行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

読書記37 『関ヶ原』

2008-06-20 23:46:17 | Weblog
 『関ヶ原』(司馬遼太郎 著)
 豊臣秀吉の弱点は、何と言っても譜代の家臣がいない事であった。彼一代のうちは、創業者として諸侯を抑えておく事ができるが、亡き後は再び割拠の時代が到来する。寺の小姓から引き立てられた石田三成が、豊臣家を護るため全知全能を賭けて天下分け目の戦を練っていく。そしてその決着後、京都に上洛した黒田如水が豊後に帰国するまでを描いている。

 関ヶ原の合戦は結果は周知の通りだが、この日本最大の合戦までのプロジェクト、この合戦に関わる諸大名の思惑、苦悩などが描かれて興味深い。確かに19万石の小大名が250万石の家康相手に互角、むしろ兵力的には家康に勝っていた。合戦の大義名分は三成に分がありそうだが、秀吉亡き後の政権の担い手は家康以外に居なかったし、当時の世の人々もそう考えていたに違いない。一度訪れた天下統一の平和を、再び群雄割拠の時代を望むべくも無いのだから。

 石田三成。この人物は義の人であった。関ヶ原で敗れたとは言え、彼ほどの才覚であれば、徳川政権内でも十分な能吏であるが、豊臣家のためには徳川家康を取り除かねばならない。その危険予測は間違いではなったし、多くの大名が秀吉亡き後、家康に接近していく中、彼は自分を引き立ててくれた師匠に殉じた。盟友大谷吉継は、三成では家康に勝てないから自重するよう説得し続けたが、強い決意を知り友に殉じた。関ヶ原合戦後、西軍を裏切った者達は、我先にと、佐和山城を攻めたが、なんとも浅ましい姿である。

 秀吉子飼いの加藤清正や福島正則らは、後に自分達が改易(加藤清正は病没し、子が改易)の憂目にあった時、関ヶ原を悔いたのではなかろうか、と想像してしまう。
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