uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
だからblogで訴えます。


国民の英雄たるもの、国民から遠く離れていてはいけない。高い台座に上って、国民の生活と無縁なところに収まるべきでない。~チェ・ゲバラ~

2021-09-14 02:49:21 | 日記



もうすぐ新しい日本の首相が決められるそうな。

そういう指導者候補たちに贈ります。

左翼だの、右翼だの、保守だの、革新だのの思想の話ではありません。
リーダーの心構えの話です。



この曲は革命家チェ・ゲバラの精神が世界を席巻していた頃の歌です。

あの頃の熱い情熱を思い出してください。
若しくは思い起こしてください。

あなたの魂に響け!!



(邦題)『革命ロック』

Thunderclap Newman - Something In The Air (1969)







この曲は映画『いちご白書』の挿入歌にも使われた歌です。






 先ほど思想の話ではないと云いましたが、
 私は共産主義や社会主義革命が嫌いです。


武力革命を成し遂げたソビエトや中国を見てみると良い。

人民だの、民衆だのと一般大衆を煽てあげ、
政権を獲得した途端、民衆から自由を奪い
服従しない者は容赦なく処刑する。

 スターリンも毛沢東も何千万人単位で
自国民を惨殺した極悪人であり、
ナチスのヒトラーより凶悪な悪魔なのです。

 彼らの求める正義は大いなる欺瞞と断じ、
厳しく追及すべきである。




 では何故ここでゲバラを題材にするのか?
彼は社会主義革命を目指す革命家。
 でも、彼は見せかけの理想で民衆を騙し、
自らの野望を貪る獣(けだもの)革命屋たちとは
根本的に違っていた。



では革命とは?



 革命は社会主義や共産主義を目指す
武力による政権奪取の意味だけではない。

善良な民衆にとって
人々を苦しめる矛盾や
不条理であったり、
不都合であったり、
あらゆる不正義を正し、
公共の福祉を勝ち取る事。



 自分の弱さや醜さ、エゴ、困難を、
強い意志を持って克服する事。
【自己革命】




 つまり世の中の全ての人をを幸せに変える行動を
真の意味での革命と云えるのではないかと思う。



 私はそうした革命が好き。





   チェ・ゲバラ

 



『チェ・ゲバラ』とはあだ名である。

『チェ』とは「やぁ!」とか「おい!」とか
相手に親しみを込めて呼びかける時に使う『呼びかけの接頭語』である。

ゲバラの本名は【エルネスト・ゲバラ】。

彼はよく相手に「チェ!エルネスト・ゲバラだ」と挨拶していた。






 キューバ革命の英雄【チェ・ゲバラ】

1928年 アルゼンチン第二の都市ロサリオにて誕生。
父 エドゥアルド・ラファエル・エルネスト・ゲバラ・リンチ。
母 セリア・デ・ラ・セルナ・イ・ジョサ。

 経済的に恵まれた家庭で育つ。
両親はリベラル思想の持ち主で、
カトリックの厳格で保守的な
アルゼンチンの慣習にとらわれない人物であった。

 未熟児として生まれ、2歳で重度の喘息に罹患。
生涯を通じて喘息に悩まされた。

(でも喘息であるにも関わらず、
キューバ産の葉巻をこよなく愛した。)




1948年 ブエノスアイレス大学医学部に入学。
    アレルギーの研究を志す。

1950年 北部アルゼンチンをモペッド(ペダル付きオートバイ)で単独走破。
1951年 年上の友アルベルト・グラナードと、
    オートバイで南アメリカをまわる旅に出る。

1953年 通常6年の課程を3年で終了、医師免許を取得。

1953年 大学卒業後、友人のカルロス・フェレルとともに
    再び南米放浪の旅に出る。

 J.D.ペロンの独裁政権下のアルゼンチンを離れ、
革命を成し遂げたボリビアを旅した際、
虐げられてきたインディオが解放された。
その時の見た事の無い自由な雰囲気に衝撃を受けた。

 その後も旅を継続、南米各国を渡り歩く。
そして行き着いたグアテマラで医師を続ける最中、
祖国ペルーを追われ、グアテマラに亡命した
女性活動家のイルダ・ガデアと出会い、共鳴する。
 彼は社会主義に目覚め、のめりこんで行く。

 そして彼女と結婚する。



 当時中南米はアメリカの裏庭と呼ばれていた。
 どの国もアメリカの巨大資本に支配されていた。

1950年10月 そこに選挙によって成立した
      グアテマラのアルベンス革命政権。

 アメリカの支配に反旗を翻したのだった。
      
 しかしアメリカ企業の搾取利権を守りたい
アメリカCIAの工作により、
ゲバラが「ラテンアメリカで最も自由で民主的な国」
と評したグアテマラの革命政権はあっけなく崩壊した。

 この出来事がきっかけで、
ゲバラはラテンアメリカ武力革命を本気で志すようになった。

 アメリカの後押しで成立したグアテマラの新政権から
ゲバラの暗殺指令が出される。
止む無く妻のガデアと失意と怒りを抱き、メキシコに逃亡。

1955年7月  この地に亡命中の反体制派キューバ人のリーダー、
      フィデル・カストロ(28)と出会う。
キューバのフルヘンシオ・バティスタ独裁政権打倒を目指す
      カストロに共感したゲバラは、
      反バティスタ武装ゲリラ闘争への参加を決意した。
      
      この時ゲバラ27歳。
      カストロよりひとつ年下だった。

 
1957年 メキシコからキューバ潜入時、82人いた仲間を
    政府軍の待ち伏せによる襲撃で多数失い、
    その生き残り僅か12人の同志で、
    キューバの山岳地帯シエラ・マエストラを拠点に
    政府軍と戦う反乱軍を再編成する。

    ゲバラ達は印刷所でビラを作成、
    またラジオ局を設立し、国民に革命を呼びかける。

    世界中のメディアが
    この革命を夢見るドン・キホーテ達を取材した。

    名も無き農民が呼びかけに共鳴、続々と集まり、
    その数400人にまで膨れ上がった。
   
1958年 12月 山中にこもって2年。
    政府軍との決戦を迎える。
    中心都市サンタクララに侵攻。
    迎え撃つ政府軍は3000人。

 数で劣る農民反乱軍。
しかし驚くことに圧倒的勝利を勝ち取り、
1959年1月1日午前2時10分フルヘンシオ・バティスタが
ドミニカ共和国へ亡命し、
1月8日カストロがハバナに入城、
「キューバ革命」が達成され、
革命政府を樹立させた。


 ゲバラ、国立銀行総裁に就任。31歳だった。

 


   その時の逸話


 新政府の閣僚を決めるに際し、
カストロが「誰かエコノミスタ(経済通)はいないか?」と尋ねた。
連日の激務で疲労し、
居眠りをしていたゲバラがこれを
「コムニスタ(共産主義者)」と聞き間違えて
とっさに手を挙げ、彼の国立銀行総裁就任が決まった。


嘘でしょ?



嘘です。





 公務の合間に農民たちとサトウキビ畑で共に汗を流す。
常に民衆の側に立ち、行動を共にし、
国民が何を考え、何を望むか見定めようとした。

 カストロとゲバラは新しく学校を次々と建設、
医療の無料化などを実現させた。

 そうしたゲバラたちの元に、
世界各国の若者たちが訪ねて来た。
僅か12名から始めたキューバ革命。

 それは世界中に伝わった。
    
 富と資源の分配。
 貧困や人種差別の根絶。

 ふたりのリーダーの言葉は世界中に轟いた。


 しかしアメリカのアイゼンハワー大統領は
キューバに容赦なく経済制裁を科す。
新政権潰しは、いつものアメリカの常套手段。

 カストロは窮地に立ったキューバを救うべく、
ソビエトに頼る。

 カストロの要請を受け、
ソ連はキューバから大量のサトウキビを買い付け、
経済危機から救った。


 だがゲバラはソ連に頼る事に懸念を持った。
キューバは米ソ両陣営から距離をとるべきと主張。
アメリカもソ連も、キューバと対等な関係を構築するまで
どちらか一方に近づくべきではないと考えていた。


 彼はアメリカもソ連も、
結局はキューバを搾取の対象としか
考えていないと思っている。


 しかしその懸念とは別に最悪の方向へ。
 ソ連がキューバ領内に
アメリカを攻撃できるミサイル施設を建設していると
アメリカの偵察機が察知したのだった。
アメリカは直ちにキューバを海上封鎖した。
あのキューバ危機の始まりであった。

 アメリカとソ連の全面核戦争の危機。
結局ソ連が譲歩してミサイル基地を撤去。
 危機は回避された。
そこから見えてくるもの。

 ソ連にとってもキューバは持ち駒に過ぎず、
平和の救世主ではないと云う事。


 ゲバラはアルジェリアのアルジェで行われた
「第二回アジア・アフリカ経済会議」において演説、
当時、キューバの最も主要な貿易相手国だった
ソビエト連邦の外交姿勢を
「帝国主義的搾取の共犯者」と非難し、
論争を巻き起こしている。




 その後ゲバラは国家の在り方を模索すべく、
精力的に世界各国を訪問している。

その訪問国の中に日本があった。
1959年 高度経済成長を成し遂げた日本。

それに対し、サトウキビ頼みの経済構造の国キューバ。
彼は工業化を目指すヒントを日本に求めた。



 ゲバラの感じた日本の感想



「日本の工業は実に巨大である。
大きな造船所では、勤勉で規律ある労働者たちが
アリのような数学的な正確さで働く一方、
別の大群では勤勉な娘たちが
数学的な正確さを持ち、目を凝らして
最新のラジオ用の微小なトランジスタを製造している。

工業大国の日本が石油と鉄鉱石という
二つの基本的な生産物を輸入しているという事実は、
物事を実現するという意思こそが
原料の存在よりも重要であると云う事を示している。」



またゲバラは、7月24日の大阪に泊まった際、
広島が大阪から遠くないことを知り、
翌日予定を変更、
広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、
原爆資料館と原爆病院、広島県庁を来訪、
広島県知事大原博夫とも会談した。

彼は「なぜ日本人はアメリカに対して
原爆投下の責任を問わないのか」と問う。

 その時の日本人担当者の説明。

 恨みは何も生まないが、
恨みを捨て、未来志向に活路を求める事こそが、
尊い犠牲に報いる最大の術である。
 
 それが日本人が到達した境地であり、
答えであると理解した。




革命のリアリスト  カストロ
革命のロマンチスト ゲバラ

いつしか二人の理想は大きくかけ離れた。



そしてゲバラはキューバを去る。



 2年後

1967年 10月 ボリビアにて
       ゲバラ死亡のニュースが全世界に飛び交う。

キューバを去り、南米のボリビアで新たな革命を目指し、
活動を再開した彼は、アメリカCIAの工作で
ボリビア政府軍に捕らえられ、殺害されたのだった。



 ゲバラ39歳。





 ゲバラとカストロの決別の時、
一通の手紙をカストロに残している。

「今世界の他の国が、僕のささやかな力添えを望んでいる。
君はキューバの責任者だからできないが、
僕にはそれができる。

 別れの時が来てしまったのだ。

 喜びと悲しみが入り混じる中での行動だと理解してほしい。」






     生前彼が残した言葉







国民に意思を伝えるためには、
国民の一人となって感じなければならない。
国民の欲するもの、要求するもの、
感じるものを知らなければならない。





「平和革命と選挙による変革の道は
可能性があるのなら望ましいし追求するべきだ。
しかし、現在の条件のもとでは
ラテン・アメリカのどの国においても
そのような希望は実現されることは
ありそうもないと思われる」




「何キログラムの肉が食べられるか、
あるいは一年に何回休みの日に海岸に遊びに行けるか、
あるいは現在の給料で
どれほどの美しい輸入品を買えるか、それは問題ではない」
「共同体のために尽くし、
労働を喜びと感じる『新しい人間』」の育成を目指し、
その出現を国家展望の下敷きとする。」




「バカらしいと思うかもしれないが、
真の革命家は偉大なる愛によって導かれる。
人間への愛、正義への愛、真実への愛。
愛の無い真の革命家など想像できない。」





「我々にとって社会主義の確かな定義は、
“人間の人間による搾取の撤廃”以外にない。」





「一人の人間の命は、
地球上で一番豊かな人間の全財産の百万倍の価値がある。
隣人の為に尽くす誇りは、高所得を得るより遥かに大切だ。
蓄財できる全ての黄金よりも
遥かに決定的でいつまでも続くのは、
人民たちの感謝の念だ。」




「人間はダイヤモンドだ。
ダイヤモンドを磨くことができるのはダイヤモンドしかない。
人間を磨くにも、
人間とコミュニケーションを取るしかないんだよ。」






「指導者とは、
人が自分と同じところまで追いつけるように誘導するものだ。
ただ言葉で強いるのでなく、
後ろにいる人たちを力づけて、
自分のレベルまで引き上げようとするのだ。」






「世界のどこかで誰かが被っている不正を、
心の底から深く悲しむことのできる人間になりなさい。
それこそが革命家としての、一番美しい資質なのだから。」

(5人の子供たちに遺した手紙)






私は今、チェ・ゲバラがこの世に生きた足跡を
風化させたくない。

あの時若者たちが持った熱い思いを
今の世の若者たちにも受け継いでもらいたい。