行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

読書記41 『蟹工船』

2008-08-25 18:52:54 | Weblog
   『蟹工船』(小林多喜二 著)
 文学史で分類するプロレタリア文学は、大正中頃から昭和初期にかけて興った文学運動である。思想的には、第一次世界大戦後の労働者と資本家の対立の激化を背景として、社会主義思想に基づいた革命を文学で興したもので、1926年の北洋の蟹工船での実際の事件を基に、1929年にプロレタリア文学の代表的作家である作者が発表したものである。
 
 サハリン、カムチャツカの海洋で蟹漁を行い、その船で缶詰を製造する労働者(水手、火手、労働者)と使用者(資本家)の対立の過程と革命に目覚める労働者の心情を描いている。海上に浮かぶ船は、缶詰製造も行い、動く工場であった。この船上の労働者にとって、第一の使用者は船長ではなく、船長よりも現場監督であった。
 当時の世相は、第一次世界大戦後、日本では金融恐慌が起こり、徐々に不況が加速していった頃である。資本家達は安い労働力で利潤を上げようと躍起になっていた時代だった。田舎の小作農らは、田を安く買い叩かれ、都市に流入するか、身売りして過酷な労働者となるかしかなった。都市に流れても結果は同じである。都市に仕事はなく、結局は労働力を提供するしかなくなるのである。国内の工場では、労働者の権利が僅かながらも芽生えており、組合組織も未熟ながら誕生し、使用者が一方的に労働者を使役するのは、少し難しくなっていた。しかし、海上の船で、しかも労働組合や労働者の権利には無関係な人間達を集め、使用者は傍若無人に振舞っていた。労働者はいつ殺されても不思議ではない状況下であった。廃船間際のボロボロな船で北洋の海域で作業をし、一歩間違えればロシアと衝突しかねない場所であったにもかかわらず、悪天候でも出漁し、何百人もの労働者を遭難させても使用者達は船を気遣った。ロシア近郊で漁をしているため、一応、護衛のために駆逐艦が並行しているが、それを使用者である現場監督が「日本帝国のために、我々は働いているのだ」ともっともらしい言い方を労働者達に伝える。本当は、一部の資本家がその利潤を貪っているだけなのだが。
 出漁した数隻のうち、一隻はサハリンへ漂流した。そこでロシアの社会主義の断片を知る。日本人、とりわけ出漁している労働者にとって、それは魅力的な話であった。そうした知識を他の船の労働者達に伝え、簡単な労働組織が出来上がる。学生上がりの労働者が組織図を作り、各部署の代表者を決め、監督者に分からないようにサボタージュを一斉に行い、やがて、監督者ら使用者との話合いが持たれる事となった。何百人という労働者と10人に満たない使用者では、使用者が命の危険を感じ、穏便に済ませようと、返事を引き延ばし、護衛の駆逐艦隊に通報する。日本帝国軍は国民の味方だ、と労働者は楽観していたが、学生上がりだけは、「失敗した」と言っていた。果たして、労働者の代表達は連行されてしまったが、それを見ていた他の労働者は、全員で駆逐艦隊に立ち向かう決意をする。「このままでは殺されてしまう。死ぬか生きるかだからな」と彼らは立ち上がった。

 この作品で作者は不敬罪に処された。その後、1933年非合法活動の中、治安維持法違反で逮捕され、即日拷問死した。この作品の発表時、国民は冷ややかな反応だったのだろうか、それともこれに同調して革命に惹かれたのか。しかし、表現の自由を許さない当時の日本は労働者の組織さえ禁止する法律を作り上げた。この反省から「思想・良心の自由」、「表現の自由」が戦後生まれた。
 出典を失念したが、大分前に作者の拷問死の写真を見たことがあった。とても人間だった事が分からないくらい酷いものだった記憶があり、こうした多くの犠牲の上で今の日本があることを忘れてはならない、と感じた。
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