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後三条天皇時代の藤原氏

2007年09月06日 | 平安時代

後三条天皇時代の藤原氏 

 生前の道長は、摂関を頼通、教通、頼通の子という形で継承していくように考えていた。 そして頼通はこれに沿って実弟の教通に関白を譲り、その際子の師実への継承を含ませた。 しかし関白となった教通は子の信長へという気持ちが強くなっていく。 そんな中で頼通が83歳で死去し、翌年教通も80歳で死去したために、予定通り、師実が関白を受け継いだ。 このとき白河天皇4年目の治世である。 すでに師実の養女・賢子は白河天皇の中宮になっていたので天皇と関白の関係は極めてよかった。

 頼通が関白を降りた翌年には後冷泉天皇が崩御し、代わって後三条天皇(母は禎子内親王)が即位する。 教通は73歳の高齢で関白になったが、天皇との外戚関係はなく、頼通、教通兄弟の娘は誰も皇子を生んでいなかった。 このことから後三条天皇は摂関家を抑えて政治を推し進め、さらに院政を推し進めようとして39歳で皇子の白河天皇に位を譲ったが、翌年病死したために院政の目的は達成できなかった。 また、それから間もなく、頼通、教通、上東門院(彰子)が相次いで他界したことで、情勢はおおきくかわる。 白河天皇は摂関家の晩鐘につけこんで権力を握りつつあり、この10年後に院政を敷くこととなるのである。

 東国を中心にした内乱の勃発は、中央政府の権力は衰退し、力をつけてきた地方豪族が躍進を示すものである。 そして清和源氏の義仲、頼信、頼義、義家の系統で代表される源氏は着々と勢力基盤を築いていく。 因みに、その延長線上に鎌倉幕府が誕生するが、それは30年後のことである。

 奥州での内乱が終息した頃、京都では新しい政治体制が生まれた。白河天皇が34歳で上皇となり、8歳の堀河天皇に関白・師実を摂政につけて、自ら幼帝を後見したのである。 師実は10年で関白を嫡男の師通に譲った。 33歳の師通は16歳の天皇と新鮮な感覚で政治を行い、上皇の政治介入を抑えていた。 師通は「今上天皇にお仕えするのが当然なのに、上皇の門前に車が止まっていいのか」 と、上皇の御所に参上する者を暗に批判したが、彼の死後はそのようなことを言う人もいなくなったという。 気性が強くまっすぐな性格に加えて度量の大きい師通の時代は、清廉潔白な賢人を登用して政治を行ったので、天下もきちんと治まったと言う。 学問を好み、漢詩、和歌、枇杷、書にすぐれた摂関の鏡のような師通が38歳で亡くなったときには「天は才能と寿命の二物を与えなかった」と惜しまれている。 白河院政が軌道にのるのは、師通の死後であることを思うと、院政期の摂関のなかで最も力を発揮したのが師通であったといえる。

 堀河天皇が29歳で崩御するのは師通の死後8年後のことである。 師通なきあとは嫡男の忠実が後を継ぎ、堀河天皇の崩御に伴う5歳の鳥羽天皇の摂関・関白を勤めた。 その間に忠実は娘の泰子を鳥羽天皇に入内するように勧められたのを渋ったことで、白河上皇の反感を買い、関白の罷免に追い込まれ、宇治の別荘に籠居せざるをえなくなっている。 しかし8年後に白河上皇が崩じ、鳥羽院政にかわると、忠実の復帰が叶い、泰子は鳥羽上皇の皇后に迎え入れられた。 忠実のあと関白となった子息の忠通とは折り合いが悪かったが、これは白河上皇にあった。 摂関の任免権を上皇が掌握したからである。 かつては天皇といえども手が出せなかった、という以上に天皇東宮の擁立や廃止すら行うほどに権勢を誇った摂関も地に落ちてしまったのである。 

 忠通の38年間に及ぶ摂関は頼通につぐものであるが、次男の頼長を偏愛する忠実親子との対立に明け暮れる毎日であった。 忠実から関白を頼長に譲るように強要された忠通がこれを拒むと、怒った父は忠通を義絶し、氏長者をとりあげて頼長にあたえてしまった。 こんなことで怯む忠通ではなく、彼は父子のことを鳥羽上皇に中傷することで心証を悪くして反目を増すばかりで、ついに上皇崩御後に保元の乱として爆発した。 敗れて負傷した頼長は死に、忠実は蟄居した。 乱の2年後に天皇が後白河から二条にかわったのを契機に忠通は関白を16歳の嫡男・基実に譲り、法性寺に住んだ。 忠通のことを法性寺関白といい、能書でならした彼の書風を法性寺流というのはこれに因んでいる。 

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