Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

兄弟の在りか

2009-02-16 12:53:27 | ひとから学ぶ
 もう何年か前になる。同好の人たちのためにといろいろ働いても、結局自分のには得するものはなく、人が得を重ねていくことに対して、兄と大喧嘩をしたことがあった。なぜ兄と喧嘩になったのかは、その事例の相手が兄と同じ会社で働いていた人だったからだ。その相手のことを兄に投影して批判したことに始まる。生家に秋の祭りで呼ばれていた酒席でのこと。取っ組み合いの喧嘩になって、見事ないい歳をしたおとなというかおじさんたちの喧嘩になったわけである。父もそんなわたしに呆れて子どものころ以来というほどに「出て行け」と真っ赤になって怒ったものだった。義姉も「もう二度と来なくていいから」とわたしに言った。

 その後、そのとき悲しい思いで見つめていた母が「爺さんや婆さんが死んじまえば、身内は兄弟だけ、たった2人の兄弟なんだから仲良くしていかにゃいかんに。姉さんにだって面倒をかけるんだから」と電話をしてきて謝るようにと諭されたのである。百も承知で一匹狼みたいなことをする気短な自分が予想したように起こした事件。この歳になって嫌な思いなどしなくて良いのにと思うものの、自分の不遇を人に充ててしまったわたしの悪いところをさらけだした一場面である。親が亡くなってしまえば、まさに兄弟だけ。昔と違って子どもが少ないから兄弟も少なければ子孫すらままならない状況。確かに身内というものがとても希薄になってきた時代だけに、母のこの言葉はわたしの心にしみじみと行き渡った。

 父のそして母の面倒見てもらっているだけ、兄にそして義姉に対しては感謝の気持ちは十二分に持っている。にもかかわらずなかなか生家には何も返せないでいる自分は身勝手でありながら、こんな事件を起こした。この背景には、自分と兄の会社の待遇の違いや、わたしも自由な生き方をしてきたが、兄も趣味を十二分に謳歌してきているということをわたしが認識していて、同じ兄弟なのになぜ違う、というどこかに鬱積がたまっていたことがある。とくに自分の会社の将来に大きな不安を見出し、とても定年までは働けないという事実を知って、自らの心のうちが不安定になっていた時期でもあった。よく言うように「人のせいにしてはいけない」と解っていても、それを受け入れるだけの余裕がなかったし、自分の認識にはそんなに大きな間違いがないという自信のようなものもあっただろう。

 同じよなことは世の中にたくさんあるだろうし、誰にもあることのはず。どうしても人との格差みたいなものを自らに問うことになる。そしてとくに自分の苦労が自分のためというのならともかく、人のためになっているとなると鬱積はたまる。とくにそれを兄弟に向ければこういうことになる。特別仲が良いと言うわけでもない兄弟にあっては、当然の成り行きということになってしまうのだろうが、それと同じようなことが妻にも起きた。わたしが長い間見ていた中ではそういうことは起きそうもなかった兄弟だったはずなのに。その背景には、やはり配偶者という存在が介在してくる。結婚をして他人が入り込んでくると、それまでの関係は変化していく。兄弟の少なくなったこの時代においては、なかなかそれを解消する術がなかったりする。そして同じようなことは家族だけではなく、社会でも起きる。かつての常識では解決できないからこそこういうことになる。しかしいっぽうでかつての常識と比較するから鬱積はたまる。より以上に人のこころの動きを見、それに対応できる術を養っておかないと生きられないということになるだろうか。

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