Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

農業という孤独な世界

2009-02-19 23:06:30 | 農村環境
 「兄弟の在りか」においてその所在における差をどう自分に納得できるか、そしてどう相手を思いやるかということついて触れた。ときに思いやりとは「何」、と問うことにもなる。交易を日々繰り返し、さまざまな顔を見、さまざまな関わりの術を養っている人たちは、心と顔は違えて表すことは可能である。それを裏腹というかもしれないが、本音と生きる術のための顔は違って当たり前と言うのだろう。しかし、場面によってはそういう術を出されても通用しない「とき」というものがある。「とき」だけではなくそれは相手によっても異なる。

 少し精神的にまいっている妻を、「病気である」と判断してしまえば、あとはつながらない。さらに悪い方向に進んでしまう。今までこの関係を育ててしまったところに問題の原点があるのだろうが、病にその原点を持っていったら、妻は救えない。そしてそうした環境を招いてしまったのは、言うまでもなくそこにいた家族であるからだ。冒頭でわたしが「交易」という言葉を使った。農業を自らが身を置く空間で営むということは、現代においてはかなり隔離されたものとなる。昔なら地域丸ごと農業をしていたし、交易といっても今のように広範にわたるものではなく、その相手も限られていた。皆がおなじことをしていればそれで安心となる。ところが現代における農業は個人企業のようなもので、個人の才覚によって大きく差となって現れる。そして誰も助けてはくれない。支えられるのは今までのつきあいと、家族ぐらいなのである。現代においては誰かがかならず外とのつながりを持っているだろうし、糸口はある。ところがその糸口が信用できないものとなれば、隔離されていた世界に毎日を暮らしていると、なかなか精神的にこたえるところが大きい。自らの中でそれをどう解消するか、それが自らの術となるのだろうが、企業的にそれを個人の資質とか言って批判をしたら、農業はやっていけない。そんな隔離された世界に、若者が入るはずもない。入ったとしても、そうした現実を知らずに個人農業に入ったら、いつか妻同様に鬱積が発散するときがあるだろう。認識していても彷徨っている妻の心の中は、継続していきたいという農の世界で不信感に陥っていることは確かなのだ。

 もはや外との関わりから遮断された世界で、苦悩する個人農業の姿と言わざるを得ない。そして維持継続なのか、それとも発展なのかというところでも意識は異なる。だからこそ一線を退いた後の老後の農業なら成り立つということなのかもしれない。今の農村で農業をするというのは、とても孤独なことなのである。自由なことては言うまでもないが、精神的な部分をどう維持していくかというところが課題といえる。そして妻のやっていた農業を、跡取りが定年後に帰農するための維持継続だという価値に置いてしまったら、妻は自らの所在をさらに不安なものに思うはずであり、まさにそこに行き着いてもいる。現代の農村に、妻と同じような境遇の農業者がいないとは言わないが、数少ないことだろう。だからこそ周囲はそれほど深くは考えてこなかったが、実は農業の現場はそんな程度に捉えられているのかもしれない。簡単に言えば趣味とでも思われているのではないだろうか。この姿で農村や農業というものを維持継続させるのは危ういのは当たり前なのである。

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