かつてシドニーに暮らしたことがある。シドニー・ハーバーに浮かぶオペラハウスは、シドニーの象徴だ。これは何をイメージしたものか。貝殻かヨットの帆とされる。目をシドニー湾に向けると、実は、無数のヨットが浮かんでいる。大きな貨物船も入り、その上、市民の足となっている海上バスも分刻みで運行している。そのなかで、よくまあ事故が起きずにすんでいるなと感心してしまう。
我が東京はどうか。レインボー・ブリッジからの眺めは、シドニー・ハーバーに負けないほど美しい。しかし、そこに欠けているものは、ヨットだ。かわりに、醜悪(関係者には申し訳ない。しかし、ヨットとの比較です。)な宴会遊覧船だ。
東京はもともと水の都であった。それは、江戸時代までの輸送手段が海運にたよっていたことと無縁ではない。江戸の町には、水路が張り巡らされ、そのインフラが、当時の世界最大の人口を擁する都市を支えたのだ。運送に限らず、浮世絵に数多く描かれているように舟遊びは、庶民の娯楽でもあった。いまも、水路自体は日本橋、築地、芝浦などに数多く残されている。
東京は、シドニーに匹敵する海洋レジャーの潜在力を持っている。しかし、その潜在力が死蔵されている。今水路を利用しているのは、ほんのたまに通るゴミ運搬船くらいだ。
シドニー湾は入り組んでおり、陸地に20キロ以上入り込んでいる。そこかしこにある入り江は、全体を覆うようにびっしりとヨットが係留してある。また、自宅にモーターボートを持っている人も数多くいる。ハーバーには、public jetty、 誰でも使える駐車場付きのボート積みおろし発着設備がある。シドニー・ハーバーに面して数多くの豪邸があるが、そのステータスを示すものが private jetty の存在だ。自宅の庭先からボートやヨットに乗り、レジャーに出かける。
日本が貧しい時代、人々は日常的に舟と暮らしていた。世界に冠たる先進国になり、国民が豊かになった今、海洋娯楽は人の手の届かないものになってしまった。
日本には、すばらしい海岸自然環境があり、モーターボート(自動車より安い)やヨットを購入する資力も十分ある。しかし、世界標準の海洋娯楽は楽しめない。
なぜか、海洋娯楽インフラがないからだ。東京でヨットやボートを楽しもうと思えば、石原慎太郎や、加山雄三が楽しんだ湘南の葉山のマリーナ(あるいは更に遠い油壺)に行くしかない。係留施設は限られ途轍もなく金がかかりそうだ。その葉山マリーナですらドライヴがてらに立ち寄る感じでは、経営状態は良好ではなさそうだ。
東京を世界標準の海洋娯楽都市にするために、いまある水路に係留施設を設置し、年間使用料をオークション方式で売ることを考えるべきだろう。収入は、更なる施設整備と水路の美化に当てればいい。都の水路整備管理予算の削減にも寄与するだろう。
東京湾にヨットが溢れる日、それが東京が世界標準の都市になった証となろう。
(日本で係留施設の整備が進まない原因はなにか。それは、漁業権のせいだと聞いたことがある。日本の海は、公共のものではなく、どこかの漁協のものなのだ。漁民が少しでも漁の妨げになるものを嫌うのは良くわかる。しかし、漁業が不振の今、漁協は、単に漁業振興を考えるのではなく、総合的に海洋資源の活用を考えるべきだろう。大規模な係留施設を整備すれば、漁協の関連収入もふえるだろう。)
(現在、安倍政権は経済成長戦略を策定中であるが、海洋インフラの整備による海洋娯楽需要の開放は、大きな力になるだろう。仄聞によれば、議論は、かつての通産省が行なったターゲティング政策に類似したものになるという。これは、過ちだ。官僚と特定産業の癒着以外のものは生まれないだろう。政府は、制度を含む広い意味での産業インフラの整備に特化すべきだ。税制、知的財産権制度や地籍整備など。医療では、治験をめぐる制度。海洋娯楽関連のインフラ整備も、世界水準から大きく遅れているという意味で、優先的に取り組むべきだろう。)