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京風

そぞら歩きの千二百年の都のはんなり歴史街道と四季行事等

太閤の石仏

2010-04-14 08:59:50 | お出かけ



北白川の山中越えの起点に「安産の地蔵」「子安地蔵」と地元では呼ばれるお地蔵さんは高さ2M くらいもありそうな巨大さ。山中越えとは京都から多くの偉人が通り抜けた歴史道旧北白川 村の入り口にもなり、りっぱな地蔵さん。
顔が風化して、風説耐えてきた風貌それもそのはず鎌倉時代の作といわれ、太閤秀吉がこの地を 通りかかった時、この石仏を気に入り聚楽第まで運んでしまい。
太閤大いに気に入り毎日対面してはたいそう喜んでいた。しかし、この地に移して夜になると地響 きのようなうめき声がするようになった。どうやら石仏が北白川の里が恋しくて泣いていることが わかったとか。そこで元の地に安置しなおした。こんな伝説から「太閤の石仏」とよばれています
京大農学部前と銀閣寺道交差点の中間ぐらいの北に安置された、北白川が始まります。
とにかく巨大な石仏鎌倉時代の石仏で「捨遺都名所図会」に描かれている阿弥陀像とか。子安観世音 として人々の信仰が篤く、安産祈願のお参りも絶えなかったそうですそれにしても、流石は太閤秀吉 も仏さんには勝てなかっただろうが寺を南北に集め寺町を作ったのは何故だろう??。

花崗(カコウ)岩と褐簾(カツレン)石は明治30年に日本ではこの大文字山で初めて確認された放射線を出す鉱物(白川石)だそうで北白川温泉 (天然ラジウム泉)は市民の憩の場と成ったが今は?

大雲院

2010-03-30 17:26:48 | お出かけ





大雲院は浄土宗の単立寺院で天正年間に織田信長・信忠父子の菩提を弔うため貞安上人が創建した もので供養塔があります。本堂の背後にそびえる山鉾を模した祇園閣は江戸時代の実業家大原喜八 郎が建てたもので鉾先には錦鶴が付いています。 (有形文化財) 安土桃山時代に大泥棒として名をはせた石川五右衛門の墓は、山鉾を模した「祗園閣」がそびえる 大雲院の境内墓地にある。御影石に戒名を刻んだ高さ約二メートルの墓石は、角の所々が欠けてい る、実は人々が削って持ち帰った跡だといわれている。
墓は、以前に大雲院があった京都市下京区寺町通四条下ルの貞安前之町に、一九七九年まであった 墓石が削られたのは、そのころのことらしい。
理由は幾つか伝わる。住職が墓守に聞いたところによると、約数十年前、手癖が悪い子を持つ母親が 「五右衛門の墓石のかけらをお守りの中に入れると、悪い癖が治る」と耳にして、削りに来たことがあっ た、おそらく「希代の大泥棒」の反面教師を願ったのだろう。
また、心臓を患っていた中学生の母親が、完治を願って訪れたこともあった。数々の修羅場をくぐり 抜けた五右衛門の「度胸」を頼みにしたのかもしれない。
さらには、賭け事に強くなるとも信じられている。この理由では、他にも幕末の侠客・国定忠治の墓 碑も、博才にあやかろうとする人たちに削られているという。 住職「人に見られたら効果がなくなると信じられているので、削った皆さんはこっそりと持ち帰ります」
五右衛門の戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」といい、当時としては、社会に貢献した人や信仰のあつ い人に付けられた位の高い戒名だという。住職は「理由は分からないが、ただの盗賊につける戒名で はない?!!・墓石が出来たのは徳川家光時代時の権力者が変われば英雄扱い・・・・
義賊。時の権力者・豊臣秀吉に対抗した反体制派のヒーロー。時代を経て、五右衛門は歌舞伎の演 目などで、さまざまな姿に伝説化されている。墓石を削りに来た人たちは、良くも悪くも歴史に名を残し た五右衛門の「功績」に魅力を感じ、その「御利益」にあやかろうとしたのだろうか。

史料に残された石川五右衛門の記録はイエスズ会の宣教師アビラ・ヒロンの記した『日本王国記』
公家の山科言経の日記『言経卿記』処刑されたという事実は間違いないと考えられている。
実際の行動について記録されている史料は少ない、南禅寺の山門は五右衛門の死後の35年の建築である。


誠心院(和泉式部寺)

2010-02-27 15:13:01 | お出かけ
和泉式部に関白藤原道長が娘の上東門(じょうとうもん)院(藤原彰子(しょうし))に仕えていた和泉式部のために、法成寺(ほうじょうじ)東北院内の一庵を与えたのが当寺の起こりとされる。当初、御所の東側(荒神口の辺り)にあったが、鴨川の氾濫(はんらん)などにより一条小川(上京区)に移築再建され、更に天正(てしょう)年間(一五七三~一五九一)、豊臣秀吉の命令でこの地に移された。
和泉式部は老後をこの庵に住み、 その死後、 法名の誠心院をとって寺名としたと伝えられている通称「和泉式部寺」と呼ばれる。

『和泉式部集』

   ある人の、扇を取りて持給へりけるを御覧じて、
   大殿、「誰がぞ」と問はせ給ひければ、
   「それが」と聞え給ひければ、
   取りて、「うかれ女の扇」と書きつけさせ給へるかたはらに

      「越えもせむ 越さずもあらん 逢坂の
                  関守ならぬ 人なとがめそ」
和泉式部が「うかれ女」と認識され、評判の女とみなされていたとの査証としてあげられる歌であるが紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された『紫式部日記』

誠心院(和泉式部寺)

2010-02-25 15:11:42 | お出かけ

正式名の「東北寺(とうぼくじ)誠心院(せいしんいん)」は、開山である女流歌人 和泉式部の法名「誠心院専意法尼」によるその奔放な生き方と華麗な歌の詠みぶりで強烈な光を放った歌人『和泉式部集』『和泉式部日記』その才能は同時代の大歌人・藤原公任にも賞賛され正に男女を問わず一、二を争う王朝歌人といえよう今直多くの人々に感銘を与えている。

誓願寺(落語発祥の寺)

2010-02-21 11:08:27 | お出かけ



昔は六千坪を越える境内に七堂伽藍がそびえ、塔頭寺院十八ヶ寺を数える壮大なものであった。
この寺は歴史上有名な二人の女性作家が極楽往生している。
ひとりは清少納言。当寺で菩提心をおこして尼となり、本堂そばに庵室を結んだ。その後、 念仏して往生をとげたのである。
もうひとりは和泉式部
娘に先立たれ、その哀しみから世の無常を感じた式部は、播州の書写山へ高僧・性空上人を訪ね た。ところが、「京都八幡山の大菩薩に祈るべし」と言われ、岩清水八幡宮へ参って祈ると夢に老僧 が現れて「誓願寺で祈るべし」と告げられたのである。
そこで、当寺に48日間こもって一心に念仏をたなえたところ、今度は霊夢に老尼が現れて 「念仏をとなえれば女人の往生は疑いなし」とのお告げがあったという。式部は尼となって庵を結び、 ここでめでたく往生した。
この庵室が「誠心院」であり、今も新京極に現存している。
 
江戸時代の初期、この寺のお坊さんだった安楽庵策伝は、僧侶として布教に励むかたわら、文人 や茶人としての才にも優れていた時の京都所司代・板倉重宗の面前で数々の笑い話を語ったとい われ、江戸に伝わりさしずめ落語の生みの親といったところ『醒睡笑』八巻は後世に落語のタネ本 となり現在は芸能人で賑って居ますが、この寺は京の都より古く千三百年の歴史があります。

世阿弥の作と伝えられる謡曲「誓願寺」は、和泉式部と一遍上人が主な役となって誓願寺の縁起と霊験を物語つています。

誓願寺

2010-02-20 14:04:54 | お出かけ



誓願寺にゆかりの深い歴史上の人物も大変多く、ことに「清少納言」「和泉式部」「松の丸殿」といった女性たちからの深い信仰を集めたため「女人往生の寺」とも称され、そのほかにも落語の祖と呼ばれる「策伝上人」や謡曲「誓願寺(世阿弥作)」に謡われるなど、落語発祥の寺、芸道上達の寺としても広く信仰を集めていた。
扇は現代でも日本舞踊から落語まで幅広く使われ、さらには平安時代の上流階級の女性たちの生活に欠かせないものであった。

報恩寺(鳴虎)

2010-02-13 10:32:22 | お出かけ
虎年に吠える鳴虎(なきとら)の報恩寺といわれるこの寺は,中国の画人四明陶佾(しめいとういつ)が描く猛虎の絵を豊臣秀吉の所望により聚楽第の床へ飾ったところ,夜中に虎の鳴き声が聞こえ,秀吉は一晩中安眠できませんでしたので,すぐに寺へ戻されたことから鳴虎として有名になりました。この絵は寅年の正月三が日に限り公開されます 

日本には謎の鳥がいる。
正体はよく分からない。
中国から見れば「カモ」に見える。
米国から見れば「チキン」に見える。
欧州から見れば「アホウドリ」に見える。
日本の有権者には「サギ」だと思われている。
オザワから見れば「オウム」のような存在。
でも鳥自身は「ハト」だと言い張っている。

それでいて、約束をしたら「ウソ」に見え
身体検査をしたら「カラス」のように真っ黒、
釈明会見では「キュウカンチョウ」になるが、
実際は単なる鵜飼いの「ウ」
私はあの鳥は日本の「ガン」だと思う。

「ツミ」ばかり作り「カッコウ」ばかり付け
「ペンギン」のようにつぱって居る
でもそんなお「フクロウ」持ちたいが、
「トキ」すでに遅し質金トリに追われ着たきり「スズメ」
不死鳥の如きに生きたやこの身

「政治と金の集中審議」

生まれて5ヶ月のヒョウ子を60爺がイジメテモ?? 

報恩寺

2010-02-12 10:51:52 | お出かけ


通称千本釈迦堂は用明天皇(聖徳太子の父)が勅願の道場として開創されたと伝えられるが、その後廃滅に帰していたのを藤原秀衡の孫、求法上人義空1227年(安貞1)という人によって再建された、数々の伝説のある寺である。

創建当初から千本釈迦堂の名で親しまれてきた。本堂(国宝)は、応仁の乱で諸堂が焼失したなかでも残った洛中最古の木造建造物。建造時に夫である棟梁のミスを助けたあと、秘密を守るため自刃した「おかめ伝説」が残り、境内にはおかめ塚やおかめ像がある又豊臣秀吉が恐れた掛軸がある霊宝館には快慶作の十大弟子立像(重要文化財)、定慶作の六観音像(重要文化財)、千手観音像(重要文化財)な
どを安置。12月7・8日の大根焚きは京都の冬の風物詩だ


蛤御門の変(禁門の変)6

2010-02-02 19:25:23 | お出かけ

幕末の蛤御門地図・・・・当時の門は北向きにあった事が判る

京都御苑の周囲にある9門の一つ、天明の大火(1788年)の際に初めて開門されたこ とから「焼けて口開く蛤」にたとえられ「蛤御門」と呼ばれている今でも御門の梁にはめり 込んだ鉄弾が残っている、起きるべくして起きた戦い1864年(元治元年)、尊王攘夷派 の勢力を取り戻そうと、長州藩は兵を率いて京都に向かい、御所の近くの蛤御門[はまぐ りごもん]付近で戦いになり。これが禁門の変[きんもんのへん](蛤御門の変[はまぐりご もんのへん])です。
 
幕府(会津.桑名藩)薩摩藩両者の戦闘があり,長州藩はこの戦いに敗れ、久坂玄瑞は鷹 司邸内で自刃した鷹司邸に火が放たれた。火は折からの北風にあおられて,南へ拡大。 晴天続きで乾燥状態にあった京都の町は,たちまち火の海となった。堀川と鴨川の間, 一条通と七条通の間の3分の2が焼き尽くされた。この戦いはわずか一日で終わった、 しかし戦火は三日に渡って燃え続け「甲子兵燹図」に描かれたそのさまは地獄絵図のよ うで,命からがら逃げおおせた人々も,山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりであ ったという。
小川通御池上ルにある六角牢獄にも火の手は迫ったが,この時幕府側は,破獄(池田屋事件)を企てた という理由をでっち上げて尊攘派志士33人を斬首た。
この大火により実に42,000軒の家が焼失し,難民が河原などに溢れた。こうした事態は、 支配層内の対立や薩長の天下支配欲によって引き起こされたものである。一部の人間 の私利私欲が京都の街を火の海と化したという,応仁の乱以来の悲しい歴史上の事実であった。

久坂玄瑞は、高杉晋作と共に『松下村塾の双璧』(もしくは竜虎)と称さた。
西郷隆盛は“今生きておったなら私などはこんな大きな顔をして政府の高官面はしておれ ない”と長州人に会う度言っていたという。
吉田松陰が、29歳久坂玄瑞25歳、高杉晋作28歳、彼らは、いずれも三十に満たずに亡くなっている、時代が動くときの出来事だろうか。

**天明の京都大火、(1788 年3月7日)御所焼失 町1,424・焼失 焼失家屋36,797(65,340世帯相当)・焼失寺院201・焼失神社37とされる。また、死者については150人説と1,800人説がある。壮麗な御所は建てられないとする幕府との間に摩擦が起こった尊号一件などの紛争

余談
「禁門(蛤御門)の変」駒札の説明文を修正に「御所の護衛に当たっていた会津・薩摩藩との間で激戦が行われました」と書かれていたが長州藩と交戦したのは会津、桑名両藩で、薩摩藩は別の門(乾門)からの応援部隊だった。
当時の桑名藩主・松平定敬は京都守護職だった松平容保の弟で、中心で幕府を支えた。会津ほどではないが、桑名は明治維新以降、賊軍という悲しい扱いを受けている。そういう歴史があったことを知ってもらいたい」と“復権”に期待を寄せた「三重県桑名市」


蛤御門の変(禁門の変)5

2010-02-01 20:02:10 | お出かけ
進軍する長州兵と避難する京都の市民「甲子兵燹図」より・・・旗印に??

蛤御門の変(禁門の変)1864年8月20日(元治元年7月19日)長州藩と幕府軍の激戦であった被害の範囲を描いたかわら版が多く残され又各自が墨や朱色で記載している。
        
蛤御門附近の戦闘を描いたかわら版紙面から戦闘による火災であることが分かる図↑↓
 
元治元年子七月十九日辰刻頃
河原町二条より出火仕少し鎮方相成
候所已刻より堺町丸太町辺より又候
出火仕候折節北東風つよく相成
丸太町通を寺町へ焼出革堂
残る夷川を河原町にて火留る西ハ
烏丸通を上長者町又下立売は
新町椹木町西洞院丸太町
東ほり川下ハ野原まて焼ぬけ
西堀川通別条なし並本国寺又
西本願寺御堂別条なし東本願寺
ハミなミな焼失不動堂にて火留る
又東は加茂川通り突抜寺町木や
町等ハことことく焼失併祇園
御旅道場ハ別条なく東辺も
同断依て東ハ河原町
上ハ下立売下ハ九条
西ハ堀川まて焼失仕候
凡家数
二万五千計
かまと数
四万七千計
土蔵落
千五百ケ所
神社仏閣
五百ケ所

左が北,黒く塗られている所が焼けた範囲

左上の書文       
元治元甲子年
七月十九日河原町
二条下ル 御屋敷
朝五ツ時出火四ツ時堺町
御門より焼出シ其より
四方江焼広かり東加茂川
北今出川南焼抜老若男女わか
ちなく東山あるいハ山しな北山辺へにげ
ゆき其そうどう筆紙ニいたしかたし
さが天龍寺山さき伏見出火廿二日火しず
まり

蛤御門の変(禁門の変)4

2010-01-31 10:43:24 | お出かけ
蛤御門の変時公家の屋敷があったことから「清水谷家の椋」、長州藩士、来島又兵衛がこの木の付近で討ち死にしたとも伝えられて居る、御所周辺には宮家や公家たちの屋敷が集められ、大小200もの屋敷がたったが、多くの公家達もやがて東京に移住した。

①長州藩家老、福原越後が伏見方面から御所
②真木和泉守、久坂玄瑞が、南西の大山崎から堺町御門
③西の嵯峨方面からは、家老国司信濃、来島又兵衛が蛤御門と中立売り御へ・・・長州軍兵力は、総力3000人
戦死者
[長州軍]・・・265名
[幕府軍]会津藩・・60名越前藩・・15名彦根藩・・9名薩摩藩・・8名桑名藩・・3名淀藩・・2名合計・・・97名



攘夷派の公家たちは排除され長州藩兵に守られの三条実美ら七卿落ちの図

「振りしく雨の絶え間なく 涙に袖の濡れ果てて これより海山、浅茅が原 」・・・・久坂玄瑞


蛤御門の変(禁門の変)3

2010-01-30 18:50:50 | お出かけ
蛤御門の変(元治元年7月19日)の直前まで、長州軍約500人(家老国司信濃、来島又兵衛)が屯営した嵯峨天龍寺に陣を敷き、血気にはやる兵士が柱に試し切りした跡がこの傷で多くの刀痕が残された。商家(山中油店)にも刀痕「逃亡する長州兵の刀傷」「暴挙」を残した。

逃亡する途中山中油店で刀痕を残し天龍寺へ仁和寺街道を西進し山陽街道を南下し大山崎で久坂玄瑞隊と合流


余談
薩摩藩は、長州軍を駐留させたとの理由で天龍寺に砲火を浴びせようとするが管長滴水禅師は、総門前の大砲に立ちはだかり、「全山を焼くならまず自分を打ち殺してからにせよ」と言う。
薩摩は、「それでは大義名分が立たない。ただ空砲のみを撃てばよい」と名分をつけるが、実際は、実弾を放ち全山ことごとく焼亡する。禅師は開山の木像を背負い付近の竹藪に難を避けた薩摩の砲火で天龍寺八度目の焼亡。「元天龍寺管長関牧翁著」