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沖縄で初の抗議集会-米兵の女児暴行事件

2007-10-21 02:18:21 | 国内政治
 「黙っておれぬ」 沖縄で初の抗議集会-米兵の女児暴行事件(1995年09月23日)
 
 沖縄駐留米兵三人による小学生女児暴行事件で二十二日夕、同県婦人連合会(赤嶺千寿会長、約四万人)主催の抗議集会が那覇市内の小学校体育館で開かれた。事件後、初めての抗議集会で、参加した約五百人の女性たちは強い口調で米軍を非難、日米地位協定の見直しと基地撤去を叫んだ。

 沖婦連は、県内五十三市町村の地域婦人会で構成。事件後、会員から「抗議行動を起こそう」との声が事務局に寄せられていた。

 スローガンは「米軍よ鬼畜になるな!」との激しい文句。あいさつに立った赤嶺会長は「人間ならこういうことはやってはならない、という理性が働くべきだ。獣になるな、野獣になるな、と言いたくてスローガンを決めた」と説明。「なぜ、沖縄だけがこのような被害を受けなければならないのか。私たちは黙っておれない」と訴えた。

 このあと、各地域代表が意見を述べた。中部地区婦人会の平田照子会長は「被害者へのいたわりの言葉も、米兵への怒りの言葉も見つけることができないほどショックを受けた。基地があるがゆえの事件。基地撤去を目指して母親が立ち上がろう」と訴えた。

 最後に「米軍基地の早期撤去」と「日米安保条約と日米地位協定」の廃棄を求める抗議決議を採択。プラカードを手に那覇市内をデモ行進した。抗議決議は在日米軍や在沖米軍に送る。

米兵の女児暴行事件に抗議 怒りの総決起大会(1995年10月22日)
 
 米兵による小学女児暴行事件に抗議し、日米地位協定の見直しなどを求める沖縄県民総決起大会が二十一日、宜野湾市の海浜公園で開かれ、約八万五千人(主催者発表)が参加した=写真。基地問題を、日米地位協定の運用改善などで乗り切ろうとする政府の姿勢を厳しく批判、抗議決議と大会アピール「世界に届け沖縄の心」を発表し平和への願いを国内外に訴えた。

 県議会や労組、弁護士会など約三百団体で作る実行委員会が主催。会場は基地撤去や事件に抗議するプラカードやゼッケン姿の参加者で埋め尽くされた。東京や大阪、九州など県外からの参加者も三千人に上り、久保亘社会党書記長や伊藤宗一郎元防衛庁長官ら自民、社会、さきがけの与党三党の国会議員も参加した。

 まず嘉数知賢実行委員長(県議会議長)が「人権を奪い、人間の尊厳を踏みにじる事件を二度と起こしてはならない。いま我慢してはいけない」とあいさつ。

 続いて大田昌秀知事は、米軍用地への土地強制使用の代理署名の拒否について「基地問題でこれまで日米政府に協力してきた。今年は戦後五十年の節目の年。今度は我々に協力してくれなければ今まで通りにはならないと繰り返し言ってきた。そういう県民の意向を踏まえて署名を拒否した」と説明。「若い人に夢と希望を与える沖縄にするため一層のご支援をお願いします」と訴えた。

 大会では(1)米軍の綱紀粛正と犯罪の根絶(2)被害者への謝罪と完全な補償(3)日米地位協定の早期見直し(4)基地の整理・縮小を掲げ、「事件発生以降の政府の対応ぶりに強い憤怒と不信感を覚える。沖縄の現実に政府はどのような抜本的解決策を示しえるか注視しており、戦後政治と日本の民主主義が試されることにもなる」とした決議を採択。

 八万人規模の全県的な集会は本土復帰前の一九五六年、土地収用への反発を機に起きた「島ぐるみ闘争」以来三十九年ぶり。

 実行委代表は二十三日に上京、村山富市首相やモンデール駐日大使らに決議文と大会アピールを手渡す。

 記者の目:沖縄女児暴行事件 基地の存在こそ再考を(1995年09月26日)
 
 今月四日、沖縄で起きた米兵三人による小学生女児暴行事件は、その凶悪性から県民だけでなく日米両国民に大きなショックを与え、外交問題にまで発展した。沖縄では抗議集会が相次いで開かれ、基地撤去を求める声も広まる一方だ。二十六日夜には、基地飛行場のすぐそばにある小学校で、沖縄平和運動センターが三千人規模の集会を開く。盛り上がりは二十三年前の本土復帰闘争以来という。日米地位協定の見直し要求や「ノーモア基地」の声が高まる中で、なぜここまで抗議運動が広がっているのか、背景にあるものを伝えたい。

 ◇本土に伝わらぬ“痛み”

 「皆さん、極悪非道な事件がまた発生しました。米兵が沖縄県民を虫けら以下に見ているからです」「基地があるがゆえの犯罪。今度は少女が被害者。断じて許せません」--二十二日夕、那覇市内の小学校体育館で開かれた沖縄県婦人連合会(赤嶺千寿会長、約四万人)の集会では、各地域婦人会から参加した約五百人の女性たちが激しい言葉で事件を非難した。

 容疑者が検挙され、事件が報道されたのが今月八日。抗議運動は翌日から始まった。市民団体、労組、自治体、政党など四十を超える団体が連日、波状的に在沖米国総領事館に抗議に押しかけた。議会も次々と抗議決議。二十二日現在で、県のほか五十三市町村のうち三十三市町村議会が決議している。

 事件は、少女の目や口をふさぐ粘着テープまで準備し、レンタカーで待ち伏せして拉致(らち)するというショッキングなものだった。沖縄県警は婦女暴行容疑などで三人の米兵の逮捕状を取り、二十二日、那覇地検に書類送検した。そんな凶悪事件にもかかわらず、容疑者の身柄は、日米地位協定により日本の検察が起訴するまで米軍側にある。

 事件後、私は米軍関係者が絡んだ犯罪データを見てさらにショックを受けた。

 検挙件数四千七百九十件、検挙者数四千五百八十八人--。沖縄県警がまとめた一九七二年の本土復帰から昨年まで二十三年間の数字である。

 殺人二十一件二十七人▽強盗三百五十五件四百八十一人▽婦女暴行百十一件百二十四人--など、凶悪事件だけでも五百十件六百四十三人に及ぶ。昨年は百九十六件九十八人を検挙。今年も交際上のトラブルで女性一人が米兵に殺される事件が起きた。

 基地の少ない本土では想像できない数字だが、在日米軍の七五%が集中し、五万人を超える軍人・軍属らを抱える沖縄の現状である。

 事件だけではない。基地から派生する航空機騒音や事故もある。嘉手納(かでな)基地周辺では騒音被害が深刻で、住民九百七人が夜間の飛行差し止めと損害賠償を求めて裁判で争っている。

 昨年四月には、嘉手納基地のF15イーグル戦闘機が離陸に失敗して住宅地に近い基地内に墜落。ちょっとずれていれば大惨事になるところだった。そして昨年八月と今年九月には、沖縄西海上の射撃訓練海域でハリアー攻撃機が墜落した。

 沖縄県と県議会は、事件・事故が起きるたびに担当職員と議会代表が上京し、横田基地の在日米軍司令部と駐日米国大使館に抗議書を手渡してきた。こうした沖縄の苦労は、本土ではほとんど知られていない。そこに、「ヤマト」(大和=本土)に対する沖縄県民のいらだちがある。

 ◇抗議の背景に不平等感

 嘉数知賢県議会議長(自民)は、抗議運動の全県的広がりの背景をこう説明する。

 「米軍には再三再四、抗議してきたが、事件・事故は後を絶たない。おまけに、凶悪な今回の事件が、復帰前の占領時代を思い起こさせた。一方、復帰後二十三年たっても基地は変わらず、県民は本土との不平等感を絶えず感じて生活している。こうした不満が、事件をきっかけに一気に噴き出した」

 一年前の宝珠山昇防衛施設庁長官の“共生・共存発言”も尾を引いている。「沖縄県民は基地を受け入れ、基地と共生、共存する方向に変化してほしい」というものだが、基地被害に泣く沖縄県民の激しい反発を買い、宝珠山長官は発言を撤回し陳謝した。

 当時、村山富市首相に宝珠山長官の退任を迫った新垣善春社会党県本部委員長は「あの発言で県民の魂が呼び起こされた。今回は、我慢強いウチナーンチュ(沖縄の人)ももう黙っていない。目標は基地の全面撤去」と言う。

 沖縄県が要請した日米地位協定の見直しについては、両政府で協議機関をつくり検討していくことで合意した。しかし、沖縄県民は今、政府に対し新たな不満と不信を持ち始めている。事件が日米の外交問題に発展して以降、協定の見直しばかりがクローズアップされ、沖縄が抱える基地問題がかすんでしまった感があるからだ。

 地位協定の見直しは、何も難しく考える必要はない。事件を起こした被疑者が、その国の司法当局に拘束され取り調べを受けるのは当然だと思うからだ。今回問題となった身柄引き渡しに関する「十七条五項C」に限らず、総点検すべきである。

 沖縄の人たちが“ヤマト”に向けてよく言う言葉がある。「日米安保が大事と言うなら、基地を沖縄から東京に持っていってほしい」

 日米は今年五月、沖縄の基地のうち、那覇軍港の移設と読谷(よみたん)補助飛行場の返還に合意した。しかし広大な基地が今後も残ることに変わりはない。冷戦構造が崩壊した今日、果たしてこんなに巨大な基地が必要なのか。戦後五十年の今年を、地位協定問題で終わらせず、基地の存在そのものを抜本的に見直す年にしてほしいと思う。 <那覇支局・大賀和男記者>

 記者の目:沖縄の米兵犯罪防止 地位協定改定こそ第一歩(2001年08月22日)

 ◇「痛み」に目を向けよう

 沖縄県北谷(ちゃたん)町で6月29日に起きた米兵による女性暴行事件は、米兵容疑者の身柄引き渡しが遅れたことで日米地位協定改定の議論が巻き起こり、外交問題にまで発展した。本土でも1995年9月の少女暴行事件以来の関心の高まりをみせたが、容疑者の身柄が引き渡され、参院選が終わると、中央の政治家からは沖縄問題への積極的な発言が聞かれなくなり、本土での関心も急速に薄れているように思う。しかし、米兵の犯罪が相次ぎ、基地の存在に苦しむ沖縄の現実は何も変わっていない。私たち本土の人々は沖縄の痛みにもっと目を向けるべきだと感じる。

 今回の事件発生の翌日、応援取材のため沖縄へ飛んだ。沖縄署では連日、米兵の事情聴取が続いたが、7月2日に米兵の逮捕状が出た後もあくまで任意の聴取だった。しかも米兵が「昼食は基地の中でとりたい」と主張すると、身柄は沖縄署から米軍基地に戻され、4時間も昼食休憩をとってから署にやってくる。聴取が夕方に終わる日もあった。日本人が容疑者であれば考えられない事態に「国内の事件なのに米兵というだけで逮捕できず、本当にここは日本なのか。とても主権国家と言えない」という思いが募った。

 日米地位協定では「米兵容疑者の身柄が米軍にある時は起訴するまで米軍が身柄を拘束する」と定めているが、95年の少女暴行事件の苦い教訓を受け「殺人、婦女暴行の凶悪犯罪では、日本が起訴前に容疑者の身柄引き渡しを求めた場合、米側は好意的考慮を払う」との運用改善で合意している。今回の事件は、この合意内容にある凶悪犯罪だったが「好意的考慮」を払うのはあくまで米側。米側が身柄引き渡しに同意し、沖縄署が逮捕できたのは、逮捕状が出てから丸4日も後だった。

 6年前の米兵による少女暴行事件が発生したとき、私は名古屋で記者をしていた。現地・沖縄で約8万5000人もの人々が集まった「怒りに燃える県民集会」が強烈な印象として残っている。ただ、その後、怒りが収まったかのように見えたのが「なぜ?」と不思議だった。

 今年4月に九州に赴任し、沖縄担当になった。今回、6年前に抱いた疑問を胸に、沖縄の人たちの気持ちを聞こうと思った。

 驚いたのは事件直後に米軍が基地を開放したイベントで大勢の県民が楽しんでいたことだ。沖縄の人は基地への不満や怒りを忘れてしまったのだろうか。

 聞くと、ほぼ全員が「基地には遊びに来ただけ」と答え、事件については「また起こしたか、と腹立たしく思っている」と憤りや米兵への不信をあらわにした。沖縄市の主婦(24)は「米国人には友人もいるけれども、米兵は威張っていて嫌い」と話し、宜野湾市の男性会社員(40)は「基地のおかげで生活する人もいるが、基地はないほうがいい」と言い切った。沖縄県民は複雑な思いを抱きながら、心の中で事件に怒っていた。

 怒りの背景には、少女暴行事件後も米兵の事件はいっこうに減らず、沖縄にとって米兵の事件が日常茶飯事である現実がある。沖縄県の基地対策室によると、米軍関係者の刑法犯罪は、96年39件▽97年44件▽98年38件▽99年48件 ▽00年53件▽01年1~6月35件。今年も放火や傷害などの事件が相次いでいる。今年1月、北谷町で屋台5店舗が全半焼した米兵による放火事件で、被害店主の一人は「人生を狂わされた。日本政府が米国にこびを売っているから、こんなことになる」と嘆いた。

 7月29日投票の参院選は、そんな沖縄での民意が問われた。選挙区では3人の候補者全員が日米地位協定改定を訴え、自民新人が当選。比例代表では社民党から立候補した大田昌秀・前知事(76)が県内での15万8888票の大量得票を支えに当選した。選挙期間中、ある労組幹部は「98年11月の知事選で敗北した大田氏への県民の目は厳しい。県内で10万票は取れない」と断言したが、その予想は外れた。県民の複雑な心の一端をのぞかせる結果だった。自民候補を勝たせる一方で、革新県政を担い基地問題解決に奔走した大田氏を、平和を願う沖縄の象徴的存在として政治の舞台に返り咲かせたのだ。

 今回の女性暴行事件の怒りは沖縄の人々の心に深く刻まれている。静かな怒りは、いつか再び爆発し、日米安保体制の根幹を揺るがせるかもしれない。米兵犯罪を防ぐためには基地の整理・縮小が根本的な解決ではあろう。だが、まずは容疑者を普通に逮捕できるようにする日米地位協定の改定こそが、解決への一歩では、と思う。=中村宰和(西部報道部)

(出所:毎日新聞 2007年10月19日)
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