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平等院

2007年11月24日 | 平安時代

平等院 2007.11.23

 久しぶりの平等院は少し寂しい紅葉でしたが、平成16年1月より行われていた平成大修理事業を終えて久しぶりに姿を現した阿弥陀如来座像、天蓋をはじめ、平等院ミュージアム鳳翔館における雲中供養菩薩像など数多くの国宝展示等々、その当時の優美な姿を現在に伝える魅力満載のものでありました。

 

 

 

  

 

 1052年は釈迦入滅後2000年を経て、この年に末法を迎えると考えられていた。 この年に、関白左大臣・藤原頼通は、道長から受け継いだ宇治の別荘(宇治殿)を寺に改め本堂を供養し平等院と名付けた。前年には60の賀を祝い、極楽浄土に生きることを望んだようである。 翌年1053年には阿弥陀堂(今の鳳凰堂)を完成させ、頼通がなくなるまでの20年間に、法華堂、多宝塔、五大堂などが造営されている。 1061年には後冷泉(後朱雀と嬉子の皇子)皇后の寛子(頼通娘:1036-1127)が多宝塔を建立し、後に関白となる三男師実も1066年に五大堂(五大明王が本尊)を建立した。  鳳凰堂の三間四方の典型的な阿弥陀堂の左右に翼楼と楼閣を設けた独特の建物様式は、阿弥陀浄土図の宝楼閣を模したものであった。 つまり、平等院の鳳凰堂は阿弥陀如来と同様に極楽往生へいたる観想の場なのである。 1067年に弟・教通に関白を譲った頼道は1074年に83歳でなくなるまで極楽浄土を観想 (極楽浄土を実際に見るために浄土を構成する仏像・仏画を観察し記憶する訓練) して過ごしたという。 その後は後冷泉天皇の皇后・寛子がここで仏事と遊宴に過ごしたが、やがて藤原一門は衰退の一途をたどる。 1231年、平等院を訪ねた歌人・藤原定家は堂の破損ぶりを嘆き、あまりの痛々しさに阿弥陀堂に参らずに帰ったとしている。  

 別荘宇治殿は889年嵯峨天皇(784-842)の皇子・源融(823-895)が築いたもので、融亡き後陽成天皇(清和皇子869-942)が離宮とし、やがて宇多天皇(867-931)の所領となって朱雀天皇(923-952)の離宮・宇治院となる。 998年には当時左大臣の藤原道長が譲り受け、宇治殿とよんだ。 1027年道長亡き後は、頼道が引き継いで1052年(末法初年)に本堂を建立して平等院と号して仏寺とした。

 仏教が日本に初めて伝えられたのは、百済から欽明天皇時代の538年10月13日だと云われている。その後、仏教の扱いは、政治的なものがあり、蘇我氏が中国との友好関係を保つために国粋派の物部氏を退け採用した。その後、推古天皇の即位に伴う聖徳太子が皇太子となると敬虔な仏教徒となり、四天王寺や法隆寺を建立し、仏教が国教となった。以来、聖武天皇による東大寺の建立など仏教研究も盛んに行われるようになった。しかし、奈良仏教も腐敗堕落や玄肪や道鏡などが政治的野心を持ったがための失脚など、戒律の乱れが生じていた。こうした背景もあり、794年(延暦13)に京都・平城京への遷都が行われ、最澄や空海による新たな教えが広められ、一般大衆への広がりも見えるようになった。当時の人々の最大関心事は、病気とか死であり、古代からの神道ではこの腫の問題解決が出来ず、僧侶による読経や祈祷が受け入れられるようになった。又、日本古来の神道との合体が図られた「本地垂迹説」も現れた。しかし、空海や最澄の教えは、朝廷や貴族、学者、僧侶といった人々の関心事にしか過ぎず、一般大衆から浮き上がった存在であった。

 平安後期から末法思想は、頃の貴族達に浄土の世界への願望を高めていったという。それが、阿弥陀仏への信仰であり、西方浄土への願いとして阿弥陀如来を祀るお寺を創建するという流れになった。この末法思想は、仏陀の教えを三段階のフェーズに分け、「正法」、「像法」、「末法」と区切り、「正法」は、釈尊が入滅後500年或いは1000年間の間は、正しい教えが行われ、証果があるという。次の「像法」は、正法の後500年又は1000年の間は、教法は存在するが、真実の修行が行われず、証果を得るものがないという。そして、「末法」は、像法の後の一万年の間、仏の教えがすたれ、修行するものも悟りを得る事も無くなり、教法のみが残ると云われ、この「末法」時代が、1052年(永承7)に始まると信じられていた。 絶大な権力を手中にし栄華をきわめていた藤原道長も自らが建てた法成寺の阿弥陀堂に横たわり、九対の阿弥陀如来像の手に結んだ糸を握ったまま、死出の旅路についたという。このような来世への願いと現世の生活といいた両面から、東方の浄瑠璃浄土の薬師如来と西方の極楽浄土の阿弥陀如来を祀る伽藍配置が多くあったという。しかし、こうした伽藍配置も残余するものは少なく、京都では浄瑠璃寺のみだろう。そして、西方の極楽浄土を表したという平等院が、末法思想に対する思いが見える。そして、この末法時代から新たな鎌倉仏教の誕生へと進んでいく。

 ところで、観経は上、中、下の三品の観想があり、九品往生としてあらゆる衆生の極楽往生を説いている。 これを描いたのが鳳凰堂の扉絵の阿弥陀九品来迎図である。 来迎とは、仏教中の浄土教において、紫雲に乗った阿弥陀如来が、臨終に際した往生者を極楽浄土に迎える為に、観音菩薩・勢至菩薩を脇侍に従え、諸菩薩や天人を引き連れてやってくることを云う。 鳳凰堂の正面(東面)の三扉には上品上生図、上品中生図、上品下生図を描き、右側北面の扉には中品上生図、奥扉には中品中生図、 左側の南面の扉には下品上生図、奥には下品中生図など九品来迎図が描かれている。 さらに各扉絵には色紙形がそえられ観経の経文が書き抜かれているが、これは当時第一の能書家・源兼行の書である。 兼行は後冷泉、後三条、白河の三代の大嘗会屏風の色紙形を記した。 

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