uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
だからblogで訴えます。


時代背景(2)

2021-08-15 14:38:23 | 日記
 日本という国は、
明治維新以降、2度破滅的変化が起きている。

 1度目が1930年代の軍部の台頭。
 2度目が1990年代の小泉・竹中の台頭。

 一度目も2度目も
国際社会の大きなうねりの中で生きる以上、
一番の選択と思われた。

 しかし、その後の現状を見ると、
限りなく国力をそぎ落とし、
国運を危うくしている。


 ここでは1度目の時代背景を見ていきたい。

 前回の日記で
幕末から第二次世界大戦前夜までの
主にアメリカとの関りについての
私なりの分析を簡単に述べてきた。

 今回はその後に引き継ぎ、
何故日本は愚かな戦争に突き進んだのか
考察したい。





   驕り高ぶる日本の意識



 明治維新は外圧への極端な危機意識が働き、
政治を動かし、国力を高め、国際的地位の向上に努めてきた。

 一挙手一等足が緊張感を帯び
絶対失敗は許されぬ環境にあった。

 だから本来無謀な大博打であるはずの
日清・日露戦争も用意周到な準備と作戦を怠らず、
必死で戦ってきた。


 何度も云うが、
私は戦争を鼓舞したり、美化する考えを持たない。


 ただ歴史を客観的な面と流れで見た場合、
これらの戦争は『条約改正』と『安全保障』を勝ち取るための
避けられない大博打への挑戦だったと云えると思う。


 この時の日本は、あくまで国際社会への挑戦者だった。

 挑戦者としてわきまえ、
挑戦者として下から上を見上げる姿勢があった。

 だがたまたま奇跡的に勝利できた二度の戦争は、
この国の民の意識を狂わせた。

 つまり、「一等国の仲間入りができた」と
決して持ってはいけない勘違いをしたのだ。
そして驕りや、相手を見下す習慣を身に着けてしまった。

 そしてその時身に着けたもうひとつの悪しき習慣。

 それは本来上に立つべきではない
無能で傲慢な輩に重大な決定権を持たせてしまった事。

 国家存亡の危機に追いやった国賊的軍人が二人。

 この二人が必要のない戦争をはじめ、
沢山の日本兵と一般国民を死に追いやっている。

 その二人とは、軍神と崇められ、作戦の神様と云われた
山本五十六と辻政信である。

 何故この二人なのか、
歴史を追って見ていきたい。





   ノモンハン事件


 ノモンハン事件とは1939年(昭和14)
満州国とモンゴル人民共和国との間に起きた国境紛争である。
 戦争の主体はモンゴルと満州国であるが、
ソ連はモンゴルと1934年11月、軍事同盟を結び、
日本の関東軍は1931年に満州事変を起こし、
翌年満州国を建国、勢力下に置いている。

 そうした事情から
後ろにはソビエト連邦と日本の関東軍が控え、
実質ソ連対日本の戦いと云えた。
 ノモンハン『事件』と日本側は称しているが、
ソ連側は「ハルハ河戦争』と呼び、
その大規模な戦闘行為は
実質、戦争と呼ぶべきであった。


  事の発端


 この年の4月
作戦参謀の辻が起案、
関東軍司令官・植田謙吉大将が通達した
「満ソ国境紛争処理要綱」が布告された。
 
 この要綱は日本の陸軍参謀本部が
ソ連との戦闘不拡大方針を
堅持していたのを逆手にとり、
「侵さず侵しめざることを満州防衛の根本とする」、
「万一侵されたら機を失せず膺懲する」
などの記述を拡大解釈し利用した。

 どういうことかと云うと
当時国境線が不明確地点が存在し、
国境紛争の小競り合いが続いていた。
 その現状を打破するため、
現地司令官が自主的に国境線を認定、
衝突が発生した際は
兵力の多寡に関わらず必勝を期すことが記されている。

 つまり戦闘を拡大するつもりはないが、
自重もしませんよ、と云っている。

 国境線画定を期すためには
積極的に戦闘作戦行動はとりますよ。
という主張が成立するのだ。

 日本陸軍は戦争不拡を、
関東軍参謀は積極的国境紛争関与を目指した。


 当時の日本を取り巻く情勢を振り返ると、
次第にアメリカとの軋轢が強まり、
そこを何とかしなくてはならなかった。

 だから満州国の国境である不毛の地
「ノモンハン」などに
関わっている場合ではないのだ。

 なのに関東軍参謀の辻は、
そんな無駄で無謀な戦争を強硬に主張。
何のした準備もせぬまま、
強引に戦争に巻き込んでしまった。


 その時関東軍は何の根拠もなく
ソ連軍は弱いと決めつけていた。

 日露戦争であれだけ近代兵器をふんだんに使用して、
日本兵を苦しめた相手だったのに。

 案の定ソ連軍は日本軍の4倍の軍事力を行使、
圧倒的兵力と火器で日本軍を死地に追いやった。



 ろくな情報収集もせず、
援軍の派遣、武器弾薬の補給も無い。

無謀で無能な作戦を立案し、
数多くの将兵を犠牲にし、
多くの部隊を全滅に追いやった辻参謀。

 彼はその責任を現場指揮官に負わせ、
激しく詰(なじ)っているが、
自分は全く何の責(せき)も負っていない。

 それでもそんな不利な状況下、
必死で戦った日本は善戦した。
 歴史では日本の惨敗と言われているが、
劣悪な武器(サイダーの瓶にガソリンを詰めた火炎瓶など)
で野戦に持ち込み、ソ連の戦車に立ち向かった日本兵。 

 その火炎瓶すら使い果たし、
全滅した部隊。

 不可抗力で捕虜になり、
せっかく捕虜交換で帰還した将兵たちに対し
自決を強要した辻参謀。

 
 しかし人には死を求め、
自分だけおめおめと生き残り
次の戦地に転身している。


 辻が次に赴任した戦地、
マレー作戦に於いては、
第5師団の作戦指導を行い、
敵軍戦車を奪取して敵軍陣地突入を行った。
 その時作戦参謀としての任務を放棄し、
第一線で命令系統を無視した。
 その身勝手な行動に対し、
第25軍司令官 山下奉文中将は、
「この男、矢張り我意強く、
小才に長じ、所謂こすき男にして、
国家の大をなすに足らざる小人なり。
 使用上注意すべき男也」
と評している。

 また辻参謀は
シンガポール作戦にも参加。
シンガポール占領後、
華僑20万人に対し一斉検問を挙行、
抗日分子であると判断した者を大量に処刑した。
(シンガポール華僑粛清事件)


 この敵性華僑剔出処断案は、
作戦主任参謀の辻と朝枝繁春が起草している。
 この時辻は、
「人口を半分に減らすつもりで当たれ」
と命令している。

 またフィリピン作戦では
米比軍指揮官エドワード・P・キング中将が
降伏を部隊に命じて以降、
米比軍兵士が続々と投降し始めた。
 そのような中、連隊や兵団に
「米比軍投降者を一律に射殺すべし
という大本営命令を伝達する」
との命令が第65旅団司令部から電話で伝達された。

 しかしそんな命令は出されていなかった。
 そうした重大な嘘の命令を発したのは
辻参謀だったのだ。

その上辻は、 あの悪名高い
「バターン死の行進」にも関わっている。

 バターンから移動した多くの米軍人が過度に疲労し
死亡したバターン死の行進。
 これも辻の偽命令による虐殺であり、
後に連合国にその責任を問われたのは
責任者の辻ではなく、
代わりに本間雅晴司令官などが
戦犯として処刑され、その責任を負っている。


 それだけではない。
辻はガダルカナル島攻防戦でも
実情を無視した攻撃を強行している。
 

 その後辻は相次ぐ無謀で強引な作戦の失敗、
責任を取らない姿勢が東条や陸軍首脳に嫌われる。
 結果、第33軍参謀として
ビルマ戦線に赴任し、そこで終戦を迎える。

 敗戦を察知した辻は何と!
卑怯にも敵前逃亡している。
 だから驚くべきことに、
とうとう一度も責任を取らなかったのだ。

 これだけの失態を繰り返した参謀。
歴史上こんな無能で無責任な者が他に居たのか?



 実はもう一人いた。


 それは参謀ではなく、司令官だった。

 連合艦隊司令長官 山本五十六

 彼は己惚れの強い野心家だった。
でも悲しいかな無能でもあった。

 彼はまだ若い頃、
武官として渡米した経験がある。
 当然その時アメリカの国力をいやという程
見てきたはずであった。
 普通なら畏怖・畏敬の念を持ち、
この国には敵わないと思う筈である。

 だがその時、不敵にも彼は
打倒アメリカの野心を持った。

 その国力差から見て、
どうやってもアメリカに勝てる筈はない。
 それなのに彼は勝利するための
材料や方法など、根拠を何も持たないまま
「アメリカを打ち負かしたい。」
 そう思うようになった。


 当時のアメリカは先の日記
『時代背景(1)』に前述したとおり、
反日、人種差別の国だった。

 これは想像だが、
米国滞在中、多分いやという程
差別的な経験をしたのだろう。

 感じ悪い国。

 彼の目にそう映っても仕方ない時代だった。
(今でも人種差別は存在しているが)

 この時から山本は
いつかこの国をこの手で打倒したい。
そう思い、誰彼なく
そう公言している。

 でも、そんな彼の愚かな野望を
日本の軍部が許す筈はない。

・・・筈だった・・・・。

 日本はルーズベルトが抱く日本人に対する憎悪から、
兵糧攻めの攻撃を受け、風前の灯の中に居た。

 日本は当時日中戦争の最中にあり、
アメリカの妨害と横槍により、
戦争継続はもはや不可能かと思われた。
それどころか、国家の存続自体が危ぶまれる。

 けれども、座して死を待つ訳にはいかない。
 日本は起死回生の策を求め
頭脳集団を集め『陸軍省戦争経済研究班』
通称『秋丸機関』というシンクタンクを作った。

 秋丸機関は世界情勢を徹底的に調べ、
日本の国力の強み、弱みと、
アメリカ、中国、ソ連、イギリスなど、
関係当事国の経済、社会情勢、
物流環境、戦争継続能力等を調査、分析した。

 その結果、
日本は絶対にアメリカと戦争をしてはいけない。
どんなに挑発されても、柳のようにいなし、
戦闘を回避しなければならない。
との結論に達した。

 ではどうするか?

 日本はアメリカとの衝突をできるだけ避け、
生きる道を南方に求め、
その後西に駒を進めるべきとの結論に達した。

 当時イギリスは思う程国力は無かった。
意外だが、イギリス本国を
連邦加盟国が支える構造で成り立つ国なのだ。

だからイギリスの命脈を握る輸送ルートが
アキレス腱だと判明した。

 イギリスの輸送船をひたすら撃沈し、
イギリスの物流補給路を断ち、
ドイツとの戦闘を継続不能に追い込む。

それが勝利を掴むための方法である。

 だから南進しマラッカを超え、
次に西方(ビルマ・インド)方面に進路を変える。
そしてインド洋の制海権を獲得し
イギリスの輸送ルートを遮断、
中国の蒋介石ルートと
ソ連に対するアメリカの支援路も断つ。
 その後中近東に侵攻し、
そこで軍事同盟国ドイツと合流。
 


 その結果ドイツは、
イギリスにもソ連にも勝利し、
インドシナ諸国や、インドは独立を勝ち取る。
 そうすればアメリカは
東南アジアの資源を手にした日本に対する
兵糧攻めの効果と意味を無くし、
その後は下手に手を出せなくなる。

 そんな起死回生の必勝の一手を策定した。

 これは夢物語ではなく、
日本の残存国力と軍事力を持ってすれば
十分に実現が可能で、
成功率が高いと思われる作戦だった。

 そのためにはひたすらアメリカとの戦闘を避ける。

 もしフィリピン侵攻で衝突しても、
最小限にとどめ、
アメリカの反撃体制が整うまでの間に
 サウジアラビア(この時はまだ独立していない)
までの侵攻を完了させる。

 この作戦は『対米英蘭戦争指導要綱』として
1941年(昭和16)8月正式討議され、
11月5日御前会議で承認された。



「 さあ、これで準備は整った。」


 ・・・筈だった。




 開戦直前の1941年(昭和16)12月1日


 大本営政府連絡会議(御前会議)開催。

 この日突如「ハワイ真珠湾攻撃」が議題に上る。
 
 これは政府、陸軍の知らないところで
海軍並びに海軍軍令部の決定事項になっていた。
 
 しかも帝国連合艦隊は一週間以上前、
既にハワイに向け出港しているというのだ。

 東条秀樹首相は唖然とし
「そんな話は聞いていない」と叫ぶ。
 陸軍も、陸軍参謀本部も大反対した。
 昭和天皇も知らなかった。

 しかし時すでに遅し。
 誰も海軍の暴走を止められない。




 これは海軍トップである
永野修身海軍軍令部総長が、
海軍統帥権を悪用した結果だった。


 彼はハワイ真珠湾攻撃構想を
それまで続けられてきた正式な会議を一切通さず、
裏ルートを使い極秘裏に準備していた。

 開戦一ヵ月前の11月、
ドタバタの中、
密かに昭和天皇に真珠湾攻撃を上奏していた。
 但し、その詳細は伝えていない。
 あくまで形だけ上奏したものであり、
天皇はちゃんと理解していなかった。

 だがこれにより、「真珠湾攻撃」は
海軍の正式な作戦として急遽ねじ込まれた。

 この時、日本の命運は決した。

滅亡の危機に瀕する
絶望の戦争に引き込まれるのは必定となる。

 これには永野修身に知らされた
彼以外の上層部は勿論反対した。

 その時永野は
「山本が真珠湾攻撃ができないなら、
連合艦隊司令長官を辞めると云っている。
 それは困るし、山本がそこまで言い、
自信があるならやらせてやろうじゃないか。」
と、説き伏せた。



 一方山本の部下たち第一航空艦隊など
多数の部下たちも反対している。

「ハワイではなく、フィリピンに行くべき」と。

だが山本は一切聞く耳を持たない。
「気にくわない奴はここから出て行け」
と一喝した。

 かくして真珠湾攻撃は実行された。


 この流れは山本五十六一人では実現できない。

 むしろ山本は利用されたと云って良いだろう。
 永野修身と云う男に。

 連合艦隊司令長官とは
本来在任期間は長くて2年限りの官職であり、
定年退官目前の高官が就任するだけの
飾りに過ぎない名誉職であった。
山本五十六はその時節、偶然就任しただけだった。

 昭和14年8月、山本は連合艦隊司令長官就任。

 だから普通なら16年8月には退官している筈である。

 だがその時も永野が
「今は有事だから」と云って
周囲を説得し、在任期間の引き延ばし工作をしている。


 これにより海軍で唯一、
ハワイを攻撃すべきと公言し、
主張する山本の続投が決まった。

 だからこの愚行は総て
永野修身海軍軍令部総長の陰謀と思われる。

 東条英機首相は真珠湾作戦決行前夜、
「これで日本は負けた。陛下に申し訳ない。」
と皇居に向け座し、号泣したと云う。

 ルーズベルトは
「まさか日本がやってくれるとは思わなかった」
と喜び、イギリスのチャーチル首相は、
「これで英国は救われた」と
神に感謝した。

 ヒトラーは
「日本がそんなことをするなんて聞いてないぞ」
と驚く。
 「なんて馬鹿なことをしたんだ!!」
ヒトラー自身、アメリカとは一戦交える事が無いよう、
細心の注意を払っていたのに。

 アメリカは日独伊同盟国に対し戦線布告。

ドイツは敗れた。



 ただこの真珠湾作戦も、
徹底的に叩きハワイを占領後、
艦隊を西に向ければまだ日本にも勝機は残っていた。

 山本の愚行は
真珠湾攻撃という大規模な作戦を決行したのに
中途半端な攻撃で終わらせ、
アメリカ太平洋艦隊の空母を一隻も仕留めず帰還した事。
 早期の反撃の余地をわざと残し、
その後、ミッドウェー作戦を実行するなど、
西に向かわず、太平洋を主戦場にした事。

 わざと負けるような作戦に終始し、
陸軍が策定した『対米英蘭戦争指導要綱』を潰し
日本を敗戦に追い込んだのだった。


 ここで見えてくる歴史的事実。

 海軍には
敗戦に導く永野修身という黒幕がいた事。

 陸軍は辻が権謀述を巧みに使い
皇道派と統制派の対立を産み
226事件を引き起こしている。
 その後石橋莞爾や東条英機に取り入り
順調に昇進、参謀長として上り詰め
立場を最大限利用している。

 彼は無用な作戦ばかりを策定し
無駄に兵力を消耗させ続け、
敵捕虜や占領した地での虐殺を行うなど、
全く狂気の男だった。


 日本はこの時、
決してその地位に据えてはいけない国賊を
国の行く末を決定する立場に据えた事が
国家の命運を決めてしまった。





 もちろん悪の権化ナチスと手を組み
虐殺に手を貸す勢力が勝利するのは
人類の悲劇である。

 そういった意味では、
日本とドイツが手を組んだことが総ての間違いであり、
負けて良かったのかもしれない。

 たくさんの人を死なせた責任は重い。

 ただノモンハン事件やハワイ真珠湾攻撃など、
無意味な作戦を実行させ、
真面目で純真な国民を
死に追いやった者たちが存在したのは
どう考えても残念でならない。


 無念である。

 






 敗戦により焦土と化した日本。
 その後必死に働き、再び蘇った国。

 誰もがひた向きだった。

 そしてジャパンアズナンバーワンと褒め添さえられ、
自信を取り戻した日本。

 その頃からまた驕りが頭をもたげる。

 そして再び決して据えてはいけない国賊を
その地位に上(のぼ)らせた。


 そして日本の財産をアメリカに売り渡し、
地方の疲弊を招き、労働者の地位と権利を奪い取り
日本に貧困を蔓延させた男たち。

 小泉と竹中。

 今日本はその悪夢に続く
蟻地獄から抜け出せないでいる。

 無能な人材が政府の要衝を占め、
オリンピックやコロナ禍で
失態を繰り返している無能な国賊たち。

 歴史は繰り返している。

 私はその状態に我慢がならない。






だがこんな時こそ希望を持ちたい。




友よ - 高石友也・岡林信康