行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

読書記15 『阿部一族』

2007-12-24 21:31:20 | Weblog
   『阿部一族』(森鴎外 著)
 明治天皇崩御の際の乃木希典殉死に衝撃を受け、本書の執筆に至った。殉死とは忠誠の究極的な姿なのだろうか。

 時代設定は、江戸初期の熊本細川家、当主忠利(三斎忠興の三男)の死後、家臣の殉死を巡って生前より忠利から「生きて息子(次代当主、光尚)を援けよ」として殉死を許されなかった阿部弥一右衛門とその一族の物語である。殉死というのは、死んだ主人を追って死出の旅立ちを共にすることで、幕府成立初期から4代将軍家綱が殉死を禁ずるまで不文律として、家臣にとって忠誠の極みであった。ただ、主君の許しも無く切腹をするのは許されず、主君からの許可、或いは、直接的な許可が無くとも生前の関係から黙契があったとする殉死があった。殉死した家臣は、スムーズな相続や残された家族への手当も保障された。反対に許可の無い殉死は犬死として扱われ、何の名誉も無い。 藩にとって、次代に当主が移った際の助力として、損失も大きいが、主君と家臣の結びつきの強さが証明され、残された家族も安泰となる。
 忠利の若い頃から忠勤した阿部弥一右衛門は、殉死するのが自然に感じていたし、周囲もそうした見解を抱いていた。しかし、最期まで殉死は許可されなかった。されないまま忠利は没した。次々と家臣が殉死していく中、側近であった弥一右衛門は殉死できなかった。世間は冷たいもので、殉死した者への喝采はするが、殉死すべき人物が生き永らえるのを良しとしない。弥一右衛門は苦しみ家臣らが殉死して数日後、息子達に事情を話し切腹した。
 さて、阿部家は細川家の家臣の中でも1500石を有する強力な家臣であった。通常、相続が発生すれば、長男に引継がれるが、この場合は違い、他の息子達に分割相続となった。合計で1500石は変わりが無いが、阿部家長男としては面目を潰された格好であった。そこで長男・権兵衛は忠利一周忌に髻を忠利の墓前に供えた。それは決して乱心ではなく、権兵衛は、武士としてのけじめを付けた。しかし、光尚は自分の決定を否定されたようで怒り、権兵衛を縛首にしてしまった。縛首などは罪人に対し行うもので、武士に対して本来行うものではない。武士ならば切腹で処するものである。この扱いに、弥五兵衛以下、阿部一族は恥辱を受けたと激怒、阿部家の館に立て篭もるのである。光尚は家臣を派遣し鎮圧した。討取る方も討取られる方も旧知の間柄。様々な思いが交錯していた。そして阿部一族は全滅した。

 藩への忠誠か、藩主個人への忠誠なのか、江戸初期の武士の倫理が確立し切っていなかった時代の物語である。

 さて、乃木大将の殉死。『殉死』(司馬遼太郎 著)には、殉死に至るまでの経緯を描いている。西南戦争では薩摩兵に軍旗を奪われ、日露戦争では、数多くの兵卒を拙劣な作戦で死なせ、自分の息子も失っていた。死に場所を求めていたのかもしれない。乃木のけじめ、というのが、自分を引き立てた明治天皇への殉死だった。
 松平信綱は、3代将軍家光が死去した際、殉死せず非難を浴びたが、彼は生き残って幕政を支え、4代将軍家綱を良く補佐した。彼は、時代が自分を必要としていたことを知っていたし、実際その通りだった。

 今日は12月24日 街が浮かれているこんな日に私は一体、何を考えているのだろう?

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