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法性寺(東福寺)

2007年10月07日 | 平安時代

法性寺(現在の東福寺)

 1006年、藤原道長は法性寺に五大堂を建立し、供養を行った。 法性寺(平安時代には定額寺)は藤原忠平(880-949 基経の4男)の建立であり、摂関家の氏寺である。 本堂、礼堂、五大堂、南堂、尊勝堂などがあり、958年に火災により大きな被害を受けたが、道長が五大堂を再建した。 五大堂には不動、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉の五大明王を安置する堂である。 この五大明王を本尊として修する五壇法は、良源(慈恵大師912-985)によって広められた。 967年、冷泉天皇の狂気が強まったときには、良源は五壇法の中壇を務め、またその後も円融天皇の病を回復させたことから、名声を博した。 道長は五壇法を篤く信じたようで1008年、彰子の出産間じかに土御門第で行った五壇法の祈祷は「紫式部日記」や「栄華物語」に記されている。  「ほど近うならせたまふままに、御祈りども数をつくしたり。五大尊の御修法おこなはせたまふ。 観音院の僧正、二十人の伴僧とりどりにて御加持まいりたまふ。」  道長の五大堂への信仰は篤く、供養の翌年には五壇法を修し1013年には前年の病気を受けて五壇法を修し、1018年には病の為に十日間以上五大堂に参籠し、頼通の病の時には実資とともに籠もったりもしている。 その後も五大堂で頼通の算賀が行われたり、師通や中宮賢子が五壇法を修するなど、道長一門の祈祷の場として重要な位置を占めた。 

 当時、広大な境内を所有していた法性寺は現在では東福寺として多くの人で賑わう紅葉の名所でもある。 東福寺の北大門から本堂まではかなりの距離があるが、中ほどにある同聚院には中尊不動明王が祀られていて、作者は無量寿院造営で中心となった仏師・康尚である。 同聚院を訪れる人はほとんどなく、寂しい感じではありましたが、雑踏から開放された阿弥陀如来座像が奥にひっそりと佇むのを見るとなおさら当時のことが思い起こされて感慨無量でございます。

同聚院にある中尊不動明王・阿弥陀如来座像(康尚作) (撮影:クロウ) 

 

 また、東福寺の西に隣接して、法性寺という小さな尼寺があるが、ここに安置されている千手観音は忠平が建立した法性寺の本尊である。  康尚は991年から宮中や世尊寺、浄妙寺、無量寿院、比叡山、高野山などの造仏で事績があり、藤原道長や行成に重用された。 行成が残した「権記」にも康尚はしばしば登場し、行成は999年に康尚の邸に赴き、世尊寺に安置する大日如来、普賢菩薩、十一面観音作り始めの儀を行っている。 世尊寺は行成の創建によるもので、母方の父・中納言・源保光の旧宅(桃園第)を寺にしたものである。 道長も供養の前日に世尊寺を訪れており、康尚の仏像を見ている。 1002年には故東三条院(詮子)のため法華八講に用いる本尊三体を作っている。 また1005年彰子のためにも金色薬師、十一面観音、彩色不動を造り始めている。 この年に浄妙寺三昧堂の本尊を造り、御堂関白記に記されている。

 東福寺の大門、同聚院を過ぎると一華院、臥雲橋があります。また臥雲橋からは偃月橋が見えます。 偃月橋は、本坊より塔頭、龍吟・即宗両院に至る三ノ橋渓谷に架かる木造橋廊です。桁行十一間、梁間一間、単層切妻造の屋根は桟瓦葺。下流の通天・臥雲両橋とともに東福寺三名橋と呼ばれています。  さらに南に進むと日下門があり、これをくぐるとすぐに方丈・本堂を望むことができます。 本堂の南には三門があり、三門の西には禅堂、東司、六波羅門が、また東には十三重石塔、浴室などがあります。 さらに東に進むと月輪南陵への参道がありますが、ここへは既に行った事があり、今回は参道入り口で引き返しました。 (撮影:クロウ)

一華院                        臥雲橋からみた偃月橋

 

東福寺(撮影:クロウ)

方丈

 禅宗の方丈には古くから多くの名園が残されてきましたが、四周に庭園をめぐらせたものは当寺唯一の試みです。当庭園1938年は、釈迦成道を表現し、八相の庭と命名されています。

 

仏殿(本堂)

 1881年焼失後、1934年再建され起工から竣工まで17年を要し復興させた昭和の木造建築中最大の建物です。入母屋、裳階(もこし)付単層本瓦葺、正面七間・側面五間。三門にならった大仏様の組物と角扇垂木。禅宗唐様の桟唐戸・礎盤・鏡天井。裳階の窓は和様の連子窓、破風の妻飾りは法隆寺南大門風と、多様に様式が組み合わされています。 内部は禅式床瓦敷とし、正面須弥壇上に本尊釈迦立像、脇に摩訶迦葉尊者 阿南尊者、四天王を安置。天井の画龍は堂本印象氏の作、龍の大きさは体長54m・胴廻り6.2mに及んでいます。 ただし内部に入ることはできませんでした。

 

三門

 三門は空門・無相門・無作門の三解脱門の略。南都六宗寺院の中門にあたります。東福寺は新大仏と呼ばれるような巨大な本尊を安置するなど南都二大寺に影響を受け、この三門は大仏様(天竺様)、禅宗様(唐様)、和様をたくみに組み合わせた建造方式となっています。 五間三戸、重層入母屋造、両脇に階上へのぼる山廊を設けた、日本最大最古の遺構です。 応永年間(1394-1428)、足利義持の再建で、1977(昭和52)年、大修理が完成しました。山廊から階上へ上れば、壮麗な極彩色の世界がひらかれています。楼上内部は二本の柱があるほかは広々として、須弥壇(しゅみだん)中央に宝冠釈迦如来、左右に月蓋長者、善財童子・十六羅漢像が安置されています。正面縁の大額「妙雲閣」の筆は足利義持のものです。中世建築ではめずらしい一面の極彩画は、画聖兆殿司(明兆)およびその門人寒殿司の筆と伝えられています。 

 

月輪南陵への参道 仲恭天皇が眠っています。

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