『伊那路』昭和39年8月号に米山清氏が「名塩国道・伊那一牧ケ原トンネル」を投稿している。かつては伊那谷の幹線道路である国道153号を「名塩国道」と称すことがよくあったが、今このような名称を使っても、ほとんどの人は知らない。「名塩」とは名古屋と塩尻を指す。もちろん両者を結ぶ国道だからそう呼ばれた。中川村の天竜川右岸に伊那谷の扇状地と段丘が造り上げた地形には珍しくトンネルがある。辰野町から飯田市の間で、天竜川右岸にトンネルはとても珍しい。その珍しいトンネルがここでいう牧ケ原トンネルなのである。実はわたしがまだ子どものころ、遠足で坂戸橋まで行った際に、少し足を延ばしてできてまだ間もないこのトンネルを遠目に望んだことを思い出す。トンネルは開いていたが、その北側の道路はまだ完成していなかった。いまもって健在のトンネルであるが、なぜここにトンネルが必要だったかといえば、牧ケ原の台地が天竜川まで張り出していて、ここを通り抜けるには段丘を上って、また下るという田切地形特有の迂回が必要になる。それほど長い距離ではないので、トンネルで通過すれば短縮出たというわけである。当時としてはこり理想的改良は画期的だったというわけだ。
米山氏の冒頭の文は、飯田線を引き合いに出している。
今から凡そ五十余年前の大正二年頃伊那電会社が電車の敷設の為め当地路線の測量を始めました、丁度只今の国道附替路線の如く飯島町与田切橋より天竜川沿いに下段へ下り、片桐地籍を経て今の松川町大島へ通ずるというのです。
処が此電車敷設に関し、村では受入処か時の地主始め村民一般無関心で、交通に熱意と理解なく、反って電車通過に反対を唱えるものもあった、村の人々の中には電車開通になれば村の若者共が飯田町へ遊びに出ることが多くなるからと言っている、其頃地主の権利は又格別強く個人的利害によって万事左右される事が多かったものであった。
この地では大正六年六月初めて各家庭に電灯がつく様になったが地主の承諾がないので一ヶ年もおくれて点灯した所もあった、此一事を見ても如何に専制的であったか察知出来ると思ふ。
飯田線は段丘上へ迂回するように片桐地籍を遠巻きに迂回した。「地主」という単語が繰り返されているが。ここにはオヤカタと言われる大地主があって、鉄道が通ることに反対したと言われる。故に米山氏は飯田線を引き合いに出す。そして今回の国道は迂回することなく、さらに直線的に牧ケ原をトンネルでくりぬいた。トンネル南側には旧東山道の堅錐駅があったと言われ、そこには神社があったものの、移転してトンネルを開けたという。飯田線の時とは異なり、地域が協力したが故の成果だったというわけだ。
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