Tomorrow is another day (明日は明日の風が吹く)

  あくまでも個人的主観ですが、思ったこと、感じたことを遠慮なく書きます。

敗戦の日も終わりました

2015-08-16 11:22:02 | 機能追加変更について

テレビ局にもよるでしょうが、戦争の悲惨さ、命の尊さを古い戦争映画で放映してくれています。

15日昼からの「男たちの大和/YAMATO」は以前観ております。

でもまた観ました。すると前にはストーリーに追われ、気が付かなかったり、感じなかったりした、人々の”心”が見えてきたのです。

大本営という人間性の欠片(かけら)もない、そして戦後[嘘吐き]の代名詞にもなった、自分たちは決して危険な戦線には出ず、安全なところに隠れ、戦闘部隊や中学生くらいの少年兵の命、また一般民間人の犠牲、生活苦などお構いなしに、出鱈目指示、命令を下していました。

噂によれば庶民の生活苦をよそに、この連中は毎夜酒池肉林の宴会を続けていた、とのこと。

戦後この連中は素知らぬ顔で逃げ去り、責任をとることはなかったみたいですよ。


今回は落ち着いて観られましたから、現実とフラッシュバックを混同せずに、じっくり自分の戦争体験・・戦闘体験ではありません・・と向かい合うことが出来たのです。

私の体験はこうです。
爆撃目標にならないように、灯りが漏れないよう家々の窓には黒幕を張り、引き籠って息を殺しておりました。
毎夜のごとく空襲警報が発令され、何時爆撃されるか判りません。
そんなある夜、近くに焼夷弾が落され、近所の住民と避難を始めたのです。この近くの爆撃で、同級生が焼夷弾を肩から撃ち抜かれ死んだことを後で知りました。

私など数名の小学校生は、よく遊びに行き地形や裏道を知っているので、真っ暗な道を懐中電灯も点けず先頭に立たされ、小川の方に進みました。
でも途中から真っ直ぐに行くと、道がなくなり赤ん坊をおぶったり、小さな子供の手を引いて、雑草の生えた土手際を歩くのが無理そうなので、一緒に歩いた組長さんに、左に曲がると楽に歩けると相談すると、左に行こうと決めてくれました。(参考までに組長さんとは隣組の責任者です)

そして数分経ってから、左の小道を再び歩き始めた時に、直進方向の多分40~50メートルから先に、焼夷弾が雨霰(あめあられ)と降ってきたのです。

若し我々子供たちだけなら、馴れた道なので当然直進したでしょう。それに組長さんが皆が歩けるように決断したから、無事に爆弾の直撃を避けられたのだと思います。

本当に命拾いをした夜でした。

これが戦争なんです。

そう言えば、何処かの軍国主義政党の「陣笠」(足軽という寄せ集めの役立たず最低雑兵)どもが、ボスの気に入れられようと、国民に呆れられても、意味不明の戦争礼賛寝言を並べたてていますね。

また仏の道を説くべき使命を何処吹く風と、陣笠同様使い走りに甘んじている、おかしな政党もありますね。そこまでして政権にしがみつきたいのかなあ。

まあ橋下徹大阪市長にどやされた通り、それじゃあお前たちが戦争に行け、と言いたくなりますよ。
もっとも弾丸の飛び交う戦場では、恐怖の余り立ち竦んで小水(尿)を漏らすのが、口先だけ勇ましく中身のない連中には関の山でしょう。

古いことで、はっきり年月は覚えておりませんが、10~11歳頃には、米軍機の機銃掃射の洗礼も受けていますからね。ただ自分の方に向けて直接ではありませんが、それでも恐怖で暫くは動けませんでした。

なお私は「終戦記念日」とは言えません。
本当は「敗戦の日」じゃないですか。
日本人の悪い癖で、いくら言葉を取り繕って言い換えても、意味がないと思いますけどね。

追記:なぜ日本軍や住民は全滅する前に、降伏出来なかったのか、という疑問が残るでしょう。
これは戦犯 東条英機 が作った「戦陣訓」によるかららしいです。
ただ反対意見もあり、どちらが正しいかは判りませんが、公平を期す為にURLを書いておきます。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1437942929

なお、この表示される画面を下にスクロールすると、「戦陣訓の検索結果」があり、ここで読み比べられます。

折角70年続いた平和ですが、遥か遠い国々の領海侵犯をしてまで、自衛艦を派遣したいとか、何やらキナ臭い匂いもしているみたいですよ。