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白河上皇期の藤原氏

2007年09月09日 | 平安時代

白河上皇期の藤原氏

 白河上皇が院政を振るっていた頃の特色は乳母(御乳母)の一族や受領層が院の近臣として進出したことである。 乳母の関係を通じて躍進した藤原氏で挙げられるのは藤原顕季である。 彼は母が乳母であったことから白河上皇の第一の近習として権力を握った。 そして播磨・尾張などの受領を経て得た財力で京内の数箇所に邸宅を構え、院の御所に提供したが、なかでも六条第は有名で、彼の呼称である六条修理太夫はこの邸宅に因む。 また白河院の歌壇の中心人物でもあり歌学の祖と仰がれた。 さらに孫娘の得子(美福門院)は鳥羽天皇の皇后となるなど、平家の全盛期から鎌倉時代にかけて公卿となって活躍する者を多く輩出している。 白河上皇に重用された為房は、妹が堀河・鳥羽天皇2代にわかって乳母を務め、参議となった。 同じく参議となった嫡男の為隆とともに摂関家の家司を勤めた。 次男の顕隆は妻が鳥羽天皇、娘が崇徳天皇の乳母という関係から、権中納言になっている。 顕隆は関白忠実の失脚後は「夜の関白」と言われ恐れられた。

 為房と顕季は藤原北家の出身ではあるが、目立たない存在であった。 ところが、顕季の子孫からは四条、山科、油小路といった諸家が分立し、為房の後は吉田、万里小路、葉室、勧修寺などに分家し、それぞれに後世で活躍する。 北家の中で為房と家系が近い邦綱は平清盛と結びついて頭角をあらわし、権大納言となっている。 初め、忠通、基実といった摂関家の家司を務めた邦綱は蔵人頭をへて公卿になり、諸国の受領を歴任しながら財力を蓄え、京内に営んだ邸宅は里内裏や御所にもなっている。 しかし邦綱の強みは3人の娘が六条、高倉、安徳天皇三代に渡って乳母を務めたことであり、さらに別の娘は建礼門院の乳母となった。 また、建礼門院の妹で関白・基実の妻となった盛子の後見役をするなど、清盛と深く結びついた。

 また南家で、その存在をアピールしたのは藤原通憲で妻が後白河天皇の乳母であった。学者の家柄ではあったが、下級貴族に甘んじていた通憲は出家をすることによって自由な立場で行動する道を選んだ。 そして出家によって信西と名を変えた彼は鳥羽院政の終わりと後白河院政の初期に活躍する。 交友を持った藤原頼長も一目置くほどの学識者であったが、平治の乱で命を落とすこととなる。 信西の家系では公卿はおらず、中納言の成範がトップに立っている。 高倉天皇の寵愛を得て範子内親王を生んだ小督は彼の娘である。

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