平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

新熊野山神社

2008年07月27日 | 平安時代

 新熊野山神社

 新熊野山の始まりについて、699年 役行者である役小角が伊豆大島に流されたあと、その5人の弟子たちが西海に逃れた。 701年(大宝元年)役行者が赦免になったので、福岡明神の導きで御神体を児島の福岡の邑に安置した。 740年(天平12年)には聖武天皇から児島郡を神領として賜い、761年(天平宝字5年)熊野権現の社殿を建立 熊野三山を造る。

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平康頼

2008年04月16日 | 平安時代

平康頼

大徳寺にある平康頼の碑 

 平康頼は阿波出身・平頼季の子で、「鹿ケ谷の陰謀」に加担したことで平清盛によって鬼界ヶ島に流されたが言仁親王誕生の恩赦によって帰京し、1186年に源頼朝の進言によって阿波国麻殖保司に任ぜられている。 墓所は野間大坊の他に、京都東山区下河原鷲尾町の雙林寺に供養塔があり、仏教説話集・『宝物集(康頼宝物集)』の作者として知られている。  平康頼は、「今様狂い」の後白河上皇の今様(当時の流行歌)の弟子のひとりで、熊野御幸にも従い、後白河院から高い評価をされていました。 

 1177年、大納言藤原成親を中心とする後白河上皇の近臣たち(俊寛僧都、西光法師、平康頼ら)の平家打倒の企みは平清盛に知られ、計画の首謀者たちは捕らえられ処罰された事件が鹿の谷事件です。 西光法師とその子らは拷問の上、斬殺されます。 首謀者の藤原成親と嫡男・成経は、死罪になるところを成親の妹を妻にしている平重盛の説得によって備前の児島流罪となったが、後に飢えにより死亡しています。  成経は、平康頼・俊寛僧都の2人とともに、薩摩南方の鬼界ケ島に流罪になります。  やがて、中宮徳子の出産により島の流人も赦免になるが、俊寛ひとりは許されず置き去りとされ、のちに断食してこの地に果てることとなった。

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三井寺の夜桜

2008年04月12日 | 平安時代

園城寺(三井寺)の夜景

 今回は比叡山延暦寺へ行ったあとの三井寺の夜景です。 前回とは趣の違った夜桜ということで周辺は車でいっぱいです。(撮影:クロウ 2008/4/5)

 

 

 

------------ 2007/4/29 ------------ 

 大津市の弘文天皇陵へ行ったときに、ここ三井寺に立ち寄りました。天皇陵からはほんのすぐ近くです。 その昔、後白河天皇の皇子である円恵法親王が三井寺の長官を務めたところです。 また保元の乱では惨敗した上皇側の源為義が隠れたところであり、以仁王も行家の裏切りにあって隠れているところでもあります。

 園城寺(三井寺)は天台寺門宗の総本山で、いにしえより日本四箇大寺の一山に数えられています。その昔、天智・弘文・天武三帝の勅願により、弘文帝の皇子・大友与多王が田園城邑を投じて建立され、天武帝より『園城』の勅額を賜り、長等山園城寺と称したのにはじまります。 俗に三井寺と呼ばれているのは、当時天智・天武・持統三帝の御産湯に用いられた霊泉があり、『御井の寺』と呼ばれていたものを、後に開祖智証大師が当時の厳儀・三部灌頂の法水に用いられたことに由来しています。
 長い歴史の上で当寺は再三の兵火にあい焼失したが、豊臣氏や徳川氏の手によって復興し、現在も国宝・重要文化財・名園など貴重な寺宝を数多く伝えています。

 

 

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清涼寺

2008年04月11日 | 平安時代

清涼寺

 清涼寺は、「嵯峨釈迦堂」の名で親しまれ、光源氏のモデルといわれる嵯峨天皇の皇子、源融の山荘「棲霞観」があったところが、のちにお寺となりました。 本尊は釈迦如来、開基は然(ちょうねん938-1016は、平安時代の東大寺の僧で法済大師とも号される。)、開山(初代住職)はその弟子・盛算である。 阿弥陀三尊を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、釈迦如来を本尊とする清凉寺という2つの寺院が関係し、もともと、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(822-895)の別荘・栖霞観があった。 源融の一周忌に当たる896年、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。 その後945年に、重明親王(906-954 醍醐天皇第四王子 母は源昇娘)の妃( 藤原登子 藤原寛子:太政大臣・藤原忠平の次女の姪)が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置した。 (撮影:クロウ 2008/4/5)

仁王門                      本堂

 

嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(822-895)の別荘・栖霞観跡

 源氏物語 「松風」には光源氏が造営した「嵯峨の御堂」は大覚寺の南に所在したとあり、栖霞観の場所と一致することから、河原院が六条院のモデルとも、源融が光源氏のモデルとも云われる所以である。

 

 源昇墓碑(父・源融の遺産・河原院を宇多天皇に献上した)

  

多宝塔(1700年多宝如来安置)                 一切経堂 

 

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武家の棟梁と平氏

2008年03月22日 | 平安時代

武家の棟梁と平氏

 伊勢に本拠地を置いた平維衡を祖として伊勢平氏は登場する。平維衡は一条天皇時代に代表する在京武士であったが、平致頼との合戦などで在京武士としては生き残れなかった。 伊勢平氏の本流は正度マサノリに移るがあまり功績は残っていない。また、その子・正衡も含めて源氏の英雄である頼義、義家の景に隠れて表にはあまりでてきていない。 やがて平正衡の嫡男・正盛は白河院の恩寵を受けて北面武士になると伊勢平氏は表舞台に登場することとなる。 1092年正盛が郎党として仕えていた加賀守・藤原為房が阿波国に配流となった。翌年赦免されて帰京すると、信任を得た正盛は隠岐守に任ぜられている。1098年には受領功過定に合格して若狭守となり、これを契機に白河院の恩寵を受けるとともに、受領を重ねて巨万の富を得ることとなる。 そして院の御幸や寵姫・祗園女御への堂提供などでさらに院の歓心を引いている。正盛の嫡子・忠盛も白河院に北面の武士として仕え、18歳で従五位下に叙されている。 1129年の白河院葬儀では種々の役目を担当して、鳥羽院からも寵愛され鳥羽院北面となり、1148年には執事別当となっている。 こうして白河北院造営などの成功により切れることなく受領を歴任しさらに富を増やした。 忠盛の出世を妬んだ殿上人が豊明節会で闇討ちを計画した話は平家物語の序盤でもでてくる有名な場面である。

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武士系図

2008年03月22日 | 平安時代

清和源氏と桓武平氏系図

清和天皇 
 ┣貞純親王873-916
 ┃ ┣源経基897-961        藤原秀郷┓
 ┃ ┣経生王 ┣源満仲912-997(摂津源氏祖)⇔藤原千晴(安和の変:源高明失脚)
 ┃源能有娘 ┣源満政?┣源頼光948-1021(藤原道長側近)
棟貞王娘   ┣源満季?┃ ┣頼国-1058(彰子,後一条に近侍)           
      橘繁古娘  ┃藤原元平娘    藤原元方┓
             ┣源頼親?(大和源氏祖,母:藤原致忠娘)
              ┃ ┗頼房
            ┃  ┗頼俊(1070後三条の勅で蝦夷征伐)
 ┏━━━━━━━━━━┛
 ┃ 
 ┣源頼信968-1048(河内源氏祖,母:藤原致忠娘 道兼,道長に近侍) 
 ┃ ┃     安倍忠良┓
 ┃ ┣頼義988-1075 ⇔ ┣安倍頼時-1057(奥六郡司)
 ┃ ┃┃(1062前九年の役)┗安倍則仁┣貞任1019-1062
 ┃ ┃┃             ┣宗仁1032-1108(娘は藤原基衡の妻)
 ┃ ┃┃             ┣娘(平永衡-1056の妻)┗娘
 ┃ ┃┃             ┃藤原経清-1062    ┣秀衡1122-1187
 ┃ ┃┃             ┃┣清衡1056-1128   ┃  ┣泰衡1155-1189
 ┃ ┃┃        ┏清原光頼┗娘     ┣基衡1105-1157┣忠衡-1189
 ┃ ┃┃        ┗清原武則┓┣家衡-1087 平氏女   藤原基成娘
 ┃ ┃┃             ┣清原武貞?
 ┃ ┃┃             ┣武衡 ┗真衡-1083
 ┃ ┃┃             ┗娘      ┗成衡(養子)
 ┃ ┃┃               ┣-    ┣
 ┃ ┃┣義家1039-1106(1083後三年の役)吉彦秀武 頼義娘
 ┃ ┃┣義綱1042-1132┣義親-1108(対馬守 隠岐に配流)
 ┃ ┃┃ ┣義弘   ┣為義1096-1156(養子:父は義親)
 ┃ ┃┃ ┣義俊   ┃┣義朝1123-1160(鎌倉の館を引き継ぐ)
 ┃ ┃┃ ┣義明   ┃┣義賢-1155(頼長侍従)   ┣義平
 ┃ ┃┃ ┣義仲   ┃┣頼賢-1156  ┗木曾義仲 ┣頼朝
 ┃ ┃┃ ┗義範   ┃┣為朝1139-1170      ┣範頼
 ┃ ┃┣義元1045-1127┃┗行家1145-1186    熱田大宮司娘
 ┃ ┃平直方娘    ┃        義平
 ┃ ┃        ┃         ┣
 ┃ ┃            ┣義国1091-1151 ┏娘      義朝妻の姪
 ┃ ┗頼清?     ┗義忠  ┣新田義重1114-1202    ┣
源俊娘(嵯峨源氏)    1083-1109┗足利義康1127-1157(鳥羽院北面) 
 
桓武天皇737-806
 ┣葛原親王786-853
 ┃ ┣高棟王804-867
 ┃ ┣高見王817-855
 ┃ ┗高望王839-911
多治比真宗  ┣平国香-935(桓武平氏祖)⇔平将門
       ┃┣平貞盛-989(平将門乱で功)
       ┃┃ ┣維将(北条氏祖)
       ┃┃ ┣維衡(伊勢平氏祖:伊勢守 一条朝の在京武士)
       ┃┃ ┃ ┗正度-1067?(越前守)
        ┃┃ ┣正輔 ┣正衡(藤原師実に近侍)
        ┃┃ ┗正済 ┃ ┗正盛-1121(源義家近侍 源義親討伐 白河北面武士)
        ┃┃     ┃   ┣忠正-1156(頼長に仕え崇徳天皇側)
        ┃┃     ┣維盛┗忠盛1096-1153(白河・鳥羽上皇近侍)
        ┃┃     ┗季衡  ┣頼盛(母:池禅尼)  
        ┃┃         ┣教盛(母:藤原家隆娘)
        ┃┃         ┣忠度(母:藤原為忠娘)
        ┃┃         ┣経盛(母:源信雅娘)
        ┃┃         ┗清盛(母:祗園女御妹)
        ┃┃        
        ┃┃
       ┃┣繁盛(常陸平氏祖 藤原師輔家人)
       ┃┗兼任
       ┣平良兼-939(母:藤原良方娘)
        ┃┣公雅━致成━致方
       ┃┗公連
          ┣平良将-917
        ┃┣将門903-940(藤原秀郷,平貞盛に討たれる)
       ┃┣将頼-940
         ┃┗将平
       ┗平良文886-953(母:藤原範世娘)
         ┗忠頼
          ┣忠常975-1031(房総平氏祖 教通に侍従 忠常の乱)
            平将門娘 ┣常将━□□━上総氏,千葉氏
                  ┗常近

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院政下の源氏

2008年03月22日 | 平安時代

院政下の源氏

 後三年の役の後、白河は天皇は源義家を天皇親政隊長とすべく期待していたが、義家にはその意思はなかった。 それを見抜いた白河天皇は後三年の役を私合戦として勲功を与えず、1106年死去するまで無官のまま放置した。 これは義家の源氏の棟梁としての力を恐れ警戒していたからである。 そして兄の活躍に隠れていた源義綱を表舞台にたたせることとなる。  義家は死去するにあたって源氏一門の将来の不安を抱いていたが、 まず1101年義家嫡男の義親が大宰府での濫行により隠岐に配流となる。 1106年義家の三男・義国と弟・義光が合戦し義家は義国の召喚を命じられた。 1107年隠岐に配流となっていた義親が出雲国目代を殺害したことで、白河天皇は近臣・平正盛を追討使として派遣し、翌年追討は成功し正盛という新たな武家の棟梁が誕生する。

 1109年義親の配流後、義家の後継者となっていた検非違使・義忠(義親の弟)が斬殺された。 源重実に嫌疑がかけられ連行されると、その弟・重時が義綱邸を襲撃して義綱三男・義明を殺害した。 このとき義綱は逃亡を図るが、白河院の命を受けた源為義が追捕に向い、義綱は投降するが後に配流先の佐渡にて暗殺される。 また、6人の子は全てこの事件で自害等々にて死亡している。翌1110年、鳥羽天皇呪詛事件などもあり左大臣源俊房一家は義綱一家とともに滅亡することとなった。

 源義忠が殺されたことにより義家の家督を継いだのは義親嫡子・為義であった。 白河・ 鳥羽院は東国武士を束ねる為義を恐れて抑圧を加え、検非違使としたのは1124年頃、従五位下としたのは55歳のときである。 これに対して嫡男の義朝は鳥羽院の近臣として熱田大宮司藤原季範娘を妻とし、待賢門院からの支持ももあつかった。 こうして義朝は義家一族を引き継ぐこととなる。

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後三年の役と源義家

2008年03月20日 | 平安時代

後三年の役と源義家

 前九年の役の勲功により清原武則は俘囚の主として鎮守府将軍に任命された。 武則はもともと清原氏の庶流であったが、兄・光頼より惣領の地位を受け継ぎ、安倍氏による奥六郡支配権を奪い取ったのである。 1070年陸奥守・源頼俊は終任にあたり、後三条天皇の親政の一環として行われてきた北海道の荒夷まで服従させたと報告する。 この征服は鎮守府将軍・清原武則の孫である真衡の功績が大きいとして鎮守府将軍に任命されたのである。真衡による奥州平定は安定し、1083年新任受領義家による初任検注も何ら妨害を受けることなく行われた。 しかし清原氏庶流から成り上がった真衡には異母弟・家衡、叔父・武衡らの反感を生むことになる。

 惣領真衡には実子がなく、庶流との緊張関係のなかで惣領家の支配的地位を維持するには海道氏から成衡を養子に迎えるしかなかった。成衡は源頼義の娘を妻とすることにより惣領家の安定を図っている。ところがこの婚儀の席で、ある事件がおきたのをきっかけに、真衡側と庶流がぶつかるのである。 庶流側の吉彦秀武(清原武則の娘婿)は同じく従者扱いされてきた清衡(源頼義に討たれた経清の忘れ形見で奥州藤原氏の祖)、家衡(清原武貞の子)を見方につけた。 こうして異母兄弟、異父兄弟間の惣領家と庶流の対決が始まるのである。

 ちょうどこの1083年に源義家が陸奥守として着任すると、清原真衡は義家に至極の饗宴を催し、吉彦秀武を討つべく出羽に向かった。 それを知った清衡、家衡はただちに真衡邸を襲撃するが、源義家に撃退されている。この間に真衡は出陣の途中で急死し、清衡、家衡が義家に投降した。 このとき義家は武則、武貞、真衡三代に渡って支配してきた奥六郡司職を召し上げ、これを清衡、家衡に与えたのである。 こうして清原惣領家は滅亡し清衡、家衡の間で緊張感が高まっていく。

 1086年、清衡邸が家衡により襲撃され妻子は殺害されると、源義家は出羽国沼柵に立て篭もる衡を軍勢を率いて攻めた。 これには義家の策略がからんでいる。 1086年は鎮守府終任の年であり、重任を望んだ義家が清衡、家衡を挑発して勲功を期待してのことであった。ところが衡の猛攻はすざまじく、義家は屈辱の中で撤退した。 武名を誇る義家はこのまま終任を迎えて帰京するわけにはいかない。 1087年戦闘準備に専念し、政府は合戦を停止させるために官使を派遣するが、義家は大軍を率いて衡が篭る金沢柵に出陣。 なかなか城は落ちる気配を見せないため、兵糧攻めに切り替えた。衡側は降伏を求めたが義家はこれに応じず、吉彦秀武の進言どおり皆殺しにしたのである。

 政府に対して武功を期待した義家であったが、後三年の役は私合戦であるとして褒賞もなく、結果的には私財を投じた義家の武勇は高まることになるが、武勇を恐れた政府(白河院・関白師実)は長きに渡って義家を陸奥前司のままとしたために、やがて源氏の棟梁としての勢力は弱まり、義家の死後源氏は分裂・衰退していくことになる。 

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前九年の役と源頼義

2008年03月16日 | 平安時代

前九年の役と源頼義

 征夷大将軍・坂上田村麻呂により蝦夷の反抗は鎮圧され、802年鎮守府が多賀城から胆沢城(いさわ)に移された。 統治は俘囚(朝廷に服従した捕われた者の意味)により行われた。 873年陸奥守阿倍貞行などはその代表といえ、俘囚首長から賄賂をとって脱税を見逃す動きが任用(諸郡に派遣された役人)に見られたときに、任用の給料から補填させることを政府に提言して認められている。鎮守府が置かれた胆沢城はこの頃堂々としたものに整備拡張され、統治のための施設になっていった。 914年には延喜東国の乱平定に功績のあった藤原利仁が将軍となり、以降高望の子孫、藤原秀郷の子孫が将軍に補任された。 武威を背景に奥六郡支配を行う陸奥守・源頼義に対して、奥六郡司・阿倍頼時(奥州藤原氏初代清衡の祖父にあたり、頼良ともいう)は業務の補佐をしている。 胆沢城と兵士制の存在は奥六郡内部の俘囚間武力紛争などを抑制する役割を果たしていたが、やがて兵士制が解体し胆沢城の紛争抑止機能がなくなると、胆沢城自身の体制も崩れて廃棄されていく。

 1036年、阿倍忠良は陸奥権守に補任された。前九年の役の主役阿倍氏の登場である。 その子息で父同様五位の肩書きを持つ阿倍頼時は、受領として土着していた平永衡、藤原経清と結びつき勢力拡大に努め奥六郡に君臨することになる。1051年陸奥守・藤原登任は安倍頼良を攻めたが、頼良は俘囚を率いて登任の軍勢を破った。登任の攻撃は国家的な追討ではなく、受領と荘園側の武力紛争である。頼良は登任の武装検注部隊を手荒な威嚇で追い払い死者を出したために起こった。 政府は登任にかえて前相模守・源頼義を陸奥守に任じて鎮守将軍を兼任させた。 頼義は忠常の乱を平定した源頼信の嫡男であり、不遇の小一条院に判官代として仕えていたため相模守に任じられていた。因みに頼義の同母弟・頼清は若くして昇殿を許され、小右記や御堂関白記にもよく登場している。 1052年の頼義の陸奥守着任のころ上東門院・彰子の病悩による大赦があり、検注を妨害した安倍頼良の罪も赦免され、安倍頼良は源頼義に忠義を誓い名を頼時に変えている。

 4年の任期が終わった1055年、頼時に見守られながら京への帰途、権守藤原説貞の子・貞光が何者かに殺傷されたが、これが安倍頼時の子・貞任の謀反とされ、政府は頼義に安倍頼時追討の宣旨を下した。 安倍頼時が篭る衣川関を目指す軍勢には頼時の娘婿・平永衡、藤原経清の姿もあった。 1057年、頼時は死去し、貞任をはじめ頼時の子たちは衣川関を閉ざして頼義に抗議する構えを示すと、源頼義は貞任追討の宣旨を受けるが、征伐軍は貞任の猛攻に逃げ帰った。1062年再度貞任追討を決断した頼義は清原光頼・武則兄弟の協力をとりつけ、追討軍のほとんどは清原氏で占められていたから、もはや謀反追討を名目とした清原氏による安倍氏打倒に代わっていた。 9年に及ぶ戦争も1064年に終わり、坂東武士に棟梁として仰がれる河内源氏の地位は確立された。 

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平忠常の乱

2008年03月14日 | 平安時代

平忠常の乱

 平安時代に房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で起きた平忠常975-1031 房総平氏の祖とも云われ 藤原教通に侍従したこともある )による反乱で、朝廷は討伐軍を派遣するが3年にわたって鎮圧できなかった。 有力武士の源頼信(河内源氏祖とも云われ、源満仲の子で 道兼,道長に近侍していた)が起用されるに及ぶと忠常はあっさりと降伏した。 

 平良文(高望王の子)は下総国相馬郡を本拠に村岡五郎と称し、子の忠頼、孫の忠常の三代に渡り関東で勢力を伸ばした。 平忠常は上総国、下総国、常陸国に父祖・葛原親王以来の広大な所領を有し、傍若無人に振る舞い、国司の命に服さず納税の義務も果たさなかった。 1028年、平忠常は安房守平惟忠邸を襲撃して焼き殺す事件を起こし、上総国の国衙を占領してしまう。 また、上総介縣犬養為政邸を占拠して受領を軟禁し、妻子が京へ逃れ、これを見た上総国の国人たちは忠常に加担して反乱は房総三カ国(上総国、下総国、安房国)に広まった。

 当時、在地豪族(地方軍事貴族)はたびたび国衙に反抗的な行動をとっていたが、中央の有力貴族との私的な関係を通じて不問になることが多く、実際に追討宣旨が下されることは稀だった。  事件の報は朝廷に伝えられ追討使として源頼信・平正輔・平直方・中原成通が候補にあがり、右大臣・藤原実資は陣定において、源頼信(源義仲の子で源義家の祖父にあたる)を推薦した。 頼信は常陸介在任中に忠常を臣従させており、事態の穏便な解決のためには最適と考えられた。 他の公卿も同調するが、後一条天皇の裁可により検非違使右衛門少尉・平直方と検非違使左衛門少志・中原成道が追討使に任じられた。 直方を追討使に抜擢したのは、関白・藤原頼通だった。 直方は貞盛流の嫡流ともいえる立場であり、同じ貞盛流の常陸平氏と連携していた。 常陸平氏は、武蔵・下総を勢力基盤とする良文流平氏とは長年の敵対関係にあった。直方は頼通の家人であり、頼通に働きかけることで追討使に任命されたと推測される。

 直方は国家の公認のもとに、平忠常ら良文流平氏を排除する立場を得ることに成功した。8月、京に潜入した忠常の郎党が捕らえられている。郎党は内大臣藤原教通 (忠常の「私君」にあたる人物)や中納言・源師房宛ての書状を持っており、追討令の不当・中止を訴える内容だった。 政府側である 平直方と中原成道は吉日を選び任命から40余日も後の8月5日亥の刻(午後10時)に兵200を率いて京を出立した。 夜中にもかかわらず、見物人が集まり見送ったという。翌年には、直方の父・維時が上総介に任命され追討も本格化する。

 国家から謀叛人扱いされた忠常は、徹底抗戦を余儀なくされる。 追討使の中原成道は消極的で、関東へ向かう途上、母親の病を理由に美濃国で滞陣している。合戦の詳細は不明だが討伐軍は苦戦し、乱は一向に鎮圧できなかった。 長元2年(1029年)2月、朝廷は東海道、東山道、北陸道の諸国へ忠常追討の官符を下して討伐軍を補強させるが鎮定はすすまなかった。同年12月には中原成道は解任されてしまう。

  長元3年(1030年)3月、忠常は安房国の国衙を襲撃して、安房守藤原光業を放逐した。朝廷は後任の安房守に平正輔を任じるが、平正輔は伊勢国で同族の平致経と抗争を繰り返している最中で任国へ向かうどころではなかった。忠常は上総国夷隅郡伊志みの要害に立て篭もって抵抗を続けた。乱は長期戦となり、戦場となった上総国、下総国、安房国の疲弊ははなはだしく、下総守藤原為頼は飢餓にせまられ、その妻子は憂死したと伝えられる。 同年9月、業を煮やした朝廷は平直方を召還し、代わって甲斐守源頼信を追討使に任じて忠常討伐を命じた。頼信は直ぐには出立せず、準備を整えた上で忠常の子の一法師をともなって甲斐国へ下向した。

 長期に及ぶ戦いで忠常の軍は疲弊しており、頼信が上総国へ出立しようとした長元4年(1031年)春に忠常は出家して子と従者をしたがえて頼信に降伏した。頼信は忠常を連れて帰還の途につくが、同年6月、美濃国野上で忠常は病死した。頼信は忠常の首をはねて帰京した。忠常の首はいったん梟首とされたが、降人の首をさらすべきではないとして従者へ返され、また忠常の子の常将と常近も罪を許された。長元5年(1032年)功により頼信は美濃守に任じられた。 平直方の征伐にも屈しなかった忠常が、頼信の出陣によりあっけなく降伏したのは、忠常が頼信の家人であった(『今昔物語集』)ためであるともいわれている。 この乱の主戦場になった房総三カ国(下総国、上総国、安房国)は大きな被害を受け、上総守辰重の報告によると本来、上総国の作田は2万2千町あったが、僅かに18町に減ってしまったという。 この乱を平定することにより坂東平氏の多くが頼信の配下に入り、清和源氏が東国で勢力を広げる契機となった。

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木幡の浄妙寺跡

2008年01月26日 | 平安時代

浄妙寺跡

 1005年10月に道長は宇治・木幡の地に浄妙寺三昧堂を建立している。 木幡は基経以来藤原氏の墓地であり、道長はその供養の願文によれば、若い頃から父・兼家に従ってしばしば木幡の地を訪れ、その荒廃を見て涙を流したという。 栄華物語には道長の思いとして、三昧堂建立の願意が述べられている。 道長は1004年に建立の地を定め、1005年になって藤原行成に鐘銘を書かせ9月28日に鐘を鋳造した。 10月18日には行成は道長の命により南門と西門にかける浄明寺額二枚を書し、具平親王が供養経の外題を書している。 19日の供養当日には月明かりの中、寅刻に出発、巳刻に鐘をうち、 「鐘の声、思ふがごとし」 と満足している。 藤原氏の公卿のほとんどが参会し、天台座主覚慶を証者、前大僧正観修を導師として、供養僧百口という大規模な供養であったという。 この日の願文と呪願文は式部大輔大江匡衡と菅原輔正が作り、藤原行成が書したもので、また堂の仏像を作ったのは仏師康尚であった。 「御堂関白記」にはこの供養の願意は、ここに眠る父母や昭宣公(藤原基経)以来の先祖の霊の菩提のためであり、今後一門の人々を極楽へ導くためであると述べている。 このように浄妙寺を建立することによって道長は摂関家の結束をはかったと考えられている。

木幡小学校の正門横にある浄妙寺跡地の碑(撮影:クロウ)

 

 浄妙寺は平安末まで栄えたが、五摂家の分裂もあり中世に廃絶した。 そのため長い間場所も不明であったが、1990年に宇治市木幡小学校のグランドで三昧堂と多宝塔と思われる基壇が発掘され、陶器なども出土した。 この発掘と、1062年に頼通が浄妙寺の大門から道長墓へ至った記述から、道長の墓の場所を推測することが可能となり、32号墓または33号墓が該当するのではないかと推測されている。

32号墓 (藤原道長墳墓との伝承)

 

33号墓

 

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新熊野神社

2008年01月10日 | 平安時代

新熊野神社

 新熊野神社は熊野信仰の盛んな平安時代末期1160年、後白河上皇によって創建されました。 後白河天皇1158年の退位後も院政を敷き、そのときの住まいとなったのが現在三十三間堂の東側にある「法住寺」で、「法住寺殿」といわれ、その鎮守社として創建されたのが新熊野神社、鎮守寺として創建されたのが三十三間堂です。その造営には法皇の命を受けて平清盛が当たりました。 法皇は一生のうちに34回熊野詣をしていますが、当時の都人にとって熊野に参詣することは大変なことであったために、熊野の新宮・別宮として創建されたのが当社で、当社は長らく京の熊野信仰の中心地として栄えました。当社が「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野から来ています。 新熊野神社はその後、350年に渡って繁栄を極めましたが、応仁の乱以降、度々の戦火に見舞われ、廃絶状態となります。 それを再建したのが、江戸時代初期、後水尾天皇の中宮東福門院・和子で、現在の本殿は1663年聖護院宮道寛親王(後水尾上皇の皇子)により造営されました。

新熊野神社(撮影:クロウ)

 

 将軍義満と最も下級の役者・観阿弥が出会ったのは新熊野神社であるという。1374年当時17歳の将軍義満はこの地で初めて世阿弥の舞を見た。 絶世の美男子・世阿弥は能面を外して「翁」という演目を舞ったが、以来魅了された義満は関白・二条良基を世阿弥につけて教育し、「藤若」という名も授けている。

 

熊野には御神木・御神鳥というのがあります。本殿の左右にあるのが御神木「椥」で、「梛」とも書きます。 新熊野神社は古来より「梛の宮」とも呼ばれ、「椥」が熊野の御神木になっているのは、熊野信仰の原点が黒潮に乗って我が国に渡来した大陸南部の人々の信仰にあったことを示唆しています。 また、御神鳥は八咫烏です。八咫烏は三本足の烏として知られており、八咫烏の由来は日本神話にあり、神武東征の際、高御産巣日神によって神武天皇の元に遣わされ、熊野から大和への道案内をしたとされる伝説の鳥で、熊野の神の化身と考えられています。 

 

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源氏物語絵巻

2008年01月01日 | 平安時代

源氏物語絵巻

 明けましておめでとう御座います。当ブログも3回目のお正月を向かえました。当初は1年限りで平安時代を中心に書いていこうと思っていましたが、天皇・皇后陵が中心となり、天皇皇后陵の訪問制覇が目標になり、本日はほんのすこしの方向修正です。 

 さて、昨年11月に石山寺へ行ったときのこと、境内に入ると「源氏物語1000年展」というのをやっていて、平安絵巻を西陣織で飾っておりました。 西陣織の和服、帯には手が届くはずも無く、しかしカレンダーを購入したのであります。 さてこのカレンダーがなかなかの見事な出来栄えでありまして、薀蓄はともかくご覧頂きたく当ブログに載せてみることにしました。 さて、この絵巻は源氏物語のどこの場面だかわかります? お正月のひと時、楽しんでみてください。 それでは今年も宜しくです。

 

 

 

 

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奥州藤原氏

2007年12月04日 | 平安時代

奥州藤原氏の繁栄と滅亡

 源義経を匿い、源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏はもともと源氏とは敵同士であった。 平安初期、桓武天皇の軍事官僚であった坂上田村麻呂は征夷大将軍として東北の地を征服し、大和朝廷の領域に組み込まれた。 陸奥の奥六郡(現在の岩手県)と出羽の山北三郡(現在の秋田県)である。 朝廷に服従した蝦夷はこれより俘囚(捕われた者)と呼ばれることとなる。 この俘囚の中から金という豊富な経済力を背景にして、安倍氏(奥六郡)と清原氏(山北三郡)という豪族が出現する。  1051年、安倍頼良は奥六郡の南・衣川を越えて大和朝廷の領域に侵入した。 このとき朝廷側は源氏の棟梁・源頼義(八幡太郎の父)を陸奥の守に任じて現地に向かわせた。 これをきっかけとして俘囚と朝廷による前九年の役が始まる。 最初は源氏側についていた藤原経清が安倍氏についた為に源氏は苦戦を強いられる。 経清はもともと中央の藤原氏一族であり、この地に赴任した藤原の子孫であるが、 安倍頼良の娘婿となっていた為、味方となったからである。 ここで、俘囚の出羽・清原氏が源氏に味方をすることとなり戦局は一変して源氏有利となり、結局安倍頼良、息子の貞任は討たれ、経清も惨殺された。 これにより安倍一族の夢は敗れる。 これにより源頼義は伊予守、義家は出羽守、清原氏の棟梁・清原武則は鎮守府将軍となった。 これにより清原氏は出羽だけではなく奥六郡も手中にしたが1083年に清原氏の内紛が起こる。 このときの源氏は息子・義家の時代であるが、義家は陸奥守となって東北へ下り、内紛に乗じて奥六郡、山北三郡を源氏の勢力下に置こうとした。 結果、義家は清原武則の孫・家衡を討ち取り、(後三年の役)内紛を鎮めた。 これに対して朝廷は義家になんら恩賞を与えることなく、戦いが終わると義家を陸奥守から解任する。 源義家は部下達に自腹を切って恩賞を与えたために東国武士から信頼されることになる。 ところで、この二度にわたる戦いで清原氏の唯一の生き残りの藤原清衡が膨大な遺産を受け継いで支配者となる。 これが奥州藤原氏の初代藤原清衡である。 北方の王者といわれた秀衡は清衡の孫にあたる。

 ところで、この清衡は実は安倍氏に加わり処刑された藤原経清の子である。経清の妻は経清が殺された後、敵の清原武則の妻となり、家衡をもうけている。 この異父兄弟、家衡と清衡が後に戦うことになる。 義家の応援を得た清衡は勝利し、義家が京にもどったあと、もともとの藤原姓に復帰したのである。 膨大な経済力をバックに藤原摂関家に支配権を認めさせ、奥州平泉に中尊寺金色堂で象徴される王国を築く。 しかしこの栄華を妬むものがいた。 もちろん源氏である。もともとは八幡太郎義家の功績であることを考えれば当然であり、源頼朝が平家没落の後奥州藤原氏を攻めたのは、これらが主たる理由であり、義経を庇った藤原秀衡は大いなる失態を演じたことになる。 軍事の天才・源義経により平家は一瞬にして滅びたが、これは源頼朝が奥州をも手中に入れるには好条件となった。東国・鎌倉はそれまで奥州と西の平家に挟まれる形で両者から牽制されながらバランスを維持していたが、このバランスが崩れたのである。

 そもそも源頼朝は、弟であり、軍事の天才・義経をこうも攻め立て奥州に追いやることになったのか。 源頼朝の狙いは武家政権の確立が目的である。 平家を倒すことはその目標を達成するための条件の一つに過ぎない。 頼朝が義経に下した命令はというと、平家の殲滅ではなく、神器の奪回である。 実は頼朝からすれば義経の戦果は失敗なのである。二位尼に神器を抱いたまま入水され神剣は海中深くに沈んでしまった。 頼朝は義経に期待をしたからこそ激怒したのであるが、その前の一の谷の戦いにおいて大勝利した義経は後白河法皇から左衛門少尉検非違使に任ぜられたが、これは頼朝の許可を得ていない。 兄・範頼が三河守を任ぜられ自分が無位無官であることに疑問を持った義経は検非違使という極低い官位を頼朝の許可を得ずに受けたことに対して頼朝は激怒している。 武士政権を目指す 頼朝にとって、つまり朝廷から独立を目指す頼朝にとって、義経の行動は致命的なのである。 義経にはこのあたりのことが全く理解できなかった。 あの有名な腰越状には「このような要職につけたのは源氏にとっても名誉なこと」 と言っていることからも、義経の政治的な読みはなかったといえる。 実際に頼朝が恐れたことが起きた。 それは官位の魅力に負けて、23名もの人間が義経のあとを次いで後白河法皇に屈したのであるから、頼朝敗北ということになる。 そして頼朝は23人に対して御家人の資格・つまり鎌倉武士団の資格を剥奪し、東国に入ることを禁じた。 こうして義経が壇ノ浦で勝利した半年後には、頼朝は法皇に「義経追討の院宣」をださせ、つまり義経は公に犯罪人となり、奥州に逃げ延びるが、その末路は悲劇に終わる。 

 秀衡が病死してから奥州藤原氏が滅亡するまでの僅かに二年間に何があったのか。 秀衡がなくなった後、頼朝は後白河法皇に対して泰衡追討の院宣を求めた。 義経とともに泰衡も謀反人であるから追討しなければならないのであるが、真の目的は因縁の地である奥州を藤原氏から奪い、御家人達の結束を固めることにある。 後白河法皇はこれには応じず、泰衡に対して謀反人・義経を討つように命じた。 父秀衡の遺言は、義経を擁護して鎌倉と対立するときには義経を大将軍として対抗せよ、というものである。 しかし朝廷には逆らうことは出来ず、義経を討ったのである。 そして頼朝は1189年に新たな行動にでた。 もちろん奥州藤原氏の殲滅である。 義経を殺した藤原泰衡は逃げていく途中で家来の裏切りによって殺された。 裏切った河田次郎はその首を持って頼朝のもとに名乗りを上げたが、頼朝は「主君を殺すとは不届至極」と河田の首をただちにはねた。 奥州平泉の金色堂の本尊の下には藤原清衡・基衡・秀衡・泰衡の首のミイラが保存されている。 

 これまでの幸運に感謝すべく頼朝は源氏の氏神八幡大菩薩に願いを込めた。 頼朝は鎌倉に武家の都を築くにあたって京都から八幡神を招き、鶴岡八幡宮を建立した。 頼朝の父・源左馬頭義朝は、平治の乱で平清盛に破れ、再起を期して東国へ向かった。 その途中、郎党の鎌田政家の舅である長田忠致の館に逗留した。 1159年の大晦日のことである。義朝は勧められて風呂にはいったところを襲われ、憤死した。 父の訃報を聞いた長男・源悪源太義平は飛騨で再起の兵を募っていたが、京へもどり平清盛暗殺に失敗して処刑されている。 長田忠致は源氏の家人であり、まさに裏切り者であった。 頼朝が東国の主となったとき、長田は長男とともに頼朝元に降伏してきた。 頼朝は罪を許して暫くの間家来として働かせたが、頼朝の天下となったときに長田親子は呼び出され、父義朝の墓の前でなぶり殺しにあっている。 これらの鎮魂も含めて鶴岡八幡宮に込めた思いには計り知れないものがあるようである。

源満仲912-997              
 ┗源頼信968-1048(藤原通兼,道長に仕える)               
   ┗源頼義988-1075(陸奥守 前九年の役)⇔安倍頼良(奥六郡を根拠地 藤原経清が味方)               
     ┗源義家1039-1106(八幡太郎)      ┣貞任              
       ┃(出羽三郡を根拠地とする清原武則)┗娘(名は不祥)       
       ┃⇔清原家衡(後三年の役)  ┗武貞  ┣藤原清衡⇔家衡       
       ┃ 清原氏の残党:藤原清衡  ┗家衡 藤原経清┣藤原基衡      
┏━━━━━━┛                   北方平氏┣藤原秀衡
┃                             安倍宗任娘┣国衡
┃                                  ┣泰衡
┃熊野別当長快 (熊野田辺別当は湛増)                 ┣忠衡
┃ ┣  丹鶴姫(新宮別当行範の嫁)                   ┗高衡
┃ ┣  行家(新宮十郎)1145-1186                      
┃ ┃             ┣光家-1186           
┗為義1096-1156 伊藤祐親・娘 ┣行頼                    
 ┗義朝(河内源氏)┣ 息子  ┣行宗
   1123-1160     ┃     ┗養女(姉の娘) 
    ┃      ┃      ┣
    ┣ 源義平  ┃     左金吾(刀禰弾正介の嫡子)
    ┗ 源頼朝1147-1199(乳母比企の局) 

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熊野若王子神社

2007年12月01日 | 平安時代

熊野若王子神社

 京都は東山の哲学の道の南の終点にあるのは熊野若王子神社です。 南禅寺から永観堂を経由して紅葉を満喫し、熊野若王子神社の北隣にある叶匠寿庵という御茶屋さんで、抹茶菓子を楽しんだ後はここ熊野若王子神社へ立ち寄りました。 この近辺は紅葉の季節でなくとも人で賑わう名所です。   熊野若王子神社は後白河法王が1160年に熊野権現を禅林寺(永観堂)の守護神として勧請したのが始まりで、熊野神社・新熊野神社とともに京都三熊野のひとつに数えられます。 熊野と云えば和歌山の熊野古道で有名な熊野大宮神社ですが、鳥羽法皇をはじめ、後白河法皇も何度となく訪れました。 そしてとうとう京都の地に熊野を設けたのです。  八咫烏が梛の葉をくわえた姿はこの神社のシンボルとなっています。 八咫烏は神武東征で、大和入りしたときに、案内役をしたといわれる神の使いです。 また梛(なぎ)は熊野の神木です。 尚、裏山に同志社創立者新島襄の墓があります。 

 

 

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