uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
だからblogで訴えます。


こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(40)

2021-03-27 05:20:24 | 日記











このイラストは私のblogの読者様であり、
イラストレーターでもあられる
snowdrop様に描いていただいた作品です。


#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…
 (snowdrop様のblogリンク先)

Snowdrop様
素晴らしいイラストをありがとうございました。
心から感謝いたします。










       第40話 罠



 明治十四年の政変をきっかけに
大隈重信が下野し、
政府は伊藤博文の専制が固まった。


 その結果、政府部内から
民権運動擁護派は一掃され、
弾圧政策と、懐柔策による内部分裂策動が
同時進行する事となる。

 
 伊藤はまず、後藤象二郎に食指を伸ばす。

 憲法制定と議院設立を目指すなら
まず、先行した欧州などの実情を視察し
我が国に活かすべきであると、
 欧州視察旅行を勧めた。

 


 しかしそれは巧妙な罠だった。

 象二郎は退助を誘い、
まんまとその罠にはまった。

 象二郎は伊藤の企てに気づかず、
得意の錬金術で渡航費用を工面した。
(財閥三井を言葉巧みに説得、
資金を供出させたのだった。)

 退助は費用を捻出できたなら、
洋行しても良いと、
誘いに応じただけであった。

 だがその費用は、
実は政府からの拠出であるとの
疑惑の噂が新聞報道で流布される。
意図的に流された誤報。

当然政府と対峙していた自由党総裁の退助は、
誤報を信じた党員たちから批判に晒され、
外遊反対決議が成された。

 即ち「民権運動の重要な時期に、
政府から金をもらって
海外旅行するとは何事ぞ!」
との批判が噴出したのだ。

 しかし退助は洋行を強行した。

 退助には自負がある。

自分は維新の立役者であり、
元勲のひとりである。
 故に、自分は下野したからと云って、
決して部外者ではない。

 仮に例えその出資金が
政府からでたものであったとしても
自分にはその資格が有るのだ。

 国家を支えるには、民権運動を熟成させ、
一刻も早く、西欧諸国に負けない社会制度を
作り上げなければならない。

 それができるのは自由主義政党を立ち上げ
推進した自分たちだけである。

 
(それが国家からの金であったとしても、)
だから今、
この時期に敢えて視察旅行を挙行するのは
当然である。

 しかしそんな退助の姿勢は、
疑惑を信じる党員たちは理解しようとしない。
当然激しく非難し、対立は深刻化した。

その結果、政府との癒着疑惑を批判した
馬場辰猪・大石正巳・末広鉄腸らを追放。
田口卯吉・中江兆民が去ったため、
策士伊藤の自由党内部分裂工作は成功した。

 更に退助らの留守中に、
党内急進派が貧農層を扇動、
様々な事件を起こした。

 退助不在の自由党は弱体化し、
過激化した運動は、徹底的な弾圧を受ける。


 一方、退助は象二郎と共に、
1882年(明治15)11月出発。
ジョルジュ・クレマンソー(政治家)、
ビクトル・ユーゴー(文豪)
ハーバート・スペンサー(学者)
などと会談した。

 特に当時の日本では、
スペンサーの著作が数多く翻訳され、
「スペンサーの時代」と呼ばれ、
もてはやされていた。

スペンサーの自由放任主義や社会有機体説は、
日本でも自由民権運動の
思想的支柱として位置付けられ、
数多くの訳書が出版された。
 退助は『社会静学』を
「民権の教科書」と評していた程である。

 しかし退助はスペンサーと会見した時、
「白色人種が言う自由とは、
有色人種を差別し、
奴隷化した上に成り立つ自由であり、
これは(白人にとって)
都合の良い欺瞞に満ちた自由である」と発言した。
 これに対しスペンサーは、
「封建制をようやく脱した程度で
憲法さえ持っていない日本ごときが、
我ら白人社会と肩を並べて語るのは傲慢である」
と退け、退助の発言を空理空論となじる。
納得できない退助は尚も反論しようとした。
 しかしスペンサーは発言を制し
「NO、NO、NO!」と席を立った。

 退助は1883年同6月の帰国後、
フランス革命および白人社会の
「自由」の概念に関し、
批判し、持論を展開した。

 

 フランスという国は
一言でいうならば非常に野蛮な国家である。
 表向きは自由や平等を標榜しながら、
実際には世界中に植民地を有し、
有色人種を使役して平然とし、
世界の貴族階級であるかのように振舞っている。
 彼らが「天は人の上に人を作らず」
と唱える自由と平等は、
白色人種にだけ都合の良い
自由と平等であると言えまいか。

 私はこのようなことであっては
決してならないと考えるのである。
 私が維新改革を憤然決起して行った理由は、
かの国(フランス)に於ける革命主義の如き
思想に出でたるものに非ずして、
尊皇主義に徹した結果である。
 然るに昨今は、
西洋の主義に幻惑して
これを崇拝するが如くあるは、
最もその間違いの甚しきものと
言わざるを得ず。

 皆これを見誤ること勿れ。


 退助は
「日本の自由民権思想は
こうであってはいけない。」と、
フランスの主義を断罪した。



 しかし、フランスの民権思想を妄信し
かぶれた民権家の中には、
退助の主張に異を唱え、
フランス革命思想を礼讃する一派が存在し、
退助の民権思想の間に亀裂が生じた。

 それに加え、
一部の自由党過激派が
1882年12月1日の福島事件、
1883年3月20日の高田事件などが起こしている。

 帰国した退助は、
分裂と過激化による事件の多発、
及び政府の弾圧により党が弱体化した現状を
深刻に受け止めた。
 そんな先行きに不安を感じ、
解党するか、党再建に
10万円の政治資金を調達するかの
いずれかの選択を提議した。

 だが、松方デフレ
(西南戦争の戦費調達で生じた
インフレを解消しようと行った
デフレーション誘導の財政政策)
が原因で、有力な資金提供者であった
豪農層の脱落が相次いだため、
資金集めに失敗した。

 追い打ちをかけるように、
1884年(明治17)
自由民権運動の激化で
加波山事件が起きる。
その事件がとどめを刺し、
10月29日、自由党は解党した。

 更にその2日後の10月31日、
急進派による最大の蜂起事件である
「秩父事件」が発生した。

 退助が撒いた自由民権運動の種は
分裂し、過激化するなど、
残念な結果となり、裏目にでた。
 しかし、ここで息の音が
止められたわけではない。
 
 退助の不屈の執念はまだまだ続いた。




 この頃東京の板垣家では、
新たな動きがあった。

 最近体調の優れない
妻のお鈴を心配していた退助は、
あの福岡孝弟(第3話、20話参照)
が申し出た、
家事手伝いの斡旋を受け入れる。

 荒木伊佐次の七女で
名を絹子と云う。

 絹子は明るく闊達で、
鉾太郎はたちまち懐(なつ)いた。

 福岡は絹子を花嫁修業のつもりで
板垣家に派遣させたが、
奔放な彼女は周囲の思惑の型には
嵌(はま)らなかった。

 明るい人柄の分、
お鈴とは気が合ったが、
退助には手厳しい。

「旦那様はお金持ちなのに、
貧乏と聞きます。
 それはどういう事ですか?」
「旦那様は大層女好きと聞きますが、
本当ですか?」
「旦那様の若い頃の武勇伝は
とても面白いと聞きます。
私にも聞かせてくださいな。」


「そんな事、誰から聞いた?
ワシが貧乏なのは本当じゃが、
それ以外は全くの出鱈目じゃ!
 ガセネタにも程がある。」

 背後から鈴の声がする。

「あら、全部本当じゃありませんか。
私の旦那様は多分宇宙一
ヘンテコなお方。
 絹子にも気をつけるように
私がレクチャーしました。」

 鉾太郎までが無言で大きく頷く。

「鉾太郎!この裏切者!!」


鉾太郎とお鈴と絹子が同時に
ウインクし合った。

 またしても孤立する
可哀そうな退助。


   つづく