金峯山埋経
金峯山とは吉野のさらに奥の大峰連峰の総称で山岳修行の第一の霊場である。 吉野の金峯山寺は山下と呼ばれ、中心の山上とは標高1719mの山上ヶ岳である。 山頂には湧出岩と呼ばれる巨岩があり、蔵王権現が湧現したところと伝えられ、現在も尚女人禁制である。 蔵王権現は金剛蔵王菩薩ともいい修験道の開祖役行者が金峯山の頂上で衆生済度のため祈請して感得したと伝える魔障降伏の菩薩であり、釈迦の化身とも弥勒の化身とも言われている。 この山頂付近から1691年に経塚が発見され1007年の約500字に及ぶ銘が刻まれた円筒形の金銅製経筒とその中には道長書写の経典残巻が発掘された。 日本で最古の経塚遺物であるだけではなく、道長の御嶽詣の状況が「御堂関白記」に道長自身が自筆で記して全容が伝わる点でも画期的な事例であった。
奈良・吉野の金峯山寺
蔵王権現には子が授かるという効験が信じられており、栄華物語では、翌年、彰子の懐妊がわかったときに「みたけのしるし」と喜び、皇子誕生を願っての御嶽詣であったことを述べている。 「御堂関白記」によると、8月2日に京を出発し、3日から6日は大安寺、壺坂寺などの大和の諸寺に泊まり、7日には野極(今の吉野蔵王堂の下方)に泊まり、以降尾根づたいに修験の道をたどり数多くの難所を経て10日に山上御在所の金照房に到着している。 翌11日は早朝沐浴ののち子守三所、三十八所、御在所に参詣し、ここで法華経百部と仁王経を三十八所のために、 理趣分を一条天皇、冷泉院、中宮、東宮のために、 般若心経を八大竜王のために供養している。 そして道長が書写した金泥法華経一部及び今度書写した弥勒経三巻、阿弥陀経・心経を供養して、金銅燈籠をたててその下に埋納したと記している。
この後、埋経、経塚の流行は続き、1031年良源の弟子覚超は比叡山横川において円仁書写の法華経を弥勒の世に伝えようと銅製の外筒一口を堂内埋納しようとした。 また道長の長女彰子もこれに賛同し、法華経一部八巻を書写して埋めた。 後の大正12年の発掘では金銅製経筒が出土し、彰子書写の経巻は腐っていたが、道長書写のは紺紙金泥の法華経ほか15巻が残り、東京国立博物館が所蔵している。 法華経は998年の書で10年前に書写したことがわkり、経筒銘によればその時から御嶽詣を願っていたようである。