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安芸の宮島・厳島神社

2007年11月17日 | 平安時代

安芸の宮島・厳島神社

 広島県の宮島にある1400年の歴史をもつ神社へ行ってきました。 途中岡山吉備の大吉備彦命陵等々を経由しながら約300km、高速を飛ばす。 目的は秋の紅葉を見るためであるが、残念ながらほとんど紅葉の醍醐味には出会えなかった。 まだ10日程度早かったようです。 フェリーへ宮島へ向かい、宮島桟橋から西へすぐのところに厳島神社参拝入り口があり、ほど近い丘にそびえるのは五重塔です。

 全国各地に約500社ある厳島神社の総本社であるここ厳島には、宗像三女神(市杵嶋姫命、田心姫命、湍津姫命)を祀っています。 市杵島姫命(イチキシマヒメ)は、日本神話に登場する水の神で、古事記では市寸島比売命、日本書紀では市杵嶋姫命と表記する。 天照と須佐男の誓約の際に、スサノオの剣から生まれた宗像三女神の一柱である。 神名の「イチキシマ」は「斎き島」のことで、「イチキシマヒメ」は神に斎く島の女神という意味である。  厳島神社のある宮島は、古代より島そのものが神として信仰の対象とされ、 593年、土地の有力豪族であった佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのに始まると伝わる。

また、平安時代末期に平家一族の崇敬を受け、1168年頃に平清盛が現在の社殿を造営した。 平家一門の隆盛とともに当社も盛えた。平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けた。 戦国時代に入り世の中が不安定になると社勢が徐々に衰退するが、毛利元就1555年の厳島の戦いで勝利を収め、厳島を含む一帯を支配下に置き、当社を崇敬するようになってから再び隆盛した。

厳島神社と五重塔

 

厳島神社参拝入り口からすぐ廻廊が伸びます。この廻廊の幅は4m、長さは約275mで、 朱塗りが見事に映えます。

 

高舞台 

 本社祓殿前にある、黒漆塗りの基壇に朱塗りの高欄をめぐらし前後に階段をつけた舞台で、平清盛が大阪・四天王寺から移したという舞楽がここで演じられます。舞楽の舞台としては最小のもの。現在の舞台は天文15年(1546年)、棚守房顕によって作られたもので、当初は組立て式だったものが江戸時代初期に現在のような作り付け構造になったと考えられています。

 

能舞台と反橋

国内でも唯一の海に浮かぶ能舞台。現在、重要文化財に指定されている国内5つの能舞台のうちの1つでもあります。厳島での演能は、永禄11年(1568年)の観世太夫の来演がその始まりとされ、慶長10年(1605年)には福島正則が常設の能舞台を寄進。現在の舞台と橋掛及び楽屋が建立されたのは藩主が浅野氏に代わった延宝8年(1680年)のことです。この能舞台は海上にあるため通常は能舞台の床下に置かれる共鳴用の甕(かめ)がなく、足拍子の響きをよくするため舞台の床が一枚の板のようになっているのが特徴。春の桃花祭神能がこの舞台で演じられるほか、茶道表千家と裏千家家元が隔年交互に執り行う献茶祭ではここでお茶が点てられ御神前に献じられます。

かつては重要な祭事の際、勅使がこの橋を渡って本社内に入ったことから別名・勅使橋(ちょくしばし)とも呼ばれました。現在の橋は、弘治3年(1557年)に毛利元就・隆元父子によって再建されたもので、擬宝珠の一つに刻銘が残っています。

 

 

大鳥居

本社火焼前(ひたさき)より88間の海面にそびえる朱塗りの大鳥居は、奈良の大仏とほぼ同じ高さの16.8m、重量は約60t。主柱は樹齢500~600年のクスノキの自然木で作られており、8代目にあたる現在の鳥居を建立するにあたっては、巨木探しに20年近い歳月を要したといいます。また根元は海底に埋められているわけではなく、松材の杭を打って地盤を強化し、箱型の島木の中に石を詰めて加重するなど、先人の知恵と工夫によって鳥居の重みだけで立っています。

 

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