プレジデント フィフティ・プラス
2007年12.12号別冊記事より「定年後、家での居場所はあるか」
残間里江子さんに聞く
「手がかからない」のは当然で外から賞賛される自慢できる夫であれ。定年を迎え、社会人人生の大半の時間を預けてきた会社組織から開放解き放たれたとき、団塊男は身の置き場をどこに求めたらよいのだろうか。
現役時代、それは家庭であった。社会の中で疲れた体と心を蘇生してくれる砦のような存在が家庭であり、妻も夫が働くことで報酬を得、それで生活が成り立っているという意識を持っていた。だから夫を慰め、蘇らせる役割を、進んで、あるいは割り切って行ってきた。
定年退職とは、社会的な立場を剥奪されることによりこの図式がガラリと崩れることを意味する。定年を迎えた後も報酬に結びつく活動を行っている限り、稼ぎ手として存在価値のある夫は家に自分の居場所を確保できる。だから、いまの居心地を定年後もキープしたいなら、プランナーなりコンサルタントなり、お金に転換できるスキルを現役のうちに体得しておくべきだ。
そうでなければ、俄然家庭での居心地は悪くなる。掃除、洗濯、炊事など、積極的に家庭の中で何か役割を自分が担うか、それが無理なら、極力妻の邪魔にならないよう「壁の影絵」と化すほかはない。
家では妻が主役であることは間違いない。夫は、これまでは観客のような存在だったが、これからは主役を立てる、味のあるバイプレイヤーを目指したい。気負っては失敗する。ドラマや芝居でいえば、名もない「通行人役」から始める気持ちで取り組めばよいと思う。
そうした場合、妻への気遣いが何より重要となる。それも表立ってのものでは不合格。さりげない配慮でなくてはならない。妻が用事で朝早くに家を出るとするなら、玄関で見送るような気遣いではNG。(わざわざ出てくるなんて、嫌みかしら)と疑われるのがせいぜいだ。トイレに入っているとか自室で寝たふりをしているほうが、よっぽど高い点数を稼げるのである。
家の中で「邪魔にならない」「手がかからない」存在であるのは当然として、リタイア後の夫を妻は、(私が抱え持っているのはどんな男なのか)と冷静に眺めている。社会的価値の維持を妻が願うのは、収入を運んでくるという第一目的に加え、引退後も外からの賞賛を得られる、自慢できる夫であってほしいからだ。
「会社を辞めた後、規模は小さいけれど自分で会社を始めたのよ」と周囲に言い、羨望を得て小さな優越感に浸りたいのが妻心というものである。年金収入が豊富にあり、生活にゆとりがある場合でも、ボランティアなどを行って社会と繋がっている「現役感」を演出すべきだ。妻は「うちの夫、坂本龍一と同じボランティアをやっているの」といった、見栄をくすぐられる部分に至上の価値を見出す。「まあ、ご主人かっこいいわね」と夫が褒められれば妻はご機嫌がいい。いつもの発泡酒が、その日だけビールに変わることもあろう。
ファッションにも気を抜けない。近所の人たちの目があるからだ。生きた情報も欠かせない。ザ・ペニシュラン東京に、わざわざ部屋をとるまでせずとも、妻をエスコートして食事に行けるような男でいることが、実に大事なポイントなのである。
このように、引退後は生活能力に加え、家庭力、人間力が試される。どう生きるか、どういう男でいるのか。居場所の問題ではなく、有り様の問題になってくる。
言うまでもないが、「リタイアしたら毎日ゴルフしようっと」などと思っている人間には、家のどこにも居場所はないのである。