京都・円山公園戦時中押収二度目像「坂本龍馬・中岡慎太郎」

京都・円山昭和15年頃の像龍馬は長身で慎太郎は150cm前後の平均的な身長であった、バランスがを取る為に座らせた又龍馬の左手の刀を見て下さい。
幕末の慶応3年11月15日(1867年12月10日)に坂本龍馬と中岡慎太郎が京都河原町近江屋井口新助邸において暗殺されたこの事件坂本龍馬の最期の近江屋の2階180メートルもない天井でなぜ刀を使わづピストルで応戦 しなかったのか???。
暗殺説には諸説があり、新選組局長近藤勇が原田佐之助に命令したとする説よりも、見廻組 実行説が有力に思えますが。
龍馬は慎太郎に息があることを確認し、ふたことみこと言葉を交わしますが、頭から血と脳漿が流れでているのを見て、「慎ノ字、おれは脳をやられている。もう、いかぬ」 と最後の言葉を発して前のめりにたおれたそうです。
慎太郎は、一時回復するかのように見えたということですが、二日後、飯を食べた後、眠るように逝ってしまいます。享年30歳。慎太郎は最期に『討たねばかくのごとく討たれる。諸君、奮励決起せよ』と言い、死ぬまでその主戦論を捨てませんでした。
明治3年になって函館戦争で降下した今井信郎が見廻組による龍馬暗殺を自供。自分は見張 り役だったと告白。また当日の2時頃、桂早之助らと近江屋へ龍馬を訪問したが不在だった為 (居たら襲撃するつもりだった)、東山の辺をうろつき時間をつぶしていたとも告白。
函館降下の今井信郎が伝馬町に入牢中、なぜか西郷は彼個人のために大層な助命運動をし それをかなえている。また、征韓論で敗れた西郷が鹿児島へ帰る途中、静岡にいる今井を訪 ねている。(但し、その時は留守で面会していない。)
何か裏のつながりがあったのではないかとする説と。現在でも、最も信憑性が高いとされてい る。なお京都の霊山歴史館には見廻組桂早之助が龍馬を斬ったとされる刀が存在する。
「薩長連合、大政奉還、あれはぜんぶ龍馬一人がやったことさ」と勝海舟に言わせた。