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法成寺

2007年10月02日 | 平安時代

法成寺

 道長が仏寺の造営に力を入れた頃、世は乱れ1052年から末法の世が始まると信じられていた。上東門邸の東に造営された中河御堂は後に法成寺と呼ばれ規模を拡大していく。 嬉子の死後(1025年)、三昧堂が建てられ、妍子の為に阿弥陀堂で大掛かりな供養が営まれた。 道長がこの世を去るのは妍子の死後間もなくの1027年12月4日である。 妍子の死の直後から痩せ衰え、重態に陥り背中の腫瘍の切開に手間取ったために病状がさらに悪化した後に息を引き取った。

 藤原道長は、胸病の為、1019年に土御門第にて出家した。戒師は院源、法名は行観、54歳であった。その後病がもちなおすと7月に阿弥陀仏の造立を発願し新堂の造作をはじめ翌年阿弥陀仏九体と観音勢至菩薩が完成し安置された。場所はみずからの主邸・土御門第の東隣で、これを無量寿院と号して彰子・妍子氏・威子の参列を仰ぎ、落慶法要を行った。この無量寿院に堂塔が建て増しされて成立したのが法成寺である。 これは摂関期最大級の寺院で、次々と堂舎が建てられ、その規模は東西2町・南北3町に及び、伽藍は豪壮を極めた。『栄華物語』には、西側の阿弥陀堂、中央の金堂・五大堂・十斎堂、東側の薬師堂、釈迦堂、東北院、西北院などの様子が描かれている。 法成寺は平等院の範となった寺院でもあり、当時、鴨川方向から見れば、ちょうど宇治川方向から見た平等院のようであったと思われる。 なお、道長の日記とされている『御堂関白記』の「御堂」とは、この法成寺のことを指している。1058年に大火で伽藍ことごとく焼失したものの、道長の子・頼通は直ちにこれを再建した。そして、孫である師実へと引き継いだ。しかし鎌倉時代に入ると伽藍は荒廃し、1219年に全焼し廃絶した。

「よみがえる 平安京」京都市企画、村井康彦編集、淡交社より

 阿弥陀堂には九体阿弥陀が本尊として安置され、十一間の堂となっている。 薬師堂は十五間であり、ここには七仏薬師と六観音が安置された。七仏薬師は当時、安産などを願う連壇法として盛んで、六観音法も六道衆生の苦を取り除くために院政期に栄えた多壇法である。 また、釈迦堂には釈迦如来像と百体の釈迦像が置かれた。 また多くの建物は廊で結ばれており、これは寝殿造のものと同じ板敷きで、法会の際には人々の居室にあてられた。 また鐘楼と経蔵が寝殿造の釣殿のように伽藍の南におかれ、中央の池・中島とあわせて重要な景観となった。 「栄華物語」にはこの様子を次のように伝えている。

『庭の砂は水精のやうにきらめきて、池の水清く澄みて、色々の蓮の花並み生ひたり。その上にみな仏顕れたまへり。仏の御影は池に写り映じたまへり。東西南北の御堂御堂、経蔵、鐘楼まで影写りて、一仏世界と見えたり。』

 この伽藍様式は寝殿造の構成を応用したもので、後の平等院に継承され完成するのである。

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