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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

道を渡る事情 後編

2020-09-03 23:02:48 | ひとから学ぶ

道を渡る事情 前編より

 横断歩道に人がいれば、渡ろうが渡らなかろうが、停まらなくてはならないのは、ドライバーとしての常識だ。にもかかわらず、よその県ではほとんど停まらないというところもあるというのだから、そもそも交通法規は何のためにあるのか、ということになる。横断歩道を設けるのは、横断者が渡る空間が必要とされたからのこと。そこに地域性はないのか。例えば横断歩道がなければ、どこでも渡る。逆に横断歩道があるために、横断歩道がないところで渡るのを戒めたりする。田舎の横断歩道は、どちらかといえば、初期は弱者(ここでいう弱者とは子どもやお年寄り)対応のために設けられていったのではないだろうか。あとは横断歩道必須の信号機のある交差点は当たり前のこと。水田地帯に横断歩道が設けられるのは後のことだ。したがって信号機のある交差点に横断歩道があることはイメージできても、そうでないところに横断歩道があることは想像しにくい。ようは、横断歩道のある場所を記憶の中から想起しても、「ここにある」と断定できないのが一般人の意識と言える。したがって「あそこに行けば」それがあるというイメージがないのである。にもかかわらず、「横断歩道ではないところを渡った」などと戒める空気が流れるのに、違和感を抱くのは当然のこと。ひとはそれほど完璧ではないし、それ(横断歩道)を強く意識することはない。街の中ならともかく、そうでないところの横断歩道はきわめて少ない上に、そうしたところでは一時停止する車は稀だ。

 だからこそ、あえて横断歩道がないところで渡ることを選択するし、歩行者意識として車を停めてまで「渡る」ことを想定していない「地方」なのだ。最近はそれほど見なくなったが、かつては信号機がある交差点で、信号機が赤でも渡る人がよく見かけられた。ようは信号無視と映るわけだが、そうした人たちに高齢の方たちが珍しくなかったのは、横断歩道を渡る際の意識に近いものがあったと想像する。たとえ信号が青で、当たり前に渡ることを許される空間であっても、ドライバーから見られながら渡ることに「屈辱」とまでは行かなくても立場の優劣があることを感じる人が多かったのではないだうか。もちろんそれは信号機が世の中に当たり前に存在するようになる過程での事情だったのだろうが、今そこまで意識する人はもういないのだろう。しかし、横断歩道での立場の優劣は、今もって存在するはず。それをどうパスするか、実際に横断歩道に立って、車の往来の激しい空間に身を置くと、それぞれの意識と性格が現れる。車道を「人が渡る」という場面には、まさに人それぞれの「事情」が表面化して観察すれば面白いに違いない。もちろんそれはふだんの生活が現れるといって良い。単純に信号機のない「横断歩道」の存在を、一時停止するしないという確率だけで見てはつまらないのである。


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