京風

そぞら歩きの千二百年の都のはんなり歴史街道と四季行事等

蛤御門の変(禁門の変)3

2010-01-30 18:50:50 | お出かけ
蛤御門の変(元治元年7月19日)の直前まで、長州軍約500人(家老国司信濃、来島又兵衛)が屯営した嵯峨天龍寺に陣を敷き、血気にはやる兵士が柱に試し切りした跡がこの傷で多くの刀痕が残された。商家(山中油店)にも刀痕「逃亡する長州兵の刀傷」「暴挙」を残した。

逃亡する途中山中油店で刀痕を残し天龍寺へ仁和寺街道を西進し山陽街道を南下し大山崎で久坂玄瑞隊と合流


余談
薩摩藩は、長州軍を駐留させたとの理由で天龍寺に砲火を浴びせようとするが管長滴水禅師は、総門前の大砲に立ちはだかり、「全山を焼くならまず自分を打ち殺してからにせよ」と言う。
薩摩は、「それでは大義名分が立たない。ただ空砲のみを撃てばよい」と名分をつけるが、実際は、実弾を放ち全山ことごとく焼亡する。禅師は開山の木像を背負い付近の竹藪に難を避けた薩摩の砲火で天龍寺八度目の焼亡。「元天龍寺管長関牧翁著」



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