Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

昭和庚申から36年・前編

2016-06-02 23:57:51 | 民俗学

 そのムラも、戦後は、神社の祭りを廃し、人々の集まり所であった舞台も取払ってしまった。養蚕の衰えと共に、蚕玉祝いもなくなった。堂は早く廃されて、跡形もない。ただ、道陸神は昔のままに建ち、小正月、厄年の男女が厄落しのお詣りにいくだけとなった。
 このムラがどの位続いてきたかをみるに、年代のはっきりしない庚申像(青面金剛像)が一基、それにつづいて元文五年(一七四○)・寛文十二(一八○○)・万延元(一八六○)・大正九(一九二○)と庚申塔が、いずれも庚申年に建っている。そして、今年、昭和五十五年(一九八○)年には庚申年である。
 この年に当っての、庚申塔の造立を、すでに、庚申講を催すほどの信仰を失っているムラのひとびとが諾うかどうか心配があったが、数人の年寄りの発起人が、その議をおこしたところ、反対する者ひとりもなく、自由意志による寄付金も予想以上に集まりムラ中相寄っての祝宴も楽しく開かれた。その席上出たことばに「お祭りもなく、蚕玉祝いもなくなって、ムラ中相集まったことは戦後はじめて。実に三十余年も経っているが、お互い近隣として暮らしているのだから、何とか、一年に一度くらいは集まって語り合いたいものだ」とは異口同音であった。

 以上は『地域と創造』が大型企画と題して「農村・農業・農家」を扱った12号(1980年)に掲載された向山雅重氏の「果たして信州のムラは変わったか」の中の一文である。向山雅重氏の著作集には掲載されなかったものであるが、向山氏はこうした生活の変化に関する記述も幾度かされている。とりわけ「果たして信州のムラは変わったか」は、その変化を身近な事例から表していて共感するところが多い。ここにあげられたムラは祭りも廃し、舞台も取払ったというからかなりの変化を遂げたムラといえる。それでも石塔だけはそのままにされて、ムラの歴史が年銘という事実に裏付けされるわけであるが、とりわけこれほど変化を遂げたにもかかわらず、昭和55年の庚申年には造塔が行われた。向山氏のお膝元であった上伊那は、昭和の庚申の造塔が盛んな地域だった。昭和55年を前にして、果たして来る庚申年に造塔はどれほどあるか、と関心が持たれたのは言うまでもない。そして庚申年に上伊那で建てられた庚申塔は、『伊那路』に荻原貞利氏によって報告された数は366基。この造塔については胡桃沢友男氏によって『日本の石仏』18号に「庚申年の造塔をめぐって」と題して報告されている。とりわけ上伊那の造塔にはどのような背景があったのか、と。すでに信仰が衰えていたにもかかわらず、造塔は実施された。この夥しい造塔から、すでに36年を経る。ようは次の庚申年までそう遠くないところに来ている。昭和55年の4年後に甲子年があって、甲子塔の造塔も見られたが、庚申塔ほどのものではなかった。それだけ庚申に対する信仰が特別なものだったわけであるが、そもそも造塔を行った単位のムラが崩れている中で、あと15年ほどに迫った庚申年がこの地の人々にとってどんなものになるのか、注目されるところである。

続く


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