兵庫県尼崎市のJR福知山線で25日、大きな電車脱線事故が起き90人以上の人が亡くなった。
20年以上昔のことだが、電車脱線事故取材にめぐり合ったことがある。十数人が亡くなったと思うが、忌まわしい記憶は自然に薄められるのだろうか、正確な数字は覚えていない。
今度の事故は先頭車両がカーブで脱線してマンションに突っ込んだ。私が関わったケースでは後部車両がカーブの遠心力で振られて脱線転覆した。ブレーキが壊れた電車が長い下り勾配を暴走した末のことだった。
私の取材守備範囲の隣の市でのことで、駆り出された。現場に行くと修羅場だった。脱線した電車には非常線が張られていて近づけない。線路の脇にうずくまっている人が何人かいた。血を流した人が、消防団の法被を着た人たちに運ばれていた。担架ではなく、付近の民家の戸板に乗せられていた。生きているのか死んでいるのか分からない。カメラを構えて夢中でシャッターを切った。
上空には10機近くのヘリや飛行機が舞っていた。順番に高度を下げ、写真を撮っていた。カメラマンが操縦士にもっと低くーと手で指図しているようなやり取りまで見えた。
大事故の時の新米記者の役割は、亡くなった方の顔写真を集めることだ。家族や勤務先、学校、友人などを回り故人の写真を入手する。わけが分からず、とにかく行けーとデスクに言われて一軒の遺族の家に行った。
車のフロントガラス越しに、その家が近づいていくところは映像となってよく覚えている。近所の人や親戚などが集まっているようだった。車を降りて近づくと人垣の中心で泣き声が聞こえた。声をかけるのをためらったが、怖いもの知らずというのだろうか、「亡くなった方の写真をください」と言った。死者は大勢いるので、他にも回らなければならない都合があった。その時の私にとって、ここはいくつかのうちのひとつだったのだ。
人垣がわれて、涙で顔をくしゃくしゃにした中年の女性が食って掛かってきた。思わず後ずさりした。なんと言われたか覚えていないが、突然家族を奪われたやり場のない怒りをぶつけられたのだと思う。考えてみれば当然だ。逃げ出したかったが、それもできなかった。親戚と思われるおじさんがとりなしてくれた。その女性の肩を抱いて「記者さんも好きで来ているわけではない、仕事なんだから」といったようなことを言ってくれた。その後のことはよく覚えていない。写真は貰ったようだ。帰り道の記憶はない。
読者は何気なく見過すだろうが、亡くなった方の顔写真の掲載にマスコミは力を入れる。他社に負けるな、一人でも多く載せろーとやっている。なぜそれほどに?と思って先輩記者に聞いたら、「被害者の顔写真を載せることによって事故にリアリティーをもたせ、再発防止の一助にするため」といったような答えが返ってきた。あまり説得力はない。「顔写真がないと格好が付かないからさ」といったほうがピンとくる。
人の死に立ち会うことで記者は鍛えられる。そんなこともあってガン首集めは新米記者の仕事なのかもしれない。
いまプライバシーがやかましく言われ、昔のように安易に被害者の名前や顔写真が載ることはない。今度の場合も「遺族の了解を得てー」と断り書きが付いた記事もある。
昔は何が何でもガン首(顔写真)を取ってこいーといった調子だった。今はそれほどのことはしないようだ。
今度のように不特定の人が電車に乗り合わせた場合は集めるのに手間がかかる。まったく横の繋がりがないので一人ひとり個別に当たらなければならないからだ。組織単位での事故の場合は、妙な言い方だが簡単だ。
大事故のとき記者たちはテンションが上がる。
何人になったぁ~!
などという声が飛び交う。死者の数のことだ。それによって見出しも扱いも変わる。
普段は冷静な人が殺気立ってそう叫んでいるのを見て驚いた。酔うと詩吟など詠じる人のどこにそんな一面があったのかと思う。
プライバシーは大事だが、多くの人が名前も顔も出さずに死んでしまったら、その事故のリアリティーは薄まる。過度に感情的になるのはよくないが、人が死んで何の感情もないのもどうなのだろうか。ガン首写真はその人がこの世に存在し、亡くなったことの最後の証でもある。
死亡者を「匿名の男性何歳ー」といった報道のしかたをしているテレビ番組があった。家族の希望だという。そのうち全部が匿名になったらどうなるのだろう。事故の痕跡や問題性も薄まってしまわないか。
プライバシーより命のほうが大事ではないのか。不慮の死をとげたときぐらい、顔写真や名前を出したほうがよくはないだろうか。
死亡者の顔写真の裏には、不条理や無念、怒りなど様々なものが潜んでいるような気がする。
ガン首写真の掲載は、”プライバシー”と”報道”の狭間で揺れている。各マスコミもガイドラインはなく、ケースバイケースでやっているようだ。
20年以上昔のことだが、電車脱線事故取材にめぐり合ったことがある。十数人が亡くなったと思うが、忌まわしい記憶は自然に薄められるのだろうか、正確な数字は覚えていない。
今度の事故は先頭車両がカーブで脱線してマンションに突っ込んだ。私が関わったケースでは後部車両がカーブの遠心力で振られて脱線転覆した。ブレーキが壊れた電車が長い下り勾配を暴走した末のことだった。
私の取材守備範囲の隣の市でのことで、駆り出された。現場に行くと修羅場だった。脱線した電車には非常線が張られていて近づけない。線路の脇にうずくまっている人が何人かいた。血を流した人が、消防団の法被を着た人たちに運ばれていた。担架ではなく、付近の民家の戸板に乗せられていた。生きているのか死んでいるのか分からない。カメラを構えて夢中でシャッターを切った。
上空には10機近くのヘリや飛行機が舞っていた。順番に高度を下げ、写真を撮っていた。カメラマンが操縦士にもっと低くーと手で指図しているようなやり取りまで見えた。
大事故の時の新米記者の役割は、亡くなった方の顔写真を集めることだ。家族や勤務先、学校、友人などを回り故人の写真を入手する。わけが分からず、とにかく行けーとデスクに言われて一軒の遺族の家に行った。
車のフロントガラス越しに、その家が近づいていくところは映像となってよく覚えている。近所の人や親戚などが集まっているようだった。車を降りて近づくと人垣の中心で泣き声が聞こえた。声をかけるのをためらったが、怖いもの知らずというのだろうか、「亡くなった方の写真をください」と言った。死者は大勢いるので、他にも回らなければならない都合があった。その時の私にとって、ここはいくつかのうちのひとつだったのだ。
人垣がわれて、涙で顔をくしゃくしゃにした中年の女性が食って掛かってきた。思わず後ずさりした。なんと言われたか覚えていないが、突然家族を奪われたやり場のない怒りをぶつけられたのだと思う。考えてみれば当然だ。逃げ出したかったが、それもできなかった。親戚と思われるおじさんがとりなしてくれた。その女性の肩を抱いて「記者さんも好きで来ているわけではない、仕事なんだから」といったようなことを言ってくれた。その後のことはよく覚えていない。写真は貰ったようだ。帰り道の記憶はない。
読者は何気なく見過すだろうが、亡くなった方の顔写真の掲載にマスコミは力を入れる。他社に負けるな、一人でも多く載せろーとやっている。なぜそれほどに?と思って先輩記者に聞いたら、「被害者の顔写真を載せることによって事故にリアリティーをもたせ、再発防止の一助にするため」といったような答えが返ってきた。あまり説得力はない。「顔写真がないと格好が付かないからさ」といったほうがピンとくる。
人の死に立ち会うことで記者は鍛えられる。そんなこともあってガン首集めは新米記者の仕事なのかもしれない。
いまプライバシーがやかましく言われ、昔のように安易に被害者の名前や顔写真が載ることはない。今度の場合も「遺族の了解を得てー」と断り書きが付いた記事もある。
昔は何が何でもガン首(顔写真)を取ってこいーといった調子だった。今はそれほどのことはしないようだ。
今度のように不特定の人が電車に乗り合わせた場合は集めるのに手間がかかる。まったく横の繋がりがないので一人ひとり個別に当たらなければならないからだ。組織単位での事故の場合は、妙な言い方だが簡単だ。
大事故のとき記者たちはテンションが上がる。
何人になったぁ~!
などという声が飛び交う。死者の数のことだ。それによって見出しも扱いも変わる。
普段は冷静な人が殺気立ってそう叫んでいるのを見て驚いた。酔うと詩吟など詠じる人のどこにそんな一面があったのかと思う。
プライバシーは大事だが、多くの人が名前も顔も出さずに死んでしまったら、その事故のリアリティーは薄まる。過度に感情的になるのはよくないが、人が死んで何の感情もないのもどうなのだろうか。ガン首写真はその人がこの世に存在し、亡くなったことの最後の証でもある。
死亡者を「匿名の男性何歳ー」といった報道のしかたをしているテレビ番組があった。家族の希望だという。そのうち全部が匿名になったらどうなるのだろう。事故の痕跡や問題性も薄まってしまわないか。
プライバシーより命のほうが大事ではないのか。不慮の死をとげたときぐらい、顔写真や名前を出したほうがよくはないだろうか。
死亡者の顔写真の裏には、不条理や無念、怒りなど様々なものが潜んでいるような気がする。
ガン首写真の掲載は、”プライバシー”と”報道”の狭間で揺れている。各マスコミもガイドラインはなく、ケースバイケースでやっているようだ。