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道長と法華経

2007年09月28日 | 平安時代

道長と法華経

 道長の時代に最も尊重されたお経は法華経であった。「枕草子」には「」経は法華経さらなり」とあり、日常にもっとも親しみがあり、貴族社会に融和していたのは、法華八経とか三十講とかの法華経の講説であった。 法華経は一部八巻二十八品からなり、この八巻を朝夕二座を設けて四日間で講和するのを法華八経といい、追善供養の仏事として盛んに行われた。 また、二十八品に開結二経を加えて三十座三十日にわたり講和するのが、法華三十講である。 最も早くに行われた例としては988年性空上人が書写山円教寺で行ったものがあるが、藤原道長が行った例も早く、藤原邸では五月に行い、1005年以降は毎年恒例の行事となっている。 三十講も八講も巻五提婆品を講ずる五巻の日がもっとも盛り上った。1008年の法華三十講は四月二十三日から行われ、「栄華物語」では五月五日となった五巻の日の様子を描いている。 御堂関白記によると、この日の行道に加わったのは僧俗計百四十三人であり、土御門第の池の周りをめぐった。 また、このときに紫式部も参加し、 「妙なりや今日は五月の五日とて五つの巻にあへる御法も」 との歌を詠んでいる。

 三十講は道長主催で盛んに行われたが法華八講は広く一般で行われ、先祖の追善供養として命日の前後に特定の寺院で催された。 道長の父・兼家の忌日・七月二日には自邸二条第を寺にした法興院において法華八講が行われ、結願として道長は毎年参列している。 一月二十一日と考えられる道長の母・時姫の忌日には、法華経の講演を行ったり、僧を斎食させたりするのを通例とした。 姉で道長を取り立てた東三条院詮子の命日は十二月二十二日で慈徳寺での法華八講が行われ、道長はおおむね参入している。 また、一条天皇は1011年6月22日に崩御し翌翌年より円教寺で法華八講が行われた。 このように平安中期に最盛となった法華八講は、特に藤原氏北家を中心に催され、摂関家内部の嫡流意識と深いつながりがあると思われる。 栄華物語では道長は法華経の隆盛につくしたことを功徳として特筆し、自らが法華経を読誦し、人々がそれを習い、法華経を広めた。

 1005年10月に道長は宇治・木幡の地に浄妙寺三昧堂を建立している。 木幡は基経以来藤原氏の墓地であり、道長はその供養の願文によれば、若い頃から父・兼家に従ってしばしば木幡の地を訪れ、その荒廃を見て涙を流したという。 栄華物語には道長の思いとして、三昧堂建立の願意が述べられている。 道長は1004年に建立の地を定め、1005年になって藤原行成に鐘銘を書かせ9月28日に鐘を鋳造した。 10月18日には行成は道長の命により南門と西門にかける浄明寺額二枚を書し、具平親王が供養経の外題を書している。 19日の供養当日には月明かりの中、寅刻に出発、巳刻に鐘をうち、 「鐘の声、思ふがごとし」 と満足している。 藤原氏の公卿のほとんどが参会し、天台座主覚慶を証者、前大僧正観修を導師として、供養僧百口という大規模な供養であったという。 この日の願文と呪願文は式部大輔大江匡衡と菅原輔正が作り、藤原行成が書したもので、また堂の仏像を作ったのは仏師康尚であった。 「御堂関白記」にはこの供養の願意は、ここに眠る父母や昭宣公(藤原基経)以来の先祖の霊の菩提のためであり、今後一門の人々を極楽へ導くためであると述べている。 このように浄妙寺を建立することによって道長は摂関家の結束をはかったと考えられている。   

宇治陵・37号墓 (関白藤原基経の墳墓

 

宇治陵・36号墓 大津透著「道長と宮廷社会」ではここが藤原基経の墳墓としている

 

 9世紀までは葬儀の場が重要であり、墓は骨を捨ててある処にすぎず、訪れることもなく荒涼としていたようである。 藤原忠実(師実の孫)の談話を記した「中外抄」に、道長の孫にあたる藤原師実の仰せとして葬所と墓所の違いについて、こう述べている。 「葬所は重要ではなく、骨をば先祖の骨を置くところに置けば、子孫の繁栄するなり。 鷹司殿(源倫子)の骨をば雅信大臣の骨の処におきて後、繁昌す」 とある。 円融皇后・藤原遵子を前年奈良坂般若寺で火葬した後、木幡に改葬すべきか否かについて実資は、「先祖、木幡山を占して藤氏墓所となす。 よりて一門の骨を彼の山に置き奉る、ひたすら悪からざるなり。 藤氏繁昌し帝王の国母、今に絶えず。」 と改葬を主張していて、一族の骨を一所に集めると子孫繁昌をもたらすと考えられていた。

 ところで、浄妙寺は平安末まで栄えたが、五摂家の分裂もあり中世の廃絶した。 そのため長い間場所も不明であったが、1990年に宇治市木幡小学校のグランドで三昧堂と多宝塔と思われる基壇が発掘され、陶器なども出土した。 この発掘と、1062年に頼通が浄妙寺の大門から道長墓へ至った記述から、道長の墓の場所を推測することが可能となり、32号墓または33号墓が該当するのではないかと推測されている。 

32号墓 (藤原道長墳墓との伝承)

 

33号墓

 

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