を捨て、一心に仏道修行を誓ったのである。  幾日も経たないうち、都の噂で滝口時頼(滝口入道)は出家し嵯峨のあたりの寺にいると知る。横笛は、自分の心を打ち明けようと、あちこちの寺を尋ね歩き。都を出る時に着てきた横笛の着物は、夜露に裾は濡れ汚れ、袖もほころび、次第にみすぼらしくなっていた。人を怪しむ里犬に吠えられ、嵯峨の地へやって来たある日の夕暮れ、横笛の耳へ僅かながら念誦(ねんしょう)の声が聞こえた。耳を澄ませて声の方向を見ると、闇の奥の小さな庵(法輪寺)からであった。横笛はそっと近づき、念誦の声に「この声は、お捜していた滝口様」。はやる気持ちを抑え、表戸を叩き「滝口入道様、お願いでございます。お姿をお見せくださいませ。都から捜してまいりました」と声をかけた。声をかけたのは横笛の供の者。お供にそのように言わせ、自分は茂みの影で背をかがめて滝口の姿を一目見ようとしたのであった。 お供の声が届いたのか、先ほどまで聞こえていた念誦がぴたりと止み、しばらくすると一人の僧が静かに戸を開けて出てきて「そのような者はこの僧坊にはおりません、お間違いです」と言って姿を消した。茂みの影で横笛は「聞こえていた念誦の声は、間違いなく滝口様。 なぜお姿を見せていただけないのか」と涙したのである。これは、滝口が同宿の僧を差し向けてそう言わせ、滝口はこの事の成り行きを襖の隙間から見つつ「会うは修行の妨げなり」と涙しながら帰したのである。遠くから尋ね尋ねて、ようやく見つけた滝口に追い返された横笛は憔悴していたが、真の自分の気持ちを伝えたく「山深み 思い入りぬる柴の戸の まことの道に我を導け」と指を斬り、その血で近くの石に書き記し、泣く泣く都へ帰ったとも、悲しみのあまり法輪寺の近くの大堰川に身を沈めた(南都(奈良)・法華寺へ出家したとも伝えられる)。横笛の死を聞いた滝口は、女人禁制の高野山静浄院へ移り、ますます仏道修行に励み、その後、高野聖となり元暦元年(1184)、紀州の勝浦で、源氏に追われた平維盛の入水に立ち会っている。なお、嵯峨野/祇王寺の隣に、横笛・滝口を祀るお寺「滝口寺」があり、滝口が出家したのは滝口寺としている。 

写真は京都・時代祭りでの横笛 (撮影:クロウ)

コメント

源頼政

2007年07月03日 | 平安時代

源頼政

 先週、お墓ができあがったということで、兵庫県丹波へいってきた。 お墓といっても歴史的に由来のあるお墓でもなんでもなく、実は私の母方のおじいさんの墓である。 そしてそこにはおばあさんも眠っている。 そしてその墓の隣には二人の叔父さんと一人の叔母さんも眠っている。 二基のお墓に詣でたわけである。 おじいさんが亡くなったのは昭和20年、おばあさんは昭和28ねん、そして二人の叔父さんはなんと、大正11年と大正14年と墓石に刻まれていた。 私も初めて知ったのであるが、二人が亡くなったのは2歳と8歳。 男の子は幼い頃によく熱を出すという。 死因は高熱であったそうだ。 今では考えられないことであるが、今から80年以上も前の時代では普通のことであったらしい。 奈良・平安時代に40歳まで生きれば長寿であったといわれる所以を感じながら、 その足で向かったのは、丁度帰り道にある長明寺である。 ここには源頼政という歴史的にも有名な摂津源氏の棟梁が祀られている。 

   源仲政
      ┣ 頼政1104-1180(二条 六条 高倉三代に仕え、宇治で戦死)
      ┣ 頼行  ┃   ┣仲綱(二条天皇東宮時代に仕える)     
    ┃ ┣宗頼 ┃   ┣頼兼         ┗宗綱(宇治で戦死)
     ┃  ┣正綱 ┣宗頼 ┣二条院讃岐1141-1217中宮任子(宜秋門院)に再出仕
     ┃  ┗兼綱 ┣正綱 源斉頼娘     ┣重光

     ┃
      ┗兼綱-1180(宇治で戦死)  ┣有頼
     ┣ 光重              藤原重頼
        ┣ 泰政
   藤原友実娘

     

 

 法道仙人の開基と伝わる古寺・長明寺には源頼政公の墓碑や鵺退治を再現した像があります。  平安時代後期の武将であり歌人・源頼政(1104~1180年)は後白河天皇に愛され、保元の乱(1156年 保元元年)では後白河方の源義朝の下で戦い、続いて義朝が起こした平治の乱(1159年 平治元年)では、平清盛に味方し、源氏でありながら平家の政権下に名を残します。 出世は遅く、昇殿を許されたのは63歳のときで、清盛の推挙で従三位に叙せられたのは75歳になってからである。 清盛の厚い信頼もあったが、目に余る平家の横暴に反平家の兵を挙げ、平知盛・重衡ら率いる六波羅の大軍に追撃され、宇治川で敗れ平等院で切腹し、歳七十七にて果てます。 

 源頼政は、源氏といっても河内源氏(頼朝の血筋)ではなく、摂津源氏の系統の棟梁でした。  棟梁といっても、それほどの兵力は有しておらず、常時投入できる兵力は50騎くらいだったろうと言われています。 摂津源氏は清和源氏の始祖である頼光の嫡流で、本来はこちらが正統家系のようです。 三位入道と称され以仁王に打倒平家を持ちかけた張本人で、優れた歌人としても後白河院に気に入られ寵愛を受るが、それほど厚遇を受けておらず、32歳の時に従五位の蔵人に任ぜられているが、この後は泣かず飛ずの日が続き、保元の乱、平治の乱共に後白河院の側として参戦するが、それに対する恩賞の記録が残っていない。 彼が内昇殿を許されるのに40年もの歳月がかかっています。 そして挙兵も清盛に発覚してしまい、 頼政は宇治の平等院に立て篭もった以仁王の元に馳せ参じ、以仁王を逃がすために奮戦するが、仲綱と共に戦死します。  この宇治での合戦は『平家物語』のなかでも見せ場の一つで、川を挟んで対峙した両軍ですが、その間にかかる橋の上では熾烈な争いが繰り広げられ平家の追討軍はなかなか攻め込むことができませんでした。  このとき、平家方の侍大将忠清が、橋を渡るのは困難として迂回を進言するが、足利又太郎忠綱という人物が進み出て、川に飛び込むと、続々と板東武者達が川へ雪崩れ込みます。  「強い馬は上手に立てよ。弱い馬は下手にせよ。馬の足が届く間は、手綱を緩めて歩かせよ。跳ね上がったら、手綱を引きしめて泳がせよ。遅れるものは弓の弭に取り付かせよ。手を取り組み、肩を並べて渡しゆけ。鞍壺ににしっかり尻を据えて乗り、鐙を強く踏め。馬の頭が沈んだら、引き上げよ。強く引き過ぎてひっかぶるな。水に浸ったら、三頭の上に乗りかかれ。馬には優しく、水には強くあたれ。川の中では弓は引くな。敵が射ても応戦するな。常に錣を傾けよ。傾け過ぎて天辺を射られるな。真っ直ぐに渡し押し流されるな。流れに従って斜めに渡れや渡れ。」

鵺退治の由来

 仁平三年夏、近衛天皇は奇病になやまされておりました。深夜になると黒雲が御所をおおい鵺の鳴き声が聞こえてその度に天皇は苦しまれた。薬も名僧たちの祈願も効かなくやがて雲の中に住む妖怪の仕業と考え弓の名手源頼政に妖怪退治が命じられた。きっと見上げた頼政は弓をひき、「南無八幡大菩薩」と心の弓に祈念して矢を力一杯放つと見事命中、落ちてきた妖怪を家臣の者の早太が刺し殺した。火をともして見ると、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、恐ろしいと姿であったという。 天皇は感心され獅子王という名剣を下された。

 頼政公墓                      菖蒲御前墓

 

菖蒲御前

 鵺退治の功績により、源頼政は菖蒲(あやめ)御前を娶ったが、鵺が凶事といわれるように京の都では、それから三年後に保元の乱、平治の乱が次々に起こり、頼政も自害して死んでしまった。 その報を聞いた菖蒲御前は、家臣に連れられて逃亡の旅へ出た。諸国をさまよい、やがて越後の地に流れ着いた御前は、とある神社で休息することにした。 するとその神社にどこからともなくおびただしい烏の群れが集まり、境内を真っ黒に染めてしまった。これをみた菖蒲御前は弓を取り出すと何ごとか呟いて矢をつがえると、村びとの嘲りをよそに烏たちは鳴き止み、ばたばたと地面に落ちたではないか。ふたたび御前が何ごとか唱えると、烏たちは息を吹き返し、どこかへ飛び去ってしまった。以来、この森に烏が近付く事はないという。 この光景に驚いた村人たちは、御前を家に招き歓待した。 御前は、この地で暮らす事にし亡き夫の菩提を弔いながら静かに暮らしたという。

 夫・頼政を失った菖蒲御前は身重であったが、三歳になる鶴若丸の手をひいて安芸国に落ち延びる。哀れにも鶴若丸は病死してしまうが、その地で無事に男子を産んだ。 平氏が壇ノ浦に滅び、鎌倉に幕府が開かれると、菖蒲御前は頼政の勲功によって賀茂庄を与えられ、息子の頼興とともに二神山の城に入った。 平穏な二十年が過ぎた頃、平氏の流れを汲む土肥遠平が二神山の城を攻めたてた。 不意を突かれた城はまたたく間に攻め落とされる。親子は散り散りになり、菖蒲御前は侍女の鶴姫とともに馬に乗って逃げ延びる。しかし、追手の追跡は厳しく、あっという間に背後に迫る。ある池のほとりに差し掛かった時、鶴姫がこう切り出した。 「御前さま、もはやこれまでにございます。この闇ですから、私が身代わりになって防ぐ隙に、少しでも遠くへお逃げください」  御前を逃がした鶴姫は追手の前に立ち塞がり、「われこそは、菖蒲御前なるぞ。汝らが悪党の手にかかるは源家の恥。最期のほどをとくと見よ」という間もなく、池に飛び込み、短刀で喉を掻き切った。  水から引き上げられた遺骸の正体が知れた頃、菖蒲御前の馬は池から遠く離れた場所まで足を進めていた。  その後、ふたたび追手に捕まりそうになった御前は、乗っていた馬の腹を切り裂いて、そのなかに隠れることで逃げおおせる。  小倉山の麓に身を潜めた御前は、髪を下ろして西妙尼と名乗り、鶴姫と愛馬の菩提を弔って余生を送ったという。

コメント

嵯峨天皇皇女・正子内親王

2007年07月01日 | 平安時代

嵯峨天皇皇女・正子内親王

 正子内親王と第54代仁明天皇とは同母兄妹(双子)で、父は嵯峨天皇、母は橘嘉智子です。 823年に叔父である淳和天皇(平城天皇、嵯峨天皇とは異母兄弟にあたる)に入内する。833年に淳和天皇が仁明天皇に譲位するとともに、皇太后となり、第二皇子の恒貞親王が皇太子となっている。しかし、承和の変で皇太子を廃され、影に暗躍した母・嘉智子を恨んだと云う。

    乙牟漏皇后760-790
      ┣ 高志内親王789-809
      ┣ 安殿親王  774-824(51平城天皇)        
和新笠 ┣ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇) 

 ┃   ┃    ┣54仁明810-850 
 ┣山部王(桓武)┃   ┃ ┣文徳827-858 

 ┃ 737-806   ┃   ┃藤原順子809-871

白壁王709-781 ┃   ┣宗康親王
(49代光仁天皇) ┃   ┣光孝 
         ┃   ┣仁康親王

         ┃  藤原沢子-839
         ┣正子内親王  810-879
         ┣秀良親王 817-815 ┣恒世親王805-826
         ┣秀子内親王810-850 ┣恒貞親王825-884(仁明天皇皇太子)
         ┣俊子内親王810-826 53淳和天皇
橘奈良麻呂┓   ┣繁子内親王810-852
    橘清友 ┣芳子内親王810-839
      ┣橘嘉智子786-850
        ┣橘安万子-823  
    田口氏  
     
                  
 正子内親王の陵墓参考地は京都府京都市右京区の嵯峨大覚寺門前にありますが、正面は住宅に、裏は嵯峨高校に塞がれ立ち入ることが出来ませんでした。 大覚寺は平安時代、嵯峨天皇の離宮だったところを、嵯峨天皇の皇女正子内親王の発願により寺院となり、鎌倉時代は嵯峨御所と呼ばれ、、後嵯峨・亀山・後宇多上皇がここで院政をとっていました。 後の南北朝時代には南朝の御所となり、南北朝統一の講和会議が1392年に開かれています。  重文・宸殿は宮中より後水尾天皇が移築した寝殿造りで、牡丹の間の絢爛豪華な襖絵は、狩野山楽によるもので桃山時代の代表作である。また、疫病を鎮めるために嵯峨天皇自ら般若心経を一巻写経し、弘法大師が祈願したことから、「心経の本山、写経の道場」といわれ、今日も写経奉納料1000円で行われている。国の名勝地に指定されている大沢の池の畔には、茶室望雲亭や心経宝塔などがあり、日本最古の庭苑池である。  4月14日~16日には嵯峨天皇の御宝前に献花する華道嵯峨御流最大の行事、華道祭が行われ、11月の嵯峨菊展や仲秋の観月祭などたくさんの行事が行われます。 正子内親王の陵墓参考地の近くには恒貞親王入道塚陵墓参考地もあるということでしたが、残念ながら見つけることが出来ず・・・。 時を改めて再び探してみようと思っています。

コメント

湯築城跡と高縄城跡

2007年06月29日 | 平安時代
湯築城跡
 
 中世の伊予国守護河野氏の居城、湯築城の跡は道後公園にあります。 現在では城跡、濠、屋敷等々が整備され観光客が訪れやすいように、ボランティアの方々による解説なども行われていました。  ここは、南北朝期から戦国期まで、250年以上にわたって伊予国の政治・軍事・文化の中心でした。  現在の道後公園全体が湯築城跡であり、中央に丘陵があり、周囲に二重の堀と土塁を巡らせた平山城です。 築城当初は丘陵部を利用した山城でしたが、16世紀前半に外堀と外堀土塁を築き現在の形態になったものと推定されます。  河野氏は、風早郡河野郷(北条市)を本拠として勢力を伸ばした一族で、源平合戦(1180~1185年)では、河野通信が源氏方として功績を挙げると、鎌倉幕府の有力御家人となり、伊予国の統率権を得ます。  承久の乱(1221年)では朝廷側についたために没落するものの、元寇(1281年)で通有が活躍し、確固たる地位を築きます。 南北朝期、通盛の頃には本拠地を河野郷から道後の湯築城へと移します。 その後、足利将軍家と結びつき、近隣の大内氏、大友氏、毛利氏などと同盟を保ちつつ伊予支配を維持します。 庶子家との争いも克服し、通直は湯築城の外堀を築き(1535年頃)、娘婿の海賊衆村上(来島)通康との関係を強化しました。最後の当主通直(牛福丸)は、全国統一を目指す豊臣秀吉の四国攻めにより小早川隆景に開城し(1585年)、河野氏の伊予支配に終止符が打たれす。
 
河野通信の孫・通盛が高縄城から湯築城に拠点を移した。(撮影:クロウ)
 
 
 
 
 
 
高縄城跡
 
 高縄寺は、伊予の海を見渡す高縄山の山頂にあり、標高986メートルの山頂からは遠く瀬戸内海を一望することができますが生憎訪れたときには雨足が激しく、そそくさと高縄寺の隣にある高縄茶屋に入ってぜんざいで休憩をとりました。  高縄寺は、河野氏の祈願所、菩提寺として建立された寺で、河野氏が湯築城に移るまでは、高縄城があったところでもあります。  河野氏の祖は、伊予の越智氏とされ、饒速日命から出て越智国造となった小致命の子孫とされています。 藤原純友の乱の時には、純友討伐軍に加わり、その功あって越智郡の押領使となり、武士団として成長することになります。 越智氏が伊予地方における初期の土着勢力であったのに対して、河野氏は北条高縄地方にその発祥のルーツがあります。 河野氏が急成長することになるのは、頼朝による平家討伐に源氏軍として参加してからです。 義経の壇ノ浦合戦での勝敗を決定する要因になったのが義経の軍として壇ノ浦で活躍した河野氏配下の河野水軍です。 来島海峡など瀬戸内海有数の瀬戸での船の扱いに長けた河野水軍は、壇ノ浦での潮の流れをうまく活用し功績を挙げることとなります。 こうして北条地方を根拠にして、河野氏は伊予の豪族として発展していきますが、承久の乱では宮方についたため、一族は没落離散する悲運に見舞われます。 この一族悲運に出会い、一族の菩提を弔うために全国を行脚した人物こそ、鎌倉時代の新しい宗派を作り出した一遍上人そのひとで、河野通信の孫にあたります。 鎌倉幕府から足利幕府へとかけて、再び動乱の中に巻き込まれた河野通盛(通信の孫)は終始宮方と戦い、この頃に河野氏の本拠地を高縄城から平地の湯築城に移したと見られます。  湯築城に移った河野氏を待ち受けていたのは、戦国時代末期に四国統一を果たした土佐の長曽我部元親の攻撃と秀吉による四国征伐軍でした。 1585年豊臣秀吉による四国上陸作戦が敢行されると、伊予方面から小早川隆景の軍が上陸。ときの河野氏の当主は河野通直、22歳。毛利元就の厳島合戦に支援したことから河野氏と毛利氏とは深い関係になり、小早川隆景とは親戚関係に当たっていました。隆景は通直に書面で降伏を勧め、通直は家臣との合議の上即刻開城します。 小早川隆景は伊予平定の功として伊予国35万国を、安国寺恵瓊は和気郡の2万3千石を秀吉より宛がわれます。河野通直は、隆景がそのまま湯築城に留まったため、湯築城に留まりますが、隆景が筑前に配置換えになると、河野氏の行く末を心配した毛利氏は、河野通直を小早川氏と縁が深い竹原に移します。かくして河野通直は譜代の家臣50余名を引き連れて竹原に移り住みます。 竹原市にある長生寺は、河野通直が竹原に移り住んで2年後に死亡したため、その菩提を弔うために小早川隆景が建てたものです。
 
河野通信の父・通清は高縄城にて平家方の総攻撃に敗れる
 
 
 
 
 
 
コメント

源氏物語モニュメント

2007年06月02日 | 平安時代

源氏物語モニュメント

 久しぶりに宇治橋に来ました。去年源氏物語ミュージアムを訪れて以来で、そのときには宇治十帖に因んだモニュメントを巡る時間がなかったため、今回辿ってみました。この場所は宇治橋から川沿いに少しはいったところで道標のとおりです。

 

宇治十帖モニュメントと朝霧橋

 

朝霧橋と五重塔

 「八の宮」とは、桐壷帝の第八皇子で、光源氏の父である桐壷帝の皇子でありながら、不遇な人生を送っていた宇治での十帖物語が綴られており、「宇治十帖」とも呼ばれています。二人の娘「大君(おおいぎみ)」「中の君」と、その異母妹「浮舟」に、「匂宮」「薫」とが、複雑にからんで多彩な関係を展開します。

源氏物語 橋姫の巻

 八の宮の留守中に訪れた薫は、有明けの月光の下で、姫君たちが琴と琵琶を合奏する姿を見て、その美しさに心惹かれます。そして、「大君」に思慕の情を抱きます。 その後、弁という老女房が、柏木の遺言を薫に伝えたいといいます。薫はかねがね胸にわだかまっていた、わが出生の秘事を感じます。 帰京した薫から、八の宮の姫君たちの話しを聞いた匂宮は、持ち前の好色心を騒がします。十月、薫は再び宇治を訪れました。喜び迎えた八の宮は、薫に姫君たちの後見を依頼します。その明け方、弁という女房から、自分の出生の秘密を聞かされ、柏木の遺書を手渡されます。亡き実父柏木の遺書を見、母女三の宮の何心ない姿に、薫は苦悩するのです。

源氏物語 椎本の巻

 

 匂宮は、薫が八の宮を訪れ、宇治の姫君たちと過ごした話を聞くと、心躍るのを感じるのでした。匂宮は以前に願をかけたことのある長谷観音に参詣し、その帰途、宇治の八の宮邸の対岸にある、夕霧の別荘に中宿りします。八の宮の姫君たちとの出会いを期待するのです。 八の宮は、このところ健康がすぐれず、死期の近いことを知り、姫君たちの行く末を案じておりました。一方薫は、出生の秘密を知ってからというもの、はかなく亡くなった実の父の罪ほろぼしのためにもと、出家の意を強くしています。 7月、久しぶりに宇治を訪れますと、待ち構えた八の宮は、姫君たちの行末を薫に託します。 死期を感じた八の宮は、姫君たちに、なまじ宇治の地を捨て京に出て、親の面目をつぶすような結婚などしてはならぬと戒めます。 薫は姫君のことを託されますが、その真意が気がかりです。八の宮は、そのまま山寺にこもり、8月20日ごろ帰らぬ人となります。 年末のある雪の日、宇治を訪れた薫は、胸中をそれとなく大君に訴えますが、取り合わない大君に、薫はかえって心ひかれていきます。 一方匂宮は、周囲から夕霧の娘六の宮との縁談を勧められますが関心を示さず、宇治の姫君への思いを燃やし、薫に姫君との間を取り持つようにと頼むのです。 

源氏物語 総角の巻

 

 八月、八の宮の一周忌も近いころ、薫は宇治を訪れて大君に意中を訴えますが、大君は父宮の遺言を守り独身を通す意思が強くなびきません。亡き父宮も信頼を寄せ、人柄も身分も申し分ない薫だけに、大君の内心は揺れ動くのですが、姉として我が身はさておき、妹の中の君を薫と結婚させようと考えていました。 薫は再び宇治を訪れました。女房たちは、薫が大君に惹かれていることを知り、「大君と薫」「中の君と匂宮」の縁を望みます。ある夜、女房の弁は、薫を大君のもとへ導きます。気配を察した大君は、中の君を残して、ひとり逃れ、薫はむなしい思いで中の君と語り明かすのでした。 薫は、大君の心中を察し、中の君を匂宮と結婚させ、幸せになるのを見れば、自分になびく、と考えます。薫は、匂宮を宇治に導き、彼女のもとに忍ばせ、匂宮は、長い間の望みを遂げます。しかし、かえって大君の態度を硬化させることとなってしまいます。大君は、こうなった以上匂宮と中の君の結婚を正式なものとすべく、匂宮を迎える準備をします。 しかし、匂宮は今上帝の第三皇子。父帝や母中宮の目は厳しく、中の君のもとへの通い足は遠のきがちとなります。十月、匂宮は紅葉狩りを口実に宇治を訪れますが、母中宮が差し向けた御伴の人にかこまれ、中の君の邸を目の前にしても会うができません。中の君や大君には、それが誠意のない薄情と映るのは無理のないことでした。二人の落胆は大きく、大君は病に臥す身となってしまいます。 薫は、大君の病を聞き宇治を見舞いますが、その折り、大君は匂宮と夕霧の娘(六の宮)との縁談が進んでいるとの話しを聞き、絶望します。父宮の遺言に背いた自分を責めつつ、病勢もいちだんとつのっていきます。宇治を見舞った薫は、そのまま宇治に滞留して大君の看病にあたりますが、もう彼女の命を引き止めることはできず、薫に、大君は中の君の行末を託し、物の枯れるように息絶えました。 薫はそのまま喪にこもって49日の間大君を偲びます。匂宮は、雪の中宇治を訪れますが、中の君は逢おうとはしません。年の暮れ、匂宮は中の君を京の二条院に引取ろうと決意します。一方薫も、中の君の後見として世話をしようと決心します。それは亡き八の宮との約束であり、大君の遺言でもあるのです。

源氏物語 早蕨の巻

 

 大君の死で悲嘆にくれていた宇治の山里にも春が訪れ、山寺の僧から中の君のもとに、初蕨が届けられ、それを匂宮からの便りよりもうれしく受け取ります。大君の喪もあけた二月初旬、中の君は、京の二条院の匂宮邸へひきとられることになりました。 薫は、中の君の後見役として細かな心配りをしますが、中の君を匂宮に譲ったことに後悔の念を抱きます。大君を失った悲しさに身の置き所もない薫は、匂宮と中の君との幸せを願ってはいるものの、しだいに中の君に心が傾き、未練がましい思慕の情を断ち切れないのです。 中の君は、京へ上ることで浮き立つ女房たちをよそに、出家して宇治に残る女房の弁と別れを惜しみ、不安を抱きつつ上京します。京の二条院に移った中の君に、匂宮はこまやかな愛情をしめしますが、一方で匂宮と六の君との結婚が、この月に予定されているのです。 薫と大君、匂宮と中の君、の四角関係は、大君の死によって崩壊し、中の君をめぐっての危険な三角関係に陥ろうとしています。そして、そこから物語はまた新たな局面を迎えます。

 このモニュメントは「さわらびの道」にありますが、源氏物語の翻訳で有名な与謝野晶子の碑もここにありました。

 

 

源氏物語 宿木の巻

 

 今上帝は、最愛の娘「女二の宮」の将来を、薫にと考えていました。しかし薫は気がすすみません。 一方夕霧は、娘の六の君の婿を匂宮に決め、中宮の口添えもあり、匂宮は承知します。中の君の嘆きは深く、今更ながら父の意に反して京に出てきたことを悔やみ、姉君の宇治での生き方を思うのでした。 そのころ、中の君は、すでに懐妊していたのです。いまだに大君を慕う薫は、中の君を見舞い、彼女に大君の面影を感じ、心惹かれます。しぶしぶ夕霧の婿となった匂宮ですが、六の君とあってみるとまんざらでもありません。中の君を忘れないものの、しだいに夜離れを重ねるようになり、中の君の嘆きは日に日に深まるばかりです。 思い余った中の君は、薫に手紙を出し、宇治へ連れていって欲しいと頼みます。中の君と会って話しをしているうちに、つのる思いを抑えかね、その袖をとらえて我が心を訴えるのでした。 帰ってきた匂宮は、中の君の衣に薫の芳香が移っていることをあやしみ、責めますが、彼女はなにもなかったように、匂宮をもてなします。薫は、大君の供養に宇治の邸をなおし、そこに大君の人形(ひとかた)を作りたいと、中の君に願いでます。薫の恋慕に悩むようになっていた中の君は、彼の接近を避けるべく、異母妹に亡き大君によく似た人がいると、「浮舟」の存在を告げます。早速薫は宇治に出向き、弁の尼に浮舟への仲介をたのみます。 翌年二月、中の君が男児を出産、彼女は匂宮の妻として、だれからも重んじられるようになります。同じ頃、女二の宮と結婚した薫は、帝の婿として世人からねたみを買うほど羨望されますが、当の本人の胸中は憂うつです。大君を思うその心は、宇治の邸の造営にばかりに熱心なのです。その後宇治におもむいた薫は、偶然初瀬詣でからの帰りの浮舟を垣間見ます。それは、彼が探し求めていた、大君の面影を宿す、形代(身代わり)そのものでした。

コメント

源氏物語モニュメント

2007年06月02日 | 平安時代

源氏物語 東屋の巻

 

 薫は浮舟に大君の面影を見ます。彼女は、「八の宮」の娘であり、大君・中の君(26歳)とは異母妹の関係にありますが、八の宮は、宮家の名誉を考えてか彼女を認知しませんでした。八の宮邸を追われた浮舟(21歳)は、母とともに地方暮らしをしていました。 薫(26歳)は、弁を通じて浮舟の母「中将の君」に意向を伝えますが、あまりの身分のちがいに躊躇います。中将の君は、娘の浮舟を連れて「常陸の介」と再婚していますが、娘には八の宮との不幸な自らの轍をふませたくないと、結局身分相応の左近少将を婿に選びます。 浮舟の継父常陸の介は、莫大な財産家ですが、教養の低さは、貴族的な感覚を持つ中将の君とは不釣合いでした。その財力を目当てにした求婚者も多く、その中でとくに熱心だった左近少将を身分相応と考え婿にえらんだのです。 しかし、結婚の日も迫ってから、左近少将は、浮舟が常陸の介の実子でないと知り、財力のある常陸の介の実子の婿になりたいと、浮舟の妹にあたる常陸の介の実の娘に急遽乗り換えてしまいます。中将の君は、常陸の介との間に幾人かの子をなしていましたが、浮舟を溺愛しています。浮舟のこの不運を嘆く母は、彼女を異母妹の中の君のもとに預けることにしました。 中の君(24歳)の邸で、匂宮の優雅な容姿を見た中将の君は、その立派さに感動し、さらに匂宮が出掛けたあとやってきた薫を見て、その容姿の見事さに目が釘づけにされてしまいます。中将の君が、中の君に浮舟の世話を頼んで帰ったあと、匂宮が浮舟を見出して中の君の異母妹とも知らずに強引に言い寄りますが、急に京からお呼びがかかって帰ることになり、その場は事無きをえます。しかし事情を聞いてあわてた中将の君は、浮舟を引取って三条の小家に移してしまいます。 秋も深くなり、御堂も出来上がったので、薫は宇治を訪れます。そして、浮舟への思いをかきたてられ、弁に仲立ちをたのみ、雨の夜自ら三条の隠れ家を訪れ、まだ明けきらぬ翌朝、浮舟を牛車に乗せて宇治に連れ出します。薫が浮舟を宇治に連れ出しながらも、心は、亡き大君へのやり場のない想いがたえず漂い、それを悲しくかみしめるのでした。

源氏物語 浮舟(うきふね)の巻

 匂宮は、中の君の邸での浮舟が忘れられません。再三中の君を責めますが、中の君は口を閉ざします。年が明け、中の君のもとに届いた浮舟の文から、宇治にいることを知ります。早速匂宮は、薫を装い宇治を訪れます。浮舟の女房右近は、夜更けに戸をたたく匂宮を、薫と信じ浮舟の寝所に導き入れます。人違いと気づいたときは、時すでに遅く、驚くよりほかない浮舟でしたが、薫にはないはげしい愛に、罪の意識も失って次第に匂宮に惹かれていくようになります。 正月の宮中行事を終えて、宇治を訪れた薫は、何か物思わしげな浮舟の様子に、いたわしさを感じ、いずれ京に迎えようと約束します。浮舟は、薫に寄り添いながらも、匂宮を恋う我が心に、ただ煩悶するばかりです。 二月、宮中の詩宴の夜、薫が「衣かたしき今宵もや 我を待つらむ 宇治の橋姫」と口ずさむのを聞いた匂宮は、胸を騒がせ宇治を訪れ、有明けの月の中、浮舟を対岸の小家に連れ、夢のような二日間を過ごします。 その後も浮舟のもとには、匂宮と薫の双方から文が届けられ、浮舟の心を揺らします。薫が京に浮舟を迎えようとしていることを知った匂宮も、京に浮舟を移すべく準備を始めます。そして二人は宇治に使いを送ります。薫が送った使者が、匂宮の使者に気づき、怪しんで後をつけたことから、やがて匂宮と浮舟との関係が薫の知るところとなります。薫は、配下に宇治の邸の警護をきびしくするように命じ、訪れた匂宮もむなしく帰京します。 薫からは不倫をとがめる手紙が届き、所詮許されるはずもないわが振舞いに、身の破滅を思う浮舟でした。宇治川の荒々しい流れの音を聞きながら、世の物笑いになるよりはと、ついには死を決意します。母中将の君は、不吉な夢を見て浮舟の身を案じ、使者を派遣してきました。浮舟は、そうした母の思いやりに涙しながらも、入水は今宵、と思い定めます。

源氏物語 蜻蛉の巻

 

 一夜明けて、浮舟の失踪に宇治の邸は動揺するばかりです。書き置きから、入水を知った女房の右近は、匂宮との秘事が漏れないかと、そればかり心配します。不吉な予感から、母中将の君からも、匂宮からも使いがきます。そして、かけつけて泣きまどう中将の君に右近は事実を打ち明け、今はせめて世間体だけでも取り繕うべきと、薫の配下の反対を押し切って、亡骸のないまま、あわてて葬儀を済ませてしまいます。 そのころ薫は、母女三の宮の病見舞いのため石山寺にいて、遅れて事態を知り、浮舟を放置したことを反省しながら、軽率な葬儀をたしなめる使いをよこします。 一方匂宮は、悲嘆のあまり病に臥してしまいます。匂宮を見舞った薫は、表面世間話のように浮舟の話しをしますが、互いに相手の気持ちを探りあいます。
 やがて匂宮は、宇治から侍従を呼んで悲しみを紛らわし、薫は宇治を訪れ、浮舟入水の真相を聞きます。 浮舟の四十九日。薫はこの供養を葬儀とはうってかわって盛大に行いました。母中将の君をねんごろに見舞い、弟たちの世話をします。帝も明石の中宮も、薫の秘めた恋をいとおしく思います。 蓮の花の盛りのころ、明石の中宮は、今は亡き源氏と紫の上のために、御華八講を催しますが、そこで薫は、女一の宮を垣間見て、その美しさに動かされます。女一の宮は、明石の中宮と今上帝の娘で、薫の正妻、女二の宮とは異母姉にあたります。薫の心のうちには、昔から女一の宮への憧れがひそんでいたのです。 妻の女二の宮に、女一の宮と同じ装いをさせたりもしますが、心は晴れず、しきりに中宮や女一の宮の身辺に出入りします。八の宮の姫君たちを次々と失わねばならぬ己が宿世、物思いの果ては、また大君へそしてその形代を求めて、中の君へ、浮舟へと、宇治の姫君たちのうえをさまようことになります。「 ありとみて 手にはとられず みればまた ゆくえも知れず 消えしかげろう 」 

源氏物語 手習の巻

 

 浮舟は亡くなってはいませんでした。比叡山・横川に、徳の高い僧都が住んでおり、その母が妹の尼と初瀬詣でをした帰途、宇治のあたりで病のため動けなくなり、山ごもりしていた僧都に宇治院にて助けられます。たまたまその宇治院の裏手で、正気もなく泣いている若い女を、供の法師が発見します。  狐がばけたものかも知れないと、法師たちは恐れますが、妹尼は娘を亡くした身、娘の身代わりとして長谷観音から授かったものと、手厚く看護して小野の里に連れ帰ります。この女こそ、宇治で失踪した浮舟です。 二ヶ月ほどたった夏の終わりごろ、僧都が下山し加持をしてようやく意識を取り戻します。おぼろげな記憶をたどって、自分が死にそこなったことを知った浮舟は、こうして見知らぬところに生きている悲しさ、恥ずかしさから、せめて出家をと、尼に頼みます。妹尼は、亡き娘の身代わりと思って心をつくして思い止めようとしますが、浮舟は泣くばかりで、いっさい語ろうとしません。 秋になって、尼君たちは月をめでて琴をひいたり、歌を詠みあったりしていますが、浮舟はそれに加わろうとせず、憂いさをひとり歌に託して手習いをしています。そんな浮舟の心にも、時の経過とともに少しずつ落ち着きが戻ります。 ある日、妹尼の亡娘の婿の中将が小野に立ち寄りました。浮舟を垣間見て心を動かし、熱心に求愛します。尼君たちもこの縁の実ることを願いますが、浮舟は全く耳をかそうとしません。そして、出家だけを願う気持ちから、現世的なかかわりを一切拒み続けます。その後、尼の留守中訪れた中将にも母尼の部屋に隠れ、これまでの数奇な半生に思いをめぐらします。 父八の宮の顔も知らず、母と共に地方の国をさすらい、やっと会えた妹中の君とも離れ、薫に京へ迎えられるはずになっていたのに、あさましくも匂宮と間違いを犯し、こうして定めなき身になるとは。一体どうしてこういうことになってしまったのか。浮舟の心は、出家への思いが一層強まっていきます。 翌日、女一の宮の病の祈祷に下山した僧都が、この邸に立ち寄ります。浮舟は、絶好のチャンスとばかり、僧都に懇願して自ら鋏をとって剃髪し、涙にむせびながら出家をはたします。出家してからの浮舟は、心の余裕も生じてむしろ晴れ晴れと仏道にいそしんでいます。 上京した僧都は、明石の中宮の御前で、世間話のついでに、宇治院で出家した女のことを話題にします。浮舟の一周忌も終わり、中宮の御所に参上した薫は、そこで僧都の話しを聞き、浮舟が生きていることを知ります。薫は驚きながらも、匂宮の心をはかりかねてためらいますが、ともかく、僧都にあってみようと、浮舟の弟の小君を連れて、横川へ上っていきました。

源氏物語 夢浮橋の巻

 薫は、横川に僧都を訪れます。右大将の突然の来訪に驚き、恐縮している僧都から、事のすべて聞きます。あまりの意外な話しに唖然として涙ぐむ薫の様子に、僧都は浮舟を出家させたことを後悔し、自分が過ちを犯したような気にさえなるのでした。
 薫は僧都に、一緒に山を下りて小野に行き、浮舟との仲介をしてほしいと頼みますが、今は尼となった浮舟の心を悩ますことは僧として出来ないと、後日を約して薫の供をしてきた浮舟の弟小君に、浮舟あての手紙をことずけます。薫は、人目をはばかってそのまま小野を過ぎ、京へ帰っていき、翌日小君を小野に遣わします。 僧都からの手紙には、薫の愛執の罪が消えるようにしてさしあげなさい、とあります。浮舟は、自分の過去がすべて僧都に知られてしまったことを知ります。訪れたなつかしい弟の姿に、母中将の君の姿を思い起こし、薫の文は昔のままに移り香にしみていました。 浮舟は、涙にむせびながらも、すべては人違いと、小君にも対面しようとせず、薫の手紙も受け取りません。妹尼は、懸命に小君と浮舟との間をとりなしますが、浮舟の硬い拒絶に不信を抱きながらも小君は空しく帰るよりほかありません。
 空しく帰京した小君から話しを聞いた薫は、浮舟の心をはかりかね、あらぬ疑いをもちます。もしかすると、だれかが彼女を隠し住まわせているのかも知れない・・・と。
 自ら決意した一筋の道を、孤独に堪えて一人懸命に生きていこうとする浮舟の心は、今の薫には無縁なものになってしまったのでしょうか。それとも、誰にも図ることのできない人生への、また薫への惜愛の念が浮舟の心を硬く閉ざしてしまったのでしょうか。 都の秋も暮れ、浮舟の心を写し出すかのように宇治の東宮も六条院も冬の到来を迎えるのでした。 

コメント

藤原道長展

2007年05月30日 | 平安時代

金峯山埋経千年記念・藤原道長展

「極めた栄華・願った浄土」

 2007/5/26に宇治と京都国立博物館へいってきました。目的は藤原道長を感じるためです。 メインは京都国立博物館で開催されている「道長展」と「土曜講座」です。 実は先週の19日に「この世をば」で有名な永井路子さんの土曜講座にいきたかったのですが、応募葉書を出し忘れて(悔やみきれない失敗です)いけなかったために、大原嘉豊さん(博物館の研究員)の講座を聞きにいったのでした。 講義内容は「道長の時代の仏画」です。 かなり難解な内容であったので内容紹介は省略させていただきますが、興味深い講座であったことは確かです。 道長三昧をするには、まずはお墓に・・・ということで、午前中は宇治陵へ! 宇治陵の詳細は前回の紹介ブログを参照いただくとして、道長のものといわれている32号墳墓へいきたかったのですが、発見できず、全部で37基まであるうちの13基を巡り、当時を実感したあとに、京都国立博物館へいったのです。 博物館は三十三間堂の隣にあって、昔平清盛、滋子等が住まいとしていたあたりに位置します。 

 

 タイトルにもあるように今年は藤原道長が吉野の金峯山に詣で、諸処の経筒を埋めて約千年目にあたり、今回の特別展になったらしく出品されている数々の遺品も金峯山から出土されたものが数多くありました。 ↓奈良・吉野の金峯山寺

 

 博物館では「永井路子さんの女帝の歴史を裏返す」(思わず買ってしまいましたが・・)などの歴史本が数多くありましたが、一際目を引いたのはこれです。 道長の全てが記載された300余ページに及ぶ記念本です。

 歴史、系図、仏教絵画、金峯山での出土品など盛りだくさんですが、ここではかの有名な日記を紹介します。 まずは、道長の「御堂関白記」です。 長保二年二月二十五日彰子が立后した日のものと寛弘五年九月十一日中宮彰子が一条天皇との間に敦成親王を出産した日のものです。 因みにこの御堂関白記は国宝です。 見ての通り、細かいことは余り気にせず自由奔放に書いています。誤字・脱字が多かったと聞いていますが、ほんとうにそんな感じで後から文章の挿入も気にせず行っています。血液型はB型と思われます。(謎) 

 

 次は藤原実資の「小右記」 (重要文化財)です。 道長よりも9歳年上で才能の溢れた実資であったが、藤原氏の主流になれずに最後まで道長を意識した御方です。 道長の日記とは違って、見るからにその性格が滲み出ています。 文字の構成からして道長のような乱れは全くありません。 

 

 そして以下のは藤原行成の「権記」 (国宝)です。藤原公任・斉信・俊賢とともに寛弘の四納言といわれ道長の右腕として政治の辣腕ぶりを発揮しましたが、書の道でも傑出した才能を見せており、小野道風、藤原佐理とともに三蹟といわれた書道の達人でもあります。 実物を前にしてしばらく見とれておりました。

 これは東三条院(円融天皇・妃 藤原詮子 : 道長の姉であり、道長に最大の運気をもたらした)が石山寺に御幸した際に、中宮太夫であった道長が直衣姿でお供をする様子を描いたものです。 もちろん牛車(檳榔毛唐庇車)には詮子がのっています。 道長の拡大版と葵祭での檳榔毛唐庇車(少し違うかも)。

 

コメント

菟道稚郎子皇子

2007年05月26日 | 平安時代

菟道稚郎子皇子墓(宇治墓)

京都・宇治橋のすぐ北にある宇治天皇の陵 (撮影:クロウ)

 

 

 

                                                                                    春日大娘皇女
           宮主宅媛                  ┣橘仲皇女 
葛城高額媛       ┣雌鳥皇女    荑媛(葛城蟻臣娘)    ┣白香皇女 
 ┣神功皇后170-269   ┣菟道稚郎子皇子   ┣ 飯豊青皇女440-484┣武列天皇 
息長宿禰王┃      ┣矢田皇女      ┣ 億計王(24代仁賢天皇)449-498 
       ┣ 15代応神天皇-394(誉田別尊) 黒媛 ┣ 弘計王(23代顕宗天皇)450-487
1414代仲哀天皇┣ 荒田皇女         ┣ 市辺押磐皇子-456
 ┣ 坂皇子  ┣ 16代仁徳天皇257-399    ┣ 御馬皇子
 ┃      ┣ 根鳥皇女┃       ┃
 
 ┣ 忍熊皇子┏仲姫命   ┣ 17代履中天皇319-405(阿智使主、平群、物部が舎人)
 
大中姫     ┣高城入媛   ┣ 住吉仲皇子(安曇連、倭直の海人族が舎人)
 品陀真若王┛┣大山守   ┣ 18代反正天皇336-410
  
         応神天皇   ┣ 19代允恭天皇  -453
  
         ┏━   磐之媛命   ┣ 木梨軽皇子━━━━━━━━━━┓
 
 
          ┃ 仁徳天皇      ┃長田大郎女                     ┃
 
 
         ┃   ┃        ┏ ┃┻眉輪王┣                     ┃ 
   
         ┃   ┣ 大草香皇子┣ 20代安康天皇(穴穂皇子)401-456 ┃
 
          ┃   ┣ 若日下部命┣ 軽大娘皇女━━━━━━━━━━┛
         ┃  日向髪長媛 ┃ ┣ 境黒彦皇子   和珥童女君

甘美内宿禰   ┃       ┗ ┃━┓       ┣ 春日大娘皇女
武内宿禰
   ┣ 葛城葦田宿禰   ┣ 21代雄略天皇418-479
  ┣葛城襲津彦-347┃      ┃ ┣ 磐城皇子  ┃
  ┣巨勢小柄宿禰 ┃      ┃ ┣ 星川稚宮皇子┃
 ┣蘇我石川宿禰 
┣葛城玉田宿禰┃ 吉備稚媛      ┣ 22代清寧天皇444-484
 ┣平群木菟宿禰  ┃ ┣葛城円 ┣ 八釣白彦皇子  ┣ 稚足姫皇女
 ┣紀角宿禰      ┃ ┗毛媛  ┃        ┣葛城韓姫
 ┣羽田矢代宿禰
  ┣黒媛    ┣ 坂合黒彦皇子 葛城円  
            ┣葛城蟻臣  ┏忍坂大中姫      
                   ┣荑媛  ┗衣通姫(そとおりひめ

 菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は、記紀に伝えられる古墳時代の皇族で、『播磨国風土記』では宇治天皇とも云われています。 応神天皇の皇子で、母は和珥臣祖の日触使主(ひふれのおみ)の女 ・宮主宅媛である。 同母妹には八田皇女・雌鳥皇女がいる。 父・応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたが、異母兄の大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる皇子です。  皇太子となった翌年に天皇が崩じたが、太子は大鷦鷯尊に皇位を譲ろうとして即位せず、両者互いに譲り合っっていました。 一方、応神天皇と妃・高城入媛(仲姫命の姉にあたる)との間に生まれた大山守皇子(仁徳天皇とは異母兄弟にあたる)は、 自らが太子に立てなかったことを恨み、太子を殺そうと挙兵するのであるが、大鷦鷯尊により察知され、太子の謀略に遭って殺されます。 この後、太子は菟道宮(京都府宇治市の宇治上神社が伝承地)に住まい、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年、永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ太子は決着をつけるべく自ら果てることになります。 尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、太子は蘇生し、妹の矢田皇女を献ずる旨の遺言をして、再び薨じたといいます。  同墓は現在、宇治市莵道丸山の丸山古墳(前方後円墳・全長約80m)に比定されています。

「菟道」は宇治市の地名で、一般には「とどう」と読み、稚郎子が住んだ菟道宮は、今の宇治神社のところといい、上社も共に応神、 仁徳、稚郎子を祭神としています。 近くには源氏物語ミュージアムがあり、自然歩道のコースにもなっています。

稚郎子皇子が住んだ菟道宮があったといわれる宇治上神社(撮影:クロウ)

 

                                  宇治橋の近くにある稚郎子皇子の墓石碑    

 

コメント

源氏物語ゆかりの明石市

2007年05月21日 | 平安時代
 明石には源氏物語にゆかりのある善楽寺、朝顔光明寺などがあります。 JR明石駅から南西へ徒歩でもすぐのところにあり、明石の「たこ焼き 20個で800円」を食べた後、「魚の棚」 という新鮮な魚介類でいっぱいの市場を闊歩しながら、源氏物語に触れるというコースはお勧めです。 ちなみに明石の南には港がありますが、ここからは明石海峡大橋も望むことが出来てすばらしい眺めを堪能できることと思います。 写真は五色塚古墳から見た明石海峡大橋 (撮影:クロウ)
 
 

源氏物語 須磨・明石の巻

 政治的にもどんどん窮地に追い込まれ、落ち込んでいた源氏は、ふと、かって一度関係があった、亡き桐壷院の女御の一人麗景殿女御の妹(花散里:年齢不詳)のことを思い出します。いつもの性格から、五月雨の晴れ間に会いにでかけました。麗景殿女御や花散里と、昔話しに花を咲かせ、桐壷院を懐かしみ、心和むひとときをすごします。その後、源氏はその一生でもっともわびしかった須磨での生活を始めることになります。  源氏26才。事態はますます険悪となり、自主的に須磨への退去を決意します。紫の上を、ひとり京に残し、花散里、朧月夜らに別れを告げ都を去ります。  須磨の住居は、在原行平の伝説で名高いあたりで、風流ところではありますが、秋がきて須磨のわび住まいはあわれもひとしおで、源氏は琴をひき、絵を描き、和歌を詠みすごします。都では、月日がたつにつれ、帝をはじめ人々が源氏を惜しみ懐かしく思い出しますが、弘徽殿大后の意向をはばかって都からの便りも途絶え、須磨の冬がやるせなく過ぎていきます。

 一方、源氏の血続きでもある、明石入道(桐壷更衣の従兄弟)が、源氏の噂を聞き、最愛の娘を源氏に奉りたいと願っています。ある日、源氏は海辺で開運の祓えをさせていました。海辺はうららかに一面凪いで、源氏は過去のこと将来のことなどを次々に思い出していました。不思議なことに、にわかに空がまっくらとなり、風雨は一晩中吹き荒れ、明け方源氏は、怪しい夢におびやかされます。何やら気味わるく、急にこの地を去りたいと思い始めます。 二条院(都の源氏の邸)からの知らせで、京都でも暴風雨が吹き荒れ、奇怪な何かのお告げだとして、政(まつりごと)も途切れている・・とのこと。源氏が、ふとまどろんだ夢に、故桐壷院が現れ、住吉の神のお導きに従って、早くこの地を去れという。翌朝明石の入道の一行が住吉の神のお告げと称して、源氏を迎えにきます。

明石入道の浜辺の館とされている「善楽寺」      善楽寺にある「明石入道の碑」

 

 源氏(27歳)は、昨夜の夢の桐壷院のお告げを思いだし、入道の申し出を受けて明石に移ることにします。 明石入道の住まいは、須磨にくらべ人けも多く、都の住まいにも劣らない凝ったたたずまいでした。藤壷宮や紫の上に、明石に移った一部始終を知らせ、ようやく身も落ち着きを取り戻します。明石入道は、源氏を厚遇し、しきりに自分の娘(明石の君 17歳)のことを話します。源氏も入道の人柄と、その娘にだんだん興味をもち始めます。ある夜、源氏がひさしぶりに琴を弾いていると、入道も自ら琴を弾き、娘も琴が上手だと、娘の話しをします。源氏はそれを聞いて、自分が都からこの地にやってきたのは、その娘に逢う運命であったのかも知れないと悟り、入道の望みを入れて、その娘に手紙を送ります。しかし、娘はなかなか気位が高く、そうやすやすとはなびきません。それがかえって刺激となり、源氏は次第にこの明石の君にのめりこんでいきます。

光源氏が明石の君のいる「岡辺の館」へ妻問う時に通った道とされる「蔦の細道」


 一方、京都は太政大臣がなくなり、皇太后まで病床に臥すなど、凶事が続き、弱気になった帝は、源氏が無実の罪で逆境にいるその報いではないかと思うようになります。 明石の源氏は、ひとり寝もわびしく、ときどき入道に娘と合わせるようにけしかけます。入道は、こっそりと吉日を見計らって、ひとり勝手に事をはこび、八月十三夜の月明かりの夜、源氏は明石の君と結ばれます。しかし、その後、都にいる紫の上のことを思うと明石の君とも疎遠がちとなり、明石の君は、それを嘆きます。身ごもった18歳の明石の君に、源氏は琴を残して別れを惜しみ、帰京します。帰京した源氏には、華々しい復権と栄華の路が待ち受けていました。 光源氏が「秋風に 波やこすらむ 夜もすがら あかしの浦の 月のあさがほ」と詠んだ「朝顔光明寺」の「月見の池」

 

 須磨での2年と4か月のわびしい生活に終止符がうたれ、源氏や昔の左大臣家の人々に再び明るい春が訪れてきました。「冷泉帝」が即位し、源氏も内大臣となります。その喜びの中で、これまで出会った数々の女君たちのその後が語られます。
朱雀帝は、長からぬ余命を心細く思い、退位を決断します。翌年2月。東宮が元服し、冷泉帝となります。それを機に、朱雀帝は譲位し、源氏は内大臣となり、前左大臣も太政大臣に復帰して、かくて源氏方の人々が政界の主流にすわるようになります。  三月、明石の君に姫君が誕生しました。明石入道は、源氏の配慮をありがたく思い、源氏と別れて物思いに沈んでいた明石の君も、源氏の心配りに慰められていきます。心おだやかでない紫の上ですが、その嫉妬の姿に、源氏はかえって魅力を感じるのでした。 

 藤壷が、我が子冷泉帝の即位により、異例の女院となり、権中納言(もとの頭の中将)の娘が、冷泉帝に入内して弘機殿女御となります。 その秋、源氏が住吉詣でをしたその地で偶然に参詣に来合わせた明石の君は、源氏一行の栄えばえしい盛儀を目の当たりにして、あまりの身分差に、そのまま逢わずに引き返してしまうのです。源氏はこのことを供人から聞いて悲しみ、明石の君を都へ迎えようと文を届けますが、明石の君は決心がつかず、また物思いを重ねる日がつづいてしまいます。 

コメント

円恵法親王が長官を務めた三井寺

2007年05月10日 | 平安時代

園城寺(三井寺)

 大津市の弘文天皇陵へ行ったときに、ここ三井寺に立ち寄りました。天皇陵からはほんのすぐ近くです。 その昔、後白河天皇の皇子である円恵法親王が三井寺の長官を務めたところです。 また保元の乱では惨敗した上皇側の源為義が隠れたところであり、以仁王も行家の裏切りにあって隠れているところでもあります。

 園城寺(三井寺)は天台寺門宗の総本山で、いにしえより日本四箇大寺の一山に数えられています。その昔、天智・弘文・天武三帝の勅願により、弘文帝の皇子・大友与多王が田園城邑を投じて建立され、天武帝より『園城』の勅額を賜り、長等山園城寺と称したのにはじまります。 俗に三井寺と呼ばれているのは、当時天智・天武・持統三帝の御産湯に用いられた霊泉があり、『御井の寺』と呼ばれていたものを、後に開祖智証大師が当時の厳儀・三部灌頂の法水に用いられたことに由来しています。
 長い歴史の上で当寺は再三の兵火にあい焼失したが、豊臣氏や徳川氏の手によって復興し、現在も国宝・重要文化財・名園など貴重な寺宝を数多く伝えています。

 

 

コメント

橋姫伝説と貴船神社

2007年05月07日 | 平安時代

貴船神社と橋姫神社

 宇治の橋姫伝説と言えば、平家物語の剣の巻に登場する物語です。 丑の刻参り・・・。 ある公家の娘が嫉妬のあまり貴船神社へ詣でて鬼になることを願った。そして七日目に貴船の神託があり、姿を変えて宇治川に二十一日間浸かれば鬼と化すという。 そこで女は髪を松脂で固めて五つの角を作り、顔には朱、身体に丹を塗り、頭に鉄輪をかぶってその三本の足に松明をつけ、さらに両端に火をつけた松明を口にくわえて京の南へと走り、宇治川に浸かって生きながら鬼となったという。 その後、橋姫は阿倍晴明によって封じ込められ、源頼光四天王の渡辺綱らによって退治された。そして祀ってくれるならば京を守護すると言って宇治川に身を投げて龍神となったという。

 また、一方で伝説の橋姫は、愛しい人を待ち続けるか弱き女性ともいう。この悲劇のヒロインは「源氏物語第45帖 橋姫」に登場する大君と中の君である。 橋姫は宇治拾帖の初巻で、でてきます。  桐壷帝の第八皇子で、光源氏の父である桐壷帝の皇子でありながら、不遇な人生を送っていた「八の宮」殿を中心に、宇治での物語が綴られており、「宇治十帖」とも呼ばれています。二人の娘「大君(おおいぎみ)」「中の君」と、その異母妹「浮舟」に、「匂宮」「薫」とが、複雑にからんで多彩な関係を展開します。 薫と大君、匂宮と中の君、の四角関係は、大君の死によって崩壊し、中の君をめぐっての危険な三角関係に発展していきます。しかし、薫は亡き大君へのやり場のない想いがたえず漂い、それを悲しくかみしめるのでした。

 ここ貴船神社は京都の鞍馬山のまだ奥に位置しています。 山国地域の常照皇寺からやっと車が1台通れるような山道を走ること1時間、やっと到着した貴船神社は、いかにも清らかな気持ちで望まなければ・・・と、思わせるような雰囲気がただよう秘境にあります。 ところが驚いたことに、すごい人の波です。 というのも叡電鞍馬線というのがあり、京都御所のちかくから、鞍馬まで伸びているのです。 そして鞍馬駅からは貴船神社まで徒歩となりますが、ひんやりしたマイナスイオンを浴びれば苦にならない感じです。 貴船川沿いの山道には多くの旅館が軒を並べ、鴨川の納涼床と同じ床が貴船川に敷き詰められて、ここでの夕食はさぞかし風情をかもしだすことだろうと感じました。

貴船神社

 

 

コメント

醍醐寺の桜

2007年04月20日 | 平安時代

醍醐寺の桜

 朱雀天皇醍醐陵のすぐ南にある醍醐寺は聖宝理源大師が874年に小堂宇を建立して、准胝、如意輪の両観音像を安置したのに始まる。 その後醍醐・朱雀・村上三帝のご信仰がよせられ、907年に醍醐天皇の御願による薬師堂が建立され、上醍醐の伽藍が完成し、下醍醐の地に伽藍の建立が計画され、926年に釈迦堂が建立され、951年に五重塔が落成し、下伽藍が完成した。  醍醐寺はその後、真言宗小野流の中心寺院として重要な地位を占め、権門源俊房の系統(醍醐源氏)の人が座主として幾代も続いた。 そして座主勝覚(俊房の息)の時代に山上・山下共に伽藍がことごとく整備され、1115年に三宝院が建立され醍醐寺発展の基礎が確立されたのである。 その後、応仁の乱で多くの堂を焼失したが、豊臣秀吉の援助により復興することができたといわれており、1598年に秀吉の有名な『醍醐の花見』が催されたのを機に、ほぼ現在の規模になったようです。

京都最古の木造建造物でもある五重塔(951年)

 ということで、初めて醍醐寺を訪れ、醍醐の花見をしてきました。 実は、ここ醍醐寺の東の山には「上醍醐」があり、 そこにある上醍醐陵には、白河天皇皇后・賢子  白河天皇皇女・尊称皇后 白河天皇皇女・尊称皇后・令子内親王 鳥羽天皇皇女・禧子内親王墓があり、是非ともいってみたかったのですが、徒歩1時間をかけなければいけません。 今回は時間がとれませんので、又の機会ということで、おわかれです。

 

 

 

枝垂れ桜と五重塔

 

 

コメント